4/13(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「多々良川河川散策」でした。
集合場所は、JR箱崎駅。参加者48人。
箱崎駅は、福岡空港の航路になっており、飛行機が頻繁に飛び交います。
9:30 スタート
米一丸地蔵は、鎌倉時代、駿河の国(現在の静岡県)で木島長者とまで呼ばれた朝臣元直なる上級貴族が、齢四十過ぎにして念願の子宝に恵まれました。生まれた米一丸は才覚に恵まれながら
成長し、二十歳の時、絶世の美女・八千代姫を妻にめとったものの、横恋慕した主君・一条殿の策略によって博多の地で夜襲にあい、命からがら逃れながらも箱崎の地で無念の自害を遂げたと
言われています。
コースは、宇美川沿いに歩きます。
最初の休憩地は、貝塚公園。
休憩後国道3号線を歩きます。
名島橋には、JR博多臨港線、西鉄新宮線、JR鹿児島本線の鉄橋が並んでいます。
名島橋を渡り多々良川沿いに歩きます。
多々良川の河畔には、安土桃山時代の武将で歌人の細川幽斎(1534~1610)の句碑があります。
「いにしへは ここに 鋳物師の跡とめて 今もふるみる たたら潟かな」
たたら潟は、広漠たる入江で、川砂からは砂鉄が採取され古くから大陸渡来の鋳物工が住みつき、鋳物を造っていたと伝えられています。
京都市右京区花園の臨済宗正法山妙心寺に所蔵されている工区法で日本最古の梵鐘(698年)には、鐘身内面に
「戊戌年4月13日壬寅収粕屋評造春米連廣國鋳鐘」と鐘銘があり、大宰府観世音寺の梵鐘とほぼ同時期に粕屋郡内の何処かの同じ工房で鋳造されたと伝えられています。
多々良川の入り口には、元寇の襲来に備えて船の進入を防ぐための乱杭が打たれていたとの記録もあります。
この付近は、足利尊氏と菊池武敏が対峙した「多々良浜の合戦」の足利勢の本陣跡の「陣の越」も近くにあり、多々良川一帯が一望できます。
また、多々良浜の合戦中に足利尊氏が援軍を頼むとの書状を鎧の片袖に包んで送った場所が「片袖塚」または「将軍使い」の名で残っています。
多々良潟には、鴨、カワウ、それに「クロツラヘラサギ」も来ていました。
多々良大橋を渡ります。
福岡流通センター入口に「多々良浜古戦場跡」の碑が立っています。
足利尊氏は建武の中興に功績がありましたが、親政を離反し、新田義貞らに敗れ、九州に逃れました。数年後、少弐氏や大友氏の応援を受けましたが、天皇方の菊池武敏や阿蘇惟道の軍と
戦うことになりました。建武3年(1336年)3月に、両軍は多々良川を挟んで布陣しました。軍勢的に不利な尊氏軍でしたが、菊池軍を破り、再び京都を目指しました。
神戸でも楠木正成に勝利し、同年11月に室町幕府を開きました。後醍醐天皇は吉野に逃れ、南北朝時代となりました。尊氏は九州の軍事拠点として九州探題を姪浜に設置しました。
多々良川での戦場は、現在の多田羅橋、多々良大橋、真州崎橋、松崎橋を含むあたりと思われます。この合戦での犠牲者数千人の鎮魂のため兜塚が作られました。
松田の交差点を右折します。ゴールの箱崎駅まであと少し。
11:57 箱崎駅にゴールしました。
今日のGPSです。