4/1(金) 家内の職場時代の同期の方が、白河に嫁いで暮らしています。私はこの彼女、あまりお話したことはありませんが、昔から知っています。
家内は、10年おきに開かれる同期会で会っているそうですが、私は約40年ぶりの再会です。
新白河駅で待ち合わせて、彼女の運転する車で白河市内を散策します。
新白河駅前には、松尾芭蕉の像が立っています。「心もとなき日数重るままに 白河の関にかかりて旅心足りぬ」
(意味は、気持ちだけが先立って落ち着かない日々を重ねるうちに白河の関にさしかかって旅をするんだという心が決まった)
今日の白河は、朝から小雪が舞っています。寒いです。
【小峰城址】
奥州関門の名城と謳われた小峰城は、結城親朝が興国・正平年間(1340~1369)に小峰ヶ岡に城を構えたのがはじまりで、寛永9年(1632)に江戸時代の初代藩主、丹羽長重が4年の歳月を費やして
完成させた梯郭式の平山城です。寛政の改革で知られる松平定信をはじめ、7家21代の大名が居城しましたが、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで落城。約120年の時を経て、平成3年(1991)に
三重櫓、平成6年(1994)に前御門が江戸時代の絵図に基づき忠実に木造で復元され、市のシンボルとして親しまれています。
平成22年8月5日に、その歴史的な重要性が評価され、国指定史跡となりました。(白河観光物産協会HPより)
小峰城址は、桜の名所です。現在、桜はまだ蕾ですが、5~6年前電車で白河駅を通りかかった時、車窓から見た桜は、綺麗でした。
小峰城には、「おとめ桜」があります。白河小峰城の外堀の石垣が何回となくくずれ、人柱を立てることになりました。
人柱は、現場近くを通った最初の者を、身分の上下、老若男女の別なく選ぶことになり、たまたま父親を迎えに来た藩士和知平左ヱ門の娘が、現場を通りかかって人柱にされることとなりました。
娘は逃げ回りましたが、ついに捕らえられ、小峰城築城の人柱となりました。この時藩士たちが逃げる娘を追いまわしたところが、現在「追廻」という地名として残っています。
この娘を悼んで、城内に「おとめ桜」の名で桜が植えられたそうです。この桜は戊辰の戦火で焼失しましたが、現在は二代目の「おとめ桜」が毎年見事な花を咲かせ城を艶やかに彩ります。
お昼は、彼女おすすめの「白河ラーメン」。連れて行ってもらったのは、市街地にある「手打ち中華 英」。人気店だけあってもう行列ができています。
豚骨や鶏ガラを主体とした醤油ベースの澄んだスープと、スープが絡みやすい多加水の幅が広い縮れ麺が大きな特徴ではあるが、店舗によっては細縮れ麺を出す店もある。木の棒で麺を打つ手打ち麺が伝統的なスタイルだが、最近は減少傾向にある。具はネギ、チャーシュー、メンマ、鳴門、ほうれん草など。ご飯は注文してないけど沢庵もついてきています。
注文したのは、醤油ラーメン。博多ですと豚骨ラーメンが主流ですが、この醤油ラーメンもおいしいです。
店内には、醤油、塩、味噌などのラーメンもあります。次回来た時には、全部制覇したいなぁ~。
お腹もいっぱいになり、次の目的地「白河の関」に向かいます。
奥州三古関のひとつに数えられる白河関は、奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、蝦夷(えみし)の南下や人、物資の往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられています。
その後律令制の衰退とともにその機能を失いましたが、『歌枕』(和歌の名所)として文学の世界で都人の憧れの地となり、能因や西行、松尾芭蕉など時代を代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しています。
現在も風流人の想いを描く地として愛されています。
●都をば 霞とともに 立ちしかど
秋風ぞ吹く 白河の関(能因)
●卯の花を かざしに関の 晴着かな(曽良)
●西か東か 先早苗にも 風の音(芭蕉) (白河観光物産協会HPより)
※奥州三古関 白河の関(福島県白河市)、勿来(なこそ)の関(福島県いわき市)、念珠(ねず)の関(山形県鶴岡市)
白河神社は、下野と陸奥の国境の関があった白河関跡を境内とし、関の明神、二所関明神とも呼ばれ、古墳時代の315年、白河国造・鹽伊乃自直命(しほいのこじのあたいのみこと)を
祀ったのが始まりだと言われています。治承4年(1180年・平安時代)は、源義経が兄・頼朝の挙兵を知り鎌倉に向かう道中に詣で、境内の松に矢を立て勝利を祈願したと伝わり、祈願をした
「矢立の松」が、小さな根元のみの姿となって残っています。 元和元年(1615)には伊達政宗が社殿を改築奉納したと言われ、本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋が刻まれています。
また、白河藩主・松平定信公はここが白河関跡であるとして寛政12年(1800年・江戸時代)に古関蹟碑を建て、翌年に神庫(かみくら)を奉納しています。
古関蹟の碑 白河藩主松平定信が寛政12年(1800)8月、ここが白河関跡であると断定し建立しました。
古歌碑 「白河関」を題材にした平安時代の著名な和歌三首が歌碑になっています。
能因法師の「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」意味は、「霞たつ春に都を立ったのに白河の関についてみると既に秋風が吹く季節になっていた。」
実は、後年古今著聞集の中で、能因法師は、奥州には行っておらず京にこもって日焼けをし、いかにも現地に行って詠んだように見せかけました。
平兼盛「便りあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の関越えぬと」三十六歌仙の一人、平兼盛が奥州に下り歌枕の白河関を越えた感激を都の知人にどうやって知らせようかと詠んでいます。
梶原景季「秋風に 草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし」源頼朝が文治5年(1189)7月29日、奥州平泉の藤原氏を攻める途中、能因法師の故実を思い出し、
側近の白河関の社殿で詠んだものです。
梶原景季というと、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出てくる梶原景時(中村獅童さん演)の嫡男です。ドラマでは、柾木玲弥さんが演じます。
曾良「奥の細道」日記 河合曾良は、芭蕉のお弟子さんで奥の細道の旅に同行しています。
「卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正して、衣装を改し事など、清輔の筆にもとどめ置かれしぞ。卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良」
意味は、「卯の花の頃に更に白い茨の花が咲き添っていて、雪の頃に関所を越える気持ちにさえなる。昔の人はこの関を越える時、冠を整えて衣装を正したと藤原清輔も書き残しているほどだ。」
西山国師の和歌「光台に見しかは 見ざりしを聞きてぞ見つる白河の関」1229年ごろ、西山国師は、蓮生上人らと共に関東を旅して白河の関を越え奥州へ向かう途中、蓮生上人に白河の関は
どのあたりですかとお尋ねになった時、蓮生上人が只今通り過ぎたところが白河の関と答えられたときに詠まれた和歌です。
また、西山国師遺跡霊場の第一番がここ白河の関です。
空堀(からぼり)跡 空堀は、敵の侵入を防ぐため、曲輪に沿って掘られた防御施設です。
土塁跡 土塁は、敵の攻撃や侵入を防ぐため曲輪の縁に土を盛って築いた堤上の防御施設です。
カタクリの花
アズマイチゲ
旗立ての桜 治承4年(1180)源義経が平家追討の為、平泉を発し、この神社に戦勝を祈願するため、旗揃えをした際に子の桜に源氏の端を立てたと伝えられています。
従二位の桜 鎌倉前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植えし奉納したと伝えられる老木で、推定樹齢800年、周囲5mです。
白河の関の横には、「白川」が流れています。これが「白河」の地名の由来になったとされています。
高校野球では、甲子園でまだ東北6県の優勝がありません。関の横には「目指せ!甲子園野球大会優勝」の看板がありました。
白河の関から「南湖(なんこ)公園」へ移動しました。
南湖公園は、寛政の改革で知られる名君・松平定信によって1801年に築造された日本最古といわれる「公園」です。定信は、この公園において、身分の差を越え誰もが憩える「士民共楽」という
理念を掲げ、塀がなく、いつでも誰もが訪れることのできる地を造りました。また、「共楽亭」という茶室を建てて、庶民と楽しみを共にしたと伝えられています。花と緑と水が織りなす
美しい風景は、200余年の時を経てもなお、白河の人々をはじめ、多くの観光客を魅了し続けています。
南湖公園の奥には、南湖神社があります。
後に初代宮司となる中目瑞男の呼びかけにより、地元市民や松平定信を崇敬する人々、また渋沢栄一の支援もあり、大正9年(1920)5月10日に神社設立が認可され、
大正11年(1922)6月11日に竣工し、御鎮座大祭が行われました。祭神は、白河藩主松平定信公(号 楽翁)です。
このあと、彼女に新白河駅まで送ってもらい、東北本線に乗って明日の「荒川・吾妻、花見山ツーデーマーチ」参加の為、福島市に向かいました。
福島駅では、福島名物の照井の円盤餃子をいただきました。