よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

サタデーウォーク「愛宕神社のほおずき祭りとシーサイドももちを歩く(福岡市西区~早良区~中央区)

2021-07-20 17:56:34 | ウォーキング

7/17(土)は、ふくおかウォーキング協会サタデーウォーク「愛宕神社のほおずき祭りとシーサイドももちを歩く」でした。

愛宕神社のほおずき祭りは、例年海の日を中心に行われますが、今年はオリンピックの為、海の日が7/22に変更になりました。

従って今年は722~23に行われます。集合場所は、JR姪浜駅。今日は朝から細かい雨が降っており、炎天下のウォーキングにはならないみたいです。

出発前のミーティングで会員の下〇さんが亡くなられたとのこと。下〇さんは、仕事の関係で毎回参加はできませんでしたが、ウォーキング指導員の資格も取られていましたが、残念です。

まだまだ若い60歳でした。ご冥福をお祈りします。

 

9:33 ウォーキングスタート

姪浜の地名の由来は、神功皇后が三韓征伐よりの帰途、上陸の際、下着の衵(あこめ)が濡れたので砂浜で乾かし「あこめの浜」と言っていたのが訛って「めいのはま」となりました。

神功皇后、武内宿祢以来大陸との交通、外交の拠点となり、政治的、宗教的、港町として発展の要素を持っていました。

元寇の折には、鎮西探題が浦山館として置かれ、以後渋川尭顕まで250年の永きに亘って外的侵攻を日本の国防として防いできました。

江戸時代には、唐津街道の宿場町として「姪浜千軒」とも言われました。明治22年に自治制となり、早良郡姪浜村としてスタート。役場は、現在の西鉄ストアの所に置かれました。

明治時代に石炭が発見され、大正、昭和と姪浜の発展を築いた早良炭鉱がありました。現在は、第一坑が豊浜団地に、第二坑が水処理センターに変わっています。

また、姪浜にはお寺が多く存在します。福岡藩(黒田藩)の西の防衛としての役割を兼ねていたのでしょうか?

 

ショッピングセンターを通り、住宅展示場の所から右折します。

  

愛宕神社に到着しました。階段を登り境内には、「茅の輪」があります。

昔、素盞鳴尊(すさのおのみこと)が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求められました。弟の巨旦将来は、豊かな生活を

していたのにそれを断りました。しかし、兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていましたが、素盞鳴尊をお泊めして、厚いもてなしをしました。

その後何年かたって素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 と

お教えになりました。

これから、「蘇民将来」と書いた紙を門にはっておくと災いを免れるという信仰が生まれました。茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものでしたが、時代がたつにつれて大きくなり、

これをくぐって罪やけがれを取り除くようになりました。

コロナもこれで退散すればいいのですが・・・・・

愛宕神社のほおずき祭りは、例年海の日に行われますが、今年はオリンピックで海の日が22日にずれ、22日~23日に行われます。

ほおずきが置いているかな?と思いましたが、ほおずきのお守りだけでした。

  

  

 

愛宕神社からの眺望です。昔は、神社の下は、海でした。ショッピングセンターから海の方のマンション数棟は、1995年(平成7年)行われたユニバーシアード福岡大会の選手村だった所です。

 

愛宕神社から下りてきます。下りてくると右側に「岩窟弁天社」があります。むかし、姪浜の住民が宗像宮に海上の安穏を祈願したところ、 「これより西南へ向かったところで、八里鷲尾山北麓の

海辺に有縁の地ある」 という神託があり、これによって、宝鏡を拝し、この岩窟に奉祀したという。その後、江戸時代に至り本地仏弁財天として鎮座して以来、霊験があらたかだったとされる

 

愛宕公民館が2回目の休憩地です。休憩後再スタート。室見川を渡ると早良区です。

  

ここからはシーサイドももちです。

  

今日は、雨模様の為、人工海浜では、泳ぐ人がいません。土日になるとたくさんの方が海水浴を楽しみます。

  

  

菰川の橋を渡り、唐人町に入ります。唐人町と付く地名は、九州には佐賀県や長崎県、そして熊本県にもあるのですが、いずれも「唐人」が居住したことからその地名が付いています。

しかしここ福岡市の唐人町は「続風土記」で『其始高麗人住せり』や、「拾遭」で『往古は唐船が泊まりしゆえ、如此名あるよし』など様々な諸説があり、地名の由来を確定するものがないのです。

唐人町という地名が歴史上初めて出てきたのは、1627年(寛永4年)成立の「筑前筑後・肥前肥後探索書」に記載されたもののようです。関が原以降、黒田藩が福岡城を築城した後、唐人町は

下級武士の町として発展。そして旧唐津街道が現在の唐人町商店街アーケードの中を東西に貫き、そこでは街道を行き交う人たちに商売を行う町屋(隣と接した、奥行のある店舗併用の住宅)が

自然発生的に発展していったといわれています。今でも福岡藩が博多湾からの都市防衛に要塞として建立したと見られる八つの寺院が密集しております。(All about 20th 旅行より抜粋)

また、福岡ソフトバンクホークスの本拠地「福岡paypayドーム」に近いことからホークスが勝った時など大いににぎわっています。

個人的には、私が小学生の頃、本格的なパン屋さんがここ唐人町にあり、よく買いに行った思い出があります。

  

唐人町商店街が唐津街道です。

  

11:51 大濠公園能楽堂にゴールしました。雨も本降りにならなくてよかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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