2/15(金)
2/16~17に千葉県南房総市で行われる「第29回南房総フラワーマーチ」参加の為、福岡発8:00の飛行機で羽田へ。羽田からバスで君津に。このバスは羽田よりアクアライン(海ぼたる)を通ります。
平日でしたので約40分で君津に着きました。
君津からはレンタカーです。運転していると雪が降ってきました。私自身今年初めての雪です。
ウォーキング会場の南房総市千倉までは、高速が早いのですが、別に急いでいませんので一般道を通りました。
千葉県は、今まで何回か行ったことがありますが、ここ房総半島は、初めてです。
「房総」という地名は、令制国の安房(あわ)国と上総(かずさ)国と下総(しもうさ)国の三国にまたがることに由来しています。
『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命(あめのとみのみこと)は、東国により良い土地を求め阿波の忌部(いんべ)氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し
開拓を進めました。そして阿波の忌部氏の住んだ所は、「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれたといわれています。
車で走っていると、房総半島には、「道の駅」が非常に多く見かけられます。(調べると南房総エリアで12か所)ただ、私が九州で知っている「道の駅」とは、何かちょっと違うような気がします。
お腹も減ってきたし、「道の駅とみうら」に立ち寄りました。地元の青物の魚を主体にした海鮮丼です。
13:30 ウォーキング会場の千倉保健センターに到着。事前受付をしました。
このあと、洲崎を経由して今夜の宿館山に向かいます。
房総半島は、半島付近を流れる黒潮の影響で、温暖な気候に恵まれたリゾート地。1年を通じて、海と花を満喫できます。
白間津花即売所の花が綺麗でしたのでちょっと覗いてみます。ここでは、花摘みも行われていて、現在、キンセンカ、ポピー、金魚草、菜の花、ストックなどの花が咲き誇っています。
この辺りの道路を「房総フラワーロード」と呼ばれていますが、まさにフラワーロードですね。お花畑の向こう側は、太平洋です。
洲崎(すのさき)神社に着きました。
神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓され、忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったのが当社です。
平安時代の延喜式神名帳に式内大社后神天比理刀咩命神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称されていました。
鎌倉時代の治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝公は、先ず当社に参詣し源氏の再興を祈願し、寿永元年(1182)には奉幣使を派遣し妻政子の安産を祈願して、
広大な神殿を当社に寄進されました。以降関東武士の崇敬篤く、里見家七代義弘は社領五石を寄進。徳川幕府も朱印状で安堵しています。
室町時代には、江戸城を築いた太田道灌は、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが神田明神の摂社八雲神社の前進と伝えられており、東京湾をはさみ湾の西海岸に位置する品川、神奈川にも御分霊を
奉斎藤する神社があります。また、成田市鎮座の熊野神社境内には、明和2年(1765)建立の「諸国六十六社」があり、四方に一宮の社名が彫られており、安房国一宮として当社の社名が彫られており、
広く信仰されていたことがうかがわれます。(洲崎神社HPより)
ここからは、富士山を見ることができますが、今日は午前中雪が降り、現在は止んでいますが、曇り空です。残念ながら見ることはできませんでした。
館山市内に入りました。館山というと曲亭馬琴(滝沢馬琴)の「南総里見八犬伝」です。その舞台となった「館山城」に向かいます。
三方を海に囲まれたこの地域は古代から海を通じた他地域との交流が積極的に行われていました。鎌倉時代には、幕府の置かれた鎌倉の経済や文化の影響を強く受けています。
当時、安房は、安西、丸、神余、東条などの豪族が勢力を持っていましたが、室町時代になると安房に進出した里見氏が治めるようになります。
その後、里見氏は、戦国大名として成長し、水軍を組織し、最盛期は下総まで領土を拡大します。江戸に幕府が置かれた後も外様大名として安房で勢力を維持し、慶長19年(1614)に倉吉へ国替えを
命じられるまで十代170年にわたり安房を治めました。(館山城パンフより)
館山城には、八犬伝博物館があります。開館時間は16:30までですが、もう時間も16時過ぎですので中に入るのは諦めました。
館山城には「恋人の聖地」があります。この枠の中に天気が良ければ富士山が見えるそうです。
残念ながら、曇り空で富士山が見えませんでした。
このあと、ホテルに帰り、明日からのウォーキング大会に備え、早めに床に就きました。
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