5/12(日)九州国際3DM最終日。今日も福岡の自宅を5:30過ぎに出て八代に向かいます。
会場に着いたのが、7:30過ぎ。すでに30kが出発した後でしたが、まだアンカーの方がスタートしていなかったので10分遅れてスタートします。
金剛歩道橋を渡ると1回目のお接待。赤飯のおにぎりがありました。
30kの分岐点で北九州のぼくちゃん、埼玉のSさん、北九州のIさんに追いつきました。
球磨川河口を歩くと、正面に鼠蔵山(そぞうやま)が見えてきます。ここには、高さ14m、幹回り7,9mの大きなアコウの樹があります。
民家の庭には、ブラシの花が咲いていました。歩いているといろんな花に出会えますね。
約10k地点の北原河川公園が1回目のチェックポイント。ここでは、トマト、イチゴなどが出されました。
栴檀(せんだん)の樹には、花が咲いていました。栴檀の花は初めて見ました。このあと、新前川橋を通って八代市街地へ向かいます。
橋を渡るとすぐ見えてくるのが「札の辻」。薩摩街道熊本城下から11里(44km)地点にもなります。
江戸時代、熊本城下から鹿児島へ向う主要道路は「薩摩街道」と呼ばれました。八代城の真南に位置し、前川(球磨川の支流)に面した一帯は、「徳淵津」と呼ばれ、古くから国内外との交易が盛んに行われていた
港です。徳淵の地名は、徳(財宝)の集まる淵(港)という意味です。 ここは、薩摩街道上の要衝で「札の辻」と呼ばれ、熊本城下から十一里(一里は約4km)の距離であることを示す「十一里木」や幕府や藩からの
お触れを掲示する「高札場」がありました。徳淵津は、その昔、海外からやって来た河童が、はじめて日本に上陸した地点と伝えられており「河童渡来の碑」が建てられています。(八代市文化まちづくり課)
本町商店街に来ました。前は、ここに熊本の鶴屋百貨店があったのですが、建て壊され、新しく病院が建設されています。
八代城は、元和5年(1619)の地震により、麦島城が崩壊したため、熊本城主加藤忠広(清正の子)が幕府の許可を得て、家老の加藤正方に命じ、同6~8年にかけて球磨川河口北側の松江村に築城した平城です。
寛永9年(1632)改易となった加藤家の改易により熊本城主となった細川忠利の父忠興(三斎)が入城し、北の丸を居所として本丸に四男の立孝(立允)を居住させました。正保2年(1645)閏5月に立孝が、
続いて12月に三斎が没したため、翌3年(1646)家老松井(長岡)興長が入城し、以後は代々松井氏が在城しました。落雷による焼失や明治維新後の取り壊しがあるも、本丸の石垣と内堀が残り、
本丸跡に懐良親王をまつる八代宮が鎮座しています。 (きなっせ八代より抜粋)
元禄元年(1688)、八代城主松井直之公が母崇芳院尼のために建てたお茶屋です。当時この辺りには松が茂り、八代海を見渡せる浜辺であったことから松浜軒と名づけられました。
別名「浜の茶屋」とも呼ばれていました。(国指定名勝) 四季折々の花々が咲き、特に6月上旬には約5,000本の肥後花ショウブが大輪の花を咲かせ、多くの人々の目を楽しませます。
また松井家に伝わる家宝を展示する松井文庫の資料館があり、宮本武蔵ゆかりの「戦気」の軸や手彫りの木刀も展示されています。(八代観光情報より)
八代駅は、大正時代から近郊に日本セメント八代工場、興人八代工場、メルシャンワイン工場、日本製紙八代工場などがあったため、八代駅西側からそれぞれの向上に向かう引き込み線がありました。
この引き込み線も、工場の閉鎖などにより1989年(平成元年)に廃線となりました。その跡地には、自歩道が整備されています。
2回目のチェックポイントは、八代ハーモニーセンターです。
12:10アコウの樹コースゴールしました。
この大会3日間福岡の自宅から通いましたが、車の走行距離は、3日間で1,100kmでした。
毎日福岡からの移動だけでも大変ですよね。
でも海外の方とのウォーキングも新鮮で楽しそうです。
いろいろなおもてなしもあって、満喫されたのがブログでよくわかります。
私も参加してみたいなぁと思いました。