よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)6日目(その2)「山鹿(熊本県山鹿市)~味取(熊本市北区)」

2021-07-02 18:45:26 | 薩摩街道(豊前街道)

(その1)からの続きです。

山鹿市街地をゆっくり歩いていましたら、1時間かかってしまいました。

山鹿大橋を渡り、街道ウォーク再開です。

 

南島の所には、「六里木跡」があります。熊本城迄あと24km。南島菅原神社の所の歩道橋を渡ります。

  

郡境石」です。「是ヨリ北山鹿郡」と書いてます。ここから鹿央町です。鹿央町は現在は山鹿市に合併していますが、合併前は、鹿本郡鹿央町でした。

鹿本郡は、鹿央町の他、菊鹿町、鹿北町、鹿本町、植木町でしたが、平成17年(2002)鹿央町、菊鹿町、鹿本町が山鹿市と合併、平成22年(2007)植木町が熊本市と合併し鹿本郡が

消滅しました。

「城ヶ鼻城址」は、現在祇園神社になっています。立ち寄ろうかと思いましたが、先を急ぎますのでパスします。

  

米野岳中学校の横から「うらやま坂」に入ります。路面は舗装されていますが、落ち葉があり、滑らないよう上ります。

  

うらやま坂を下りた所に「郷原八幡宮」があります。

 

街道の横には、柿や栗の実が大きくなっています。あと2か月ぐらいで収穫でしょうか?

 

鹿央町にも岩原古墳群など古墳の多い町です。「持松塚古墳」は、直径30m、高さ5mの円墳です。圃場整備工事の際、発見されました。

「比丘尼(びくに)坂」を抜けるとビニールハウスが並んでいます。これみんなスイカです。比丘尼というと尼さんの事ですが、このあたりに尼さんがいたのかな?

  

比丘尼坂を越えてしばらく歩くと「鹿央市民センター」です。「浦大間古墳跡」も圃場整備工事の際発見されました。

 

数里木跡(五里木跡)」熊本市新町の元標を基点として五里の里数木のことです。道の両側には、榎の大樹が四方に枝を張っていましたが、昭和20年代に枯れました。

 

鹿央町広町にやってきました。広町には、造り酒屋、紺屋、油屋などのたくさんのお店があり大変賑わっていたそうですが、現在では、酒販売店だけです。

 

善行寺」の看板があります。

善行寺は、参勤交代上の細川藩を始め薩摩の島津藩、人吉(熊本)の相良藩の歴代の殿さまが休息しました。十数年前のNHK大河ドラマ「篤姫」では、薩摩から船で向かったとされていますが、

実はこの善光寺でご休息されているのです。嘉永6年(1853)八月二九日九ッ頃となっていますので、お昼ごろ立ち寄ったそうです。

 

善行寺のオオマキ  山鹿市指定天然記念物となっている善行寺のオオマキですが、案内板の文字が消えそうですが、「善行寺は、細川藩、島津藩、相良藩の参勤交代の際、「御小御所」として

藩士以下の休憩場となっていた。この木は、和田次郎正善が寺を創立(1615年)した際、植えたとして伝えられている」

   

「豊前街道広町」の看板から左折します。

  

このあたりが、旧植木町(現熊本市)との境界。ビニールハウスには、スイカが栽培されていました。(今は、シーズンオフ)

  

マップでは、ここから乙貝橋に行くのですが、どうも道を間違えたみたいです。「水原」という地区に着きました。途中、案内板がないか確かめたのに・・・・(現実、案内板はありませんでした)

帰ってGPSで調べましたら突き当りを左折しなくてはいけないところを右折してしまったみたいです。山鹿市内を通るときは、豊前街道の案内板が多く迷うこともありませんでしたが、

町によってかこの豊前街道を重要視している町としてない町の差が出るのですね。(みやま市でも苦労しました)

民家があれば聞いてみようと思いましたが、その民家も少なく、ちょうど郵便屋さんが来られましたので聞いてみました。ただここは、山鹿市と熊本市(植木町)の分岐点。

熊本市(植木)の方は、わからないとのこと。県道119号線沿いに行くと植木町に行けるそうで119号線を歩きました。

「熊本市」の看板が見えてきました。ここから左折です。(乙貝坂)

  

しばらく坂道を歩くと「豊前街道」の看板がありました。ここからまた森の中を歩きます。

 

ここは、「三十六のお茶屋跡」。

案内文を見ると、「三十六から千田川に下る道は、両側が切り立った深い切通しの坂道になっています。こうした深い切通しの道は、加藤清正が軍事的配慮から作ったといわれ、

「凹道」と呼ばれているものです。江戸時代の記録には、熊本城下から五里程は、坂が多くほとんどが道の両側が高く切り立った凹道であったと記されています。・・・・」

そういえば、10年ほど前に豊後街道を歩いた時、大津から先の所が凹道になっていました。

尚、三十六というのは、三十六のお茶屋さんがあったのではなく、ここの地名が三十六だそうです。地名の由来がわかればいいのですが、案内文には書かれていませんでした。

  

案内板がないので少々不安になってきます。果たしてこの道でいいのだろうか・・・・

もうこうなったら聞くのが間違いないと近くで農作業をされている方に聞いたりしました。コースは、ビニールハウスの間を通ります。高速道の上の橋を越えると「山本小学校」に出てきました。

コースは間違っていませんでした。

 

  

山本小学校から下り3号線に合流し、すぐ旧道に入ります。右側には「内空閑(うちこが)城跡」の看板があります。もう疲れているので行ってみる気力がありません。

案内板によると、内空閑氏は「事跡通考系図」によると初代基貞のとき、明徳元年(1390)に伊賀の国から下向したと伝えられており、菊池氏の有力な家臣だった。

その後菊池氏末期の内紛と共に分立し、その滅亡とともに自立して室町から戦国時代にこの一帯を支配していたといわれている。

 

 

豊田川にかかる「平田橋」を過ぎとJA鹿本があります。スイカの出荷場でしょうか?植木は、日本一のスイカの産地です。

  

やっと瑞泉寺(味取観音)に到着しました。境内には、種田山頭火の像があります。

 

像の横には、山頭火の生涯が書かれています。

「種田山頭火は、本名種田正一。明治15年(1882)山口県防府市に生まれた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗しこれから流浪の生活が始まった。

熊本に来たのが大正5年(1916)彼が35歳の時だった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり、帰熊したり奔放な生活を続けていた。

大正12年(1923)関東大震災に遭い元妻の熊本に逃げ帰るが、酔って路面電車を止め、知り合いの記者に救われ、熊本市内の報恩寺に出家得家して耕畝と改名。

大正14年(1925)味取観音の堂守として読経と句作の独居を続けた。味取観音境内の句碑に刻まれた「松はみな枝垂れて南観世音」の句は当時の作である。

然し、これも永くは続かず一年二ヶ月にして去り、以来放浪生活を送り、昭和15年(1940)11月11日四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。59歳であった。」

山口県防府市駅前には、山頭火の碑があります。もう10数年前山陽道を歩いた時見つけました。

  

 

時間は13:18分 今日はここまでとします。3号線の味取バス停に行くと、ちょうど山鹿行のバスが来ました。約40分で山鹿バスターミナル到着。

これから、さくら湯に行って今日の疲れを落とします。

 

 


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