よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

唐津街道を行く№9(博多宿~福岡城)

2012-01-06 09:16:29 | 唐津街道

2月21日晴れ 唐津街道第4日目。
9時半、前回ゴール地の筥崎宮前に到着。
この街道も福岡市内中心部に入ってきました。
歩数計の目盛をチェックし、いざスタート。

筥崎宮の前からは、昔は一帯に松が植えられ、これが「千代の松原」と呼ばれていましたが、
今は、その面影もありません。
筥崎宮から100mぐらい行った所に道標があります。
地図ではここからが旧地名で那珂郡馬出村(まいだし)。
馬出という地名は、昔、宿場町から馬を出したのでこの地名がついたそうです。
因みにこの近くの吉塚は、筑後の豪族、星野吉実のお墓があったことから
「吉塚」とついたと何かの本に書いてありました。

馬出に入ると、右側に九大病院が見えてきます。
昔は、古い建物でしたけど、今、近代的な建物になっています。
私事ですが、子供の頃、叔母がこの馬出に住んでいて、夏休みなんか、
よく泊りがけで遊びに来ていました。九大病院の塀の前で従姉妹と遊んだことなど
今でも鮮明に覚えています。この塀当時のままでした。懐かしかったです。

その先を行くと、「日蓮上人銅像道」という石碑が建っています。
日蓮上人は、鎌倉時代、元寇で外国が攻めてくると予言しました。
このあたりは、文永の役(1274)で古戦場になったところです。
ここで街道を離れ、東公園へ。
東公園は、県庁が来る前までは、広い公園で野球場もあり、若い頃は、ここで
草野球をしたことがあります。
公園の中を歩くと「松原水」がありました。その説明文によると、
松原水は、「明治時代、博多部の井戸は水質が悪く、塩分濃度が高いため
飲用には適さず、千代付近に続く松林の千代松原の砂地から汲み上げた井戸水を
博多まで運んでいたがその水も人家の汚水で利用できなくなった。そこで明治29年
(1896)市設の井戸を設置、業者を通じて1桶(18*)1銭で売った。
この松原水と箱崎のおきゅうとは、博多の風物詩だったが、大正12年(1923)
上水道の完成で姿を消した。1900年大正天皇が皇太子時代来福した際、
この水を飲料水に御使用なられている。」

また、街道に戻り、崇福寺(そうふくじ)に到着。
このお寺の山門は、福岡城の本丸表御門が使われています。
お寺の墓地には、福岡藩黒田家のお墓もあります。
黒田家の墓地には入ることができません。
この墓地には、玄洋社(注1)、頭山満のお墓もあります。

再び街道に戻り、コースは千代の交差点へ。
街道では、ここから篠栗街道と交差しています。現在は国道201号線です。

その千代の交差点の所に「刈萱(かるかや)石堂丸地蔵尊」があります。
これは、高野山の「刈萱道心」の誕生地です。
刈萱道心のことは、浄瑠璃にもなっていますのでご存知の方もいらっしゃると思います。

この地蔵尊の道路を渡ったところの川の側に悲しい伝説の「濡衣塚」があります。
「昔々、聖武天皇(724~749)の時代、筑前守に任命された佐野近世という人物が
妻と娘の春姫を伴い、博多へ。長旅の疲れか近世の妻は異郷の地で亡くなり、
娘の春姫は、博多の毎日を泣き暮らしていました。
人々の勧めもあり、近世は再婚し、春姫の下に新しい母親が来ます。
ところが、この継母にとって春姫の存在は目障りでなりません。
ある夜、継母は一人の漁師を呼んで春姫が自分の釣り衣を盗んだと近世に
譫言(せんげん)させました。信じられないという顔の近世は、
継母に問いました。継母は何食わぬ顔で「そんなことはございますまい。
姫は寝所で寝ています。後妻の私が問えば角が立ちますので、あなたが
確かめに行ってください。」と答えました。
近世は慌てて姫の寝所に行き、灯りをともして部屋を見て、驚きの声を上げる。
寝ている姫の体の上にびっしょり濡れた衣がかかっています。
この地を預かる近世としては、怒りで気が動転し、手にした刀を寝ている姫
めがけて振り下ろしていました。
一年が経ちました。
近世は寝苦しさにうつらうつらとする中、枕元に一人の少女がたっているのに
気づきました。「濡衣の袖よりつたう涙こそ永き世までの無き名なりけり」
はっと眼を覚ました近世は、春姫が夢枕に立ち自分自身の潔白を訴えていたと
悟りました。姫のいじらしさに悔恨の涙を流した近世は肥前の松浦山で苦行積み
娘の霊を弔いました。そして博多に戻り、七堂(普賢堂、石堂、里の堂、辻の堂、
かやの堂、脇堂、瓦堂)を建立したといわれています。
また、無実の罪をかぶることで「濡衣を着る」という言葉は、この話に由来します。




※写真説明
左上、道標。ここより東糟屋郡と書いてます。左下、福岡藩黒田家墓所のある
崇福寺。右上、刈萱石堂地蔵尊、右下、濡衣塚

濡衣塚を後に、再び街道へ。
旧電車道を呉服町方面へ行きます。
その後川端へ。博多宿は、地図によれば、博多リバレーンあたりと書いてあります。
然し、リバレーンあたりは、ビルばかりで何も残っていません。
ビルを一回り廻ってみると、那珂川の側に「渡唐口跡」の石碑があります。
昔は、ここが博多の海の玄関口だったんです。
そういえば、この石碑の後には「鏡天満宮」があります。
ここは、菅原道真が、博多に最初に足を踏み入れた地点です。
博多宿は、他に見るところがないので足は福岡城に向かいます。(続く)




唐津街道を行く№8(筥崎宮)

2012-01-06 09:10:20 | 唐津街道

先日の唐津街道3日目のゴールが筥崎宮でした。
この筥崎宮は、皆様あまりご存知ないかもしれませんが、
福岡では、お正月の三社参りには欠かせないコースです。
正月3日の玉せせり、9月12日からの放生会(福岡では「ほうじょうや」といいます)、
などのお祭りもあります。



※筥崎宮楼門、文禄3年(1594)名島城主小早川隆景造営

筥崎宮は、延長元年(923)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の
宸筆を下賜され、壮麗な御社殿を建立しました。
御祭神は、宇美町でお生まれになった「応神天皇」応神天皇のお母堂様の「神功皇后」、
神武天皇の母君の「玉依姫命」をお祀りしています。
鎌倉時代の蒙古襲来の時には、亀山上皇が祈願し、俗に言う神風が吹き、
未曾有の国難に打ち勝ちました。
こうしたことから、厄除け、勝運の神として有名です。
今年も地元のプロチームの福岡ソフトバンクホークスやJ2のアビスパ福岡などの
チームが必勝祈願に訪れています。
また、ここは、大分の宇佐、京都の石清水とともに日本の三大八幡宮とよばれています。




写真説明
左上、一の鳥居(1609年)黒田長政建立
左下、ソフトバンクホークス、アビスパ福岡の祈願絵馬、
(後の松が御神木の筥松)
右上、宸筆の「敵国降伏」右下、お潮井とり
※山笠の時には、筥崎宮前の海岸でお潮井とりをします。


唐津街道を行く№7(青柳宿~箱崎宿)

2012-01-06 09:03:37 | 唐津街道

青柳宿を出たのが12:00。
そろそろお腹も減ってきました。
食べたいものをいろいろ空想しながら歩いています。
昔の人もそうだったんでしょうか?
街道は、五所八幡宮を経て田園地帯に入ってきました。
天気がいいせいか、、土手には、つくしでしょうか、家族連れでとっている人がいます。
3歳ぐらいの子供さんでしょうか、我々に向かって手を振っています。
それに答え我々もその子供さんに手を振ると、子供さんが喜んでいます。
なんと可愛いんでしょう。

街道は、新宮町に入ってきました。
新宮の「太閤水」は、街道の右側にありました。
説明文をみると、
「天正15年(1587)九州を平定した秀吉が大阪への帰路、ここで馬を休め、
自ら清水を汲んで飲んだ所です。
当時九州の大部分に勢力を伸ばしていた島津義久に対抗し孤軍奮闘していた
立花宗茂を助けるため、秀吉は20万の大軍を自ら率いて九州へ乗り込んで
きました。この秀吉を追って九州入りした堺の茶人「津田宗及」は、三代(みしろ)の
里で水を求めましたが、あまりよい水でなかったので、自ら井戸を掘り、湧き水を
得ました。秀吉はこの水を飲んでたいそう喜び、掘った者の名を聞き、即座に
「宗及水」と名づけました。
その後、京都大徳寺の江月和尚(宗及の息子)が立ち寄った際に、「飯銅水」と
改めましたが、後世に石畳の井戸場が造られ秀吉にちなんで「太閤水」と
呼ぶようになりました。」
現在では蛇口が設けられ、この日も水を汲みにくる方がいらっしゃいました。
この堂の裏側が水汲み場になっています。

その立花家ですが、この先の千田の交差点の先に「夜泣き観音」と呼ばれる
立花城落城にまつわるお話があります。
「元禄11年(1568)、立花城主立花鑑載(あきとし)の妻と子は、城を抜け出し
追っ手から逃げるため橋の下に隠れました。然し子供が泣き止まず、もはや
これまでと諦め、観音経を唱えました。すると子供は泣き止み追っ手から
逃げることが出来ました。
以後、子を思う母の気持ちを表した観音様として祭られ、子供の夜泣きを治して
くれるのでこのように呼ばれています」




※写真説明 左上、新宮町「夜泣き観音」、左下、新宮町「太閤水」
        右上、新宮~和白山道、右下、立花山のみかん

時計も13:00を過ぎ、お腹も減ってきました。
原上の交差点には色んなお店があります。
腹が減ってくると何をみても美味しく感じます。
その中で「赤のれん」と書いてあるラーメン屋さんがありました。
赤のれんのラーメンは、今日のゴール地、箱崎にあり、おいしいラーメンとして
有名です。
迷わずラーメン屋さんの暖簾をくぐり、ラーメンを注文。
そういえば今日は朝5時に簡単な朝食を食べ、それ以外は
何も口にしていませんでした。
出されたラーメンは美味しくあっという間に完食。

お腹も満腹になり、再び出発。
このラーメン屋さんの先を左に行くと、今日2回目の山道に入りました。
ここは、殿様道といって新宮町と和白の境界になります。
山道を登っていくと両側がみかん山。
カラスを追っ払うためでしょうか、時々、鉄砲のような音がしています。
道には、みかんの食べ掛けが散乱しています。
どこかの誰かがみかんをちぎって食べそこに捨てたんだろうと思ってましたが、
違うんです。カラスがみかんをくわえて、食べやすいように上から落とすんです。
改めてカラスの利口さに閉口しました。

山道を下ると国道3号線に合流。
ここから福岡市東区上和白に入ります。
1月2日に北九州若松を出発し、3日目で福岡市内に入りました。
街道はしばし3号線と平行しています。
下原の交差点近くに差し掛かりました。
地図では、下原の信号の手前を左に入るようになっています。
ここは、旧3号線でしょうか?昔々通ったような気がします。
淨光寺を抜けると池がありその右側には九州産業大学が見えてきました。
そのまま進むと、香椎の商店街に出てきました。
右側が西鉄香椎駅、左側がJR香椎駅になります。
ここで休憩のためJR香椎駅へ。今日3回目の休憩です。
万歩計を確認すると内殿橋から約20km。道を間違えたので本当は
約25kmぐらいです。




※写真説明 左上、池の向こうは九州産業大学、左下、香椎跨線橋
        右上、博多バイパス(松崎)付近 、右下、筥崎宮前信号

15分ぐらい休憩し、15:00JR香椎駅を出発。
JR鹿児島線沿いの細い道を歩きます。
ここは、交通量も多く、おまけに歩道帯もありません。
香椎宮に行く道と交差し踏切になっています。
そこを横断するのですから、危険です。
ここは、ちょっと考え、遮断機が下りるのを待ち横断しました。

踏切を渡ると、右側にはマンションが・・・・
30数年前までは、国鉄の車両区で広い敷地にレールが沢山敷かれていたと
記憶していますが、昔の面影は全然ありません。

変わったことといえば、この先多々良中学のところが3号線博多バイパスに
なっており、細い道が片側3車線の広い道路になっていました。
まるで浦島太郎の心境です。

火の見下の信号で3号線バイパスと別れ旧道に入ります。
多々良川の大橋を渡り、都市高速の下を通ると流通センターに入ってきます。
ここは35年ぐらい前に建てられ、今では倉庫会社などが沢山入っています。

街道は、原田橋を渡り、箱崎宿へ入る。
箱崎の街中を通り今日のゴール地、筥崎宮へ。
16:17到着。
本日の歩行距離、引き返したりしましたが約32km。
本当でしたら内殿橋から27kmぐらいです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日の交通費
JR 博多~福間 @450 、バス福間~内殿 @190
地下鉄箱崎~博多@200
昼食代 
ラーメン@450 、コーヒー代@150、おやつ@380


唐津街道を行く№6(畦町宿~青柳宿)

2012-01-06 08:58:28 | 唐津街道

2月7日の日曜日に唐津街道「畦町宿~青柳宿~箱崎宿」まで
約30km歩きました。
当日は天気も良く、絶好のウオーキング日和でした。

朝、6時50分に自宅を出発、地下鉄、JR、バスに乗り換え、前回ゴール地の
上西郷小学校に着いたのが8時17分。
簡単なストレッチのあと、いざ出発。
内殿信号の県道を古賀方面に向かいました。
今日は前半、ならの木坂という急な峠があるということを地図などで
予備知識を入れていました。
県道を右に入るとならの木坂に入ると地図には書いてあるんですが、
行けど右に入る道がない。結局、旦ノ原井戸まで来てしまいました。
そこでもう一度地図を見直すと内殿の信号をすぐ右に入って内殿橋を通らないと
行けなかったのにまっすぐ来てしまいました。
どうしようかと惰性で歩いていると高速道路古賀PAの入口まで来てしまいました。
「ちょっとコーヒータイム」と家内に言い、古賀PAで今日最初の休憩。
こちらは、てくてく街道を歩いている・・・・ここは、現代の街道の高速道。
その高速道PAで休憩しているなんて何か滑稽で可笑しい。

家内は、もう戻るのはイヤというが、折角の街道歩き、少しでも昔の人と同じ道を
歩いてみたいので、ここは家内を説き伏せ戻ることにしました。
これが、今日の前半だったから戻る決心がついたのですが、終盤だったら
おそらく戻らなかったでしょう。

万歩計のメモリーをチェックし、今来た道をUターン。
内殿橋は信号のすぐ近くにありました。
橋を渡ると険しい山道になってきます。
山道の脇には「唐津街道」の小さな標識があります。
そういえば、昨年放映された、シンクロの原田早穂さんも「山陽道てくてく旅」で
この坂を苦労して登られていました。
ちょっと、ミーハーですけど、今私は原田さんと同じ道を歩いている。そう思うと
何だか元気が出てきました。
坂を下ると県道に合流し、しばらく歩くと先ほど休憩した古賀PAの入口に到着しました。
時間は10時20分。ここで1時間のロス。




※写真説明 左上、ならの木坂、右上、旦ノ原井戸、
        左下、唐津街道道標、右下、福岡県馬術競技場のお馬さん
     
街道は古賀市に入りました。
古賀市は昭和30年ごろ、周辺の小野村、青柳村、古賀村が合併して出来た町で
平成になり市制になりました。

県道を青柳宿に向かって歩いていますが、この道路は歩道がなく、交通量も
少ないため車はスピードを出しています。道路の側道を歩いているんですが、
時々、車のけたたましいクラクションに道路の隅の方に追いやられます。
私も車の運転はしますが、よほどのことがない限りクラクションは鳴らしません。
道路は皆のもの、もう少しゆとりを持ってくれたら・・・と思いました。

話は横道にそれましたが、ガードレールの左側に唐津街道の道標があります。
それには、青柳宿1里、畦町宿2里と書いてあります。
青柳宿まであと1里(4km)です。

左側にドーム型の建物が見えてきました。
中に入ってみると、「福岡県馬術競技場」でした。
そうそう、原田早穂さんもここでお馬さんに乗られましたね。

競技場の道をまっすぐ行くと地図では、また道標があるようになっています。
この道標、探してすぐ、あったのですが、誰か心無い人が白いペンキでいたずら書きをして、
反対側は見にくくなっていました。
写真に収めたかったのですが、あまりに見にくいため、写真は断念しました。
青柳宿までは、あと半里(2km)です。

高速のガードを抜け、右側の交番の横を抜けると「青柳宿」に着きました。
宿の入口の案内看板を見ると
「慶長10年(1605)にお茶屋(本陣)を中心として作られ、以後3期40年かかって
広げられました。その後元禄時代初期(17世紀末)に街並みが完成。
総延長444m、100軒前後の家々が軒を連ね、明治時代まで裏糟屋郡の
中心地として栄えました。
青柳宿は江戸時代2回、明治時代に1回の大火に見舞われ、現在は鈎の手形往還や
西構口に宿場の面影をわずかに残しています。」

旧お茶屋さん(本陣)は、通りの突き当たりにありました。
私達は図々しく、この家を尋ね、この家に残っている宿板を見せていただきました。
この宿板は、黒田藩、薩摩藩、唐津藩の3枚がありました。
宿板の長さは90cm、幅30cmぐらいのものでした。
お茶屋さんの前に昔の佇まいを残している醤油屋さんがあり、
中に入るとまるで江戸時代にタイムスリップしたみたいでした。
私は、大きなメーカーの醤油はあまり買いません。
どちらかというと、地元の醤油を主に買います。
また、地方に行けば、必ずその地の醤油屋さんを訪ねていきます。
値段の割には、美味しいお醤油があります。
これが、楽しみなんです。隠れた醤油コネクターかな?(笑)




※写真説明 左上、青柳宿入口 右上、青柳宿街並み
        左下、太宰府神社通路、右下、黒田藩宿板

宿場の西には、構口(かまえぐち)跡、青柳村役場跡、太宰府通路の石碑
などが残っていました。                          (続く)
(内殿橋から青柳宿まで約7,5km)

※「構口」・・・・街道の出入り口にあります。



唐津街道を行く№5(畦町宿~青柳宿)

2012-01-06 08:43:32 | 唐津街道

卯建(うだつ)、バンコが残っている宿場「畦町宿」

原町宿を過ぎ、大穂に入る。橋を渡ると道が二手に分かれている。
左は川沿いの道、右手は先で大きな道に交差する。
もう一度地図を確かめ、右側の道を選んだ。
地図では、峠を下った所に「太閤水」があると書いてあるが、峠を上っても
下っても太閤水がみつからない。
民家に聞こうと思っても近くに民家がなく、ただひたすらに歩き続けた。
旧道は、福津市(旧福間町)に入った。
いくつかの峠を下った所に「太閤水」があった。
※(太閤水は、若松の所で説明していますので省略します。)
太閤水は、若松に次いで2箇所目。

月の森池の廻りを通っていくと、「許斐(このみ)窯」が見えてきた。
この先の、畦町橋を渡ると「畦町宿」です。


※写真説明 左上、太閤水、右上、月の森池
        左下、天満宮の変わった形の蘇鉄、右下、畦町宿の町並み

畦町宿は、福津市の案内板によると、
「畦町は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅の一つであった。
慶長5年(1600)、関が原合戦後、黒田長政が筑前の国主として
入国するまでは、まだ人家も少なかったが、寛永19年(1642)、
唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と赤間宿(宗像市)との間、
約4里(16km)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村と本木村の
一部を街道沿いに集め、宿駅として新たに成立したのが、畦町村である。
当時100余軒の戸数があり、480余人が住んでいた。
街道を行き交う人も多く、商家が圧倒的に多かった。
南北に通じる町並みの入口の両端には、関所のようにして、
「構口(かまえぐち)」があり、御制札所や役人詰所があった。
宿場町として栄えた畦町村も明治年代以降は宿場廃止や鉄道、国道開通
など交通路線の変革とともに宿場の機能を失った。
今では、この宿場と折りも古い家は建て替えられ、昔の家並みは少なく
なったが、「杉ぼて」や「卯建(うだつ)」など江戸時代のたたずまいが
残っている所もあり、宿場町の名残が感じられる。」



※写真説明 左上、バンコがある民家、右上、旧造り酒屋
        左下、卯建のある家、右下、旧庄屋跡。(今は石碑が建っている)

町の中を歩いてみると、民家にバンコ(縁台、ポルトガル語)があり、
今は留め金か何かで閉まっていますが、ここで将棋や碁などを
していたんでしょう。
また、左下の写真のように防火の為に隣に火がうつらないようつけた壁、
卯建(うだつ)、旧造り酒屋には、今はないけど、杉ぼてなど
懐かしく、江戸時代にタイムスリップしているような感じだった。
注)卯建(うだち)・・・梁の上に建て棟木を支える短い柱。又は江戸時代の
             民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの
             袖壁。装飾と防火を兼ねる。
             卯建が上がらないというのは、裕福なところでないと、卯建が
             上げられなかったことから転じています。

注)石碑の高村翁(医師)は、健康保険の基になった定例医として村の医療に
  携わった方です。

懐かしい畦町宿をあとに、街道は上西郷小学校の方に向かった。
ここを左折すると青柳宿の方になるが、今日の行程はここまでとする。
ここまで26386歩(約20.6km)7時間15分



長崎街道を歩いています№16「直方~黒崎」

2012-01-05 13:17:07 | 長崎街道歩き
1/3 今年の初歩きとして長崎街道「直方~黒崎」まで歩きました。
博多駅発7時27分の電車に乗り直方駅に着いたのが8時40分。

私、今年まだ初詣には行っていません。
今回は初詣を兼ねてのウオーキングです。
先ず直方駅近くの「多賀神社」へ。

多賀神社は、黒田直方藩5万石の産土神として栄え祭神は天照大神の両親のイザナギノミコト、
イザナミノミコトです。ご利益は「家内安全、夫婦円満」だそうで家内としっかりお参りしました。

多賀神社の横には石炭博物館があります。
館内は正月休みの為入ることが出来ませんでしたが、石炭全盛期の機関車などが展示されていました。

参拝の後、街道歩きに出発します。
遠賀川にかかる日の出大橋を渡り左折します。
今日は朝、寒かったので防寒着、手袋を付けてのウオーキングですが、遠賀川からの
風が強く冷たく吹いてきて寒いです。

30分ぐらい歩くと感田「阿高神社」に到着しました。
ここでもお参りします。
この神社の横には筑豊電鉄の「感田駅(がんだ)」があります。

又街道は川沿いに歩きます。
この道路、歩道もガードレールもなく対向する車に注意しながら歩かなくてはいけません。

約1時間後、「木屋瀬(こやのせ)宿」に到着しました。
江戸時代筑前黒田藩は、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の6宿を開設しました。
この6宿を総して「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼んでいます。


木屋瀬宿は唐津街道「赤間宿」と遠賀川を通じ結ばれていました。
また、川を利用して水運も発達していました。
宿場は東構口から西構口まで約1.1キロメートルの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で
「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。これは、「矢止め」と呼ばれ、
敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために
配慮されたものと言われています。宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所
などの施設と共に14、5軒の旅籠がありました。
   
※伊馬春部は、戦前から戦後にかけて小説やラジオドラマの分野で活躍した人です。(Wikipediaより)

木屋瀬宿には「船庄屋」「村庄屋」「宿庄屋」がありました。
「船庄屋」(松尾家)は、村全体を統括した。屋号を灰屋と称し、問屋役、人馬支配役、村庄屋役
などを務めました。
「船庄屋」(梅本家) 年貢米の集積場である本場(米場)が置かれ、その輸送は権利を持った
24艘の川ひらた(川舟)に限られていました。この24艘の管理を行っていたのが
船庄屋です。
「宿庄屋」は、旅籠など宿内を統括していました。
   
宿場内を歩いてみると何か江戸時代にタイムスリップしたようです。
私感ですが、2週間前に歩いた内野宿に比べると何かこちらの方が活気が感じられます。
   

   

    

    
※コテ絵は、左がダルマ、中がここの宿場踊り、右が街道を歩いた象

    

時間も11時半を過ぎてきました。
今日はもう一つ行かなければならない所があります。宿場町を一通り廻り、筑豊電鉄木屋瀬駅に行きます。
ここから電車で15分ぐらいの所に約30数年前によく行っていたチャンポン屋さんがあります。
そのころはJR八幡駅近くでしたが移転しましたのでそれ以来行っていません。
久しぶりにここのチャンポンが食べたくなりました。(八幡店はここの系列店があります)
永犬丸(えいのまる)駅から歩いて10分。ありました。「銀河のチャンポン店」が。
店も昔は10人ぐらい入ると一杯でしたが広くなっています。
メニューを見ていますと焼きそばもありますが、ここは迷わず「チャンポン」です。
ここのチャンポンの特徴はチャンポンの上に唐揚げが乗っています。
鶏肉がちょっと苦手な私ですが、この唐揚げは食べられます。
待つこと数分、来ました、30数年ぶりの再会です。
スープを一口すするとこの味です。味は30数年前と変わっていません。
また、お腹が減っていたのでご飯も注文しましたがこのご飯、どんぶり飯です。
いくら大食漢の私でもこんなには食べられません。家内にも手伝ってもらいました。

  

食べ終わり店内を見てみるともう20人ぐらいのお客さんが順番待ちされています。
私たちはすぐテーブルに座れましたがちょっとでも遅かったら随分待たされたでしょうね。
また電車で木屋瀬駅まで戻ります。

もう満腹状態ですが、再び街道を歩き出します。
真名子を通り馬場山へ。
茶屋の原に「一里塚」があります。
茶屋の原という地名は秀吉が朝鮮征伐の時ここでお茶を飲んだから付けられたとか。
長崎街道にはこういった「一里塚」が約4kmごとにあります。
飛脚とか乗馬の運賃の目安になったそうです。

   

ちょっとここでアクシデント発生。
チャンポンとご飯を食べ過ぎてしまったのか私のお腹がいたくなってきました。
コンビニやスーパー、喫茶店などを探しますが旧道にはそんなものがありません。
どこかないかな?と探しますがこんな時ってない時はないのですね。
前方に馬場山インターが見えてきました。ここならあるだろうと思って。
インターの事務所の人に事情を言って何とかホント何とか無事危機を脱することができました。

街道は一旦国道に合流しすぐ池田小学校前の交差点を左折します。
左側には山陽新幹線の高架が見えてきます。
しばらく新幹線を見ていますと速いですね。あっという間に私たちの目の前を通り過ぎていきます。
それに比べ私たちは、てくてく旅。何かこの対比が面白いです。

「石坂」という所に来ました。
「興玉神」の横に階段があります。
昔はあまりにも急な坂でしたのでお殿様も駕籠から降りて歩いたそうです。
登り終えたら左側に「立場茶屋銀杏屋」があります。
3年前のNHK街道てくてく旅で原田早穂さんもここで休憩されています。
銀杏屋の名のごとくお茶屋さんの横には大きな銀杏があります。

    

「上津役(こうじゃく)」という町に入ってきました。
この上津役という地名はどういう由来があるのでしょうか?
いろいろ調べてみますがわかりません。
またこの辺りは「永犬丸(えいのまる)」「木屋瀬(こやのせ)」「京良城(きょうらぎ)」など
読みにくい地名があります。

国道211号線(長崎街道)を歩いていると工事区間があります。
道路拡張工事みたいです。
ここに「やから様」というのがあります。
由来を読んでみますが、見難く判読できません。あとで調べてみるとこの地区の人は
子供の癇癪を「やはら様」と言うそうです。源平合戦の折、平家の逃げ延びた母子がここに隠れて
いましたが、子供の泣き声で源氏にみつかり自害したそうです。
このやから様も工事のため移転するそうです。

   

凉(すずみ)天満宮」があります。
このお宮さんには伝説があります。
 この神社は菅原道真をお祀りしている菅原神社です。
 前の道路は旧長崎街道で境内にあった大松の下で旅人が休息したのでこの松は「夢想の松」
 「凉(しず)み松」と呼ばれいつしか神社も「凉天満宮」と呼ばれるようになりました。
 今では松の木も枯れてなくなってしまいましたが、次のような言い伝えが残っています。
 江戸時代正徳年間(1711~1716)のある年、長崎の熊部新治郎という人が所用で京都に
 上る途中、ここで休息し松の枝にお金の入った荷物を掛けた事を忘れ去ってしまいました。
 翌年新治郎が帰郷の時、再び立ち寄ってみた所荷物はそのまま残っていました。
 新治郎は神のお陰と感謝し、石鳥居を寄進したということです。
 これからこの松は「かね掛けの松」とも呼ばれるようになりました。


211号線京良城を過ぎ、焼肉屋さんの所を右折します。
この辺りが「幸神(さいのかみ)」になります。
曲がった所に「古街道」という碑が建っていました。
読むと「旧藩時代小倉より黒崎を経て肥前筑後方面に通ぜし街道なり」と書いてあります。



幸神一里塚を過ぎるとお宮さんがあります。
ここが「幸神(さいのかみ)神社」です。
名前がすぐ気に入りまたお参りします。
由緒は書いてありますが、薄くなっており判読できません。
昔は街道の守り神だったのでしょうか、廻りには草鞋などが奉納されています。



もう黒崎宿はすぐそこです。
宿場の入口には「曲里(まがり)の松林」があります。
この松並木は幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で黒崎から木屋瀬にかけて
昭和20年ごろまでは多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の
面影をとどめているのみです。
松並木は幅20~30m、長さ310mで中には江戸時代から生き延びている松の木もあります。



乱橋に来ました。
ここには「筑前六宿街道」の石碑が残っています。



時間も5時近くになってきました。
黒崎宿の探訪は次回にして今日の街道歩きを終了します。
いよいよ次回は小倉常盤橋にゴールします。



今回もGPSをもって行きましたがまたこのGPS機嫌が悪いのか記録していませんでした。














新年あけましておめでとうございます

2012-01-01 00:00:01 | 日記
2012年1月1日
新年明けましておめでとうございます。




昨年は色々なことがありましたね。
今年こそはよい年でありますように・・・・

写真は過去何年かの我が家の近くで撮った初日の出です。
昨年は雲の間から少しだけお日様が顔を出しました。
今年の予報は曇りです。
時間は7時20分ごろ。日の出がみれるかな?





今年もどうぞ宜しくお願いします。