よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウオーキング№16-(その1)「宮宿~笠寺観音」(名古屋市熱田区~名古屋市南区)

2017-01-11 18:39:48 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

1/4 ホテルを7時半に出てJRで前日のゴール地金山駅に向かいました。今日も天気はよくウオーキング日和です。

佐屋街道の道標は、金山新橋南交差点のコンビニの前にありました。

   

これから伏見通りを通って宮の渡しに行きますが、途中にある「熱田神宮」に立ち寄って行きます。

ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。

天照大神は、言うまでもなく、皇室の御祖神とも至高至貴の神とも仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神です。又、相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、

宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々です。

御鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父・景行天皇から信任を授かった日本武尊は、東征の帰途、尾張国造の御女である宮簀媛命をお妃とされ、

やがて草薙神剣をこの国に留めておなくなりになります。宮簀媛命は尊の御遺志を重んじて、神剣を今の熱田の地にまつられました。今からおよそ千九百年前になります。(熱田神宮HPより)

今日4日は、会社関係の仕事始めからでしょうか、境内には、スーツ姿の方が多く見られます。

    

広重の宮宿の浮世絵は、5月5日の祭礼に熱田の町の裸馬を仕立てて参拝する様を描きました。

    

 参拝の後、七里の渡し に向かいます。この地は三重県桑名宿から宮宿までの海上七里の航路の船着き場です。

この距離が七里(約28km)あったのでこの名前が付きました。船は渡し舟で約4時間かかり、干潮時は沖を通るので10里ぐらいかかったそうです。

   

 

松尾芭蕉は、旅の初期に熱田に度々訪れ、林桐葉の計らいで名古屋・鳴海の門人達と交流し、七里の渡しから舟遊びであゆち潟(愛知の語源)を楽しみ熱田三歌仙を残しました。

・ この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ

・ 海暮れて 鴨の声 ほのかに白し

・ なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草

 

宮宿は、東海道の中でも最大の規模で本陣2、脇本陣1、旅籠248ありました。本陣は赤本陣と白本陣です。

赤本陣は、ひつまぶしで有名な蓬莱陣屋の隣にありました。(今は案内板だけ)

  

旧東海道に来ました。

近くに「ほうろく地蔵」があります。説明を読むと、この石地蔵は、もと三河国重原村(現、知立市)にあったが、野原の中に倒れ捨石のようになっていた。三河より焙烙を売りに尾張に来るものが、

荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、、ここで焙烙を売りつくしたた後、海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこの石仏を発見し、土中に埋まっていた台座と思われる角石に置いた。

 ※焙烙・・・・・・素焼きの平たい土鍋。

デイサービスの所に道標があります。ここが東海道と佐屋街道の分岐点でした。

   

   

このあたりは、2年前「名古屋ウオーク」で通ったことがあります。家康が御幼少のころ、この辺で幽門された場所があるそうで探すが見つかりません。

近くの喫茶店で聞くともう今はないそうです。ついでにモーニングを頂きました。(これで@500です。)

  

ビジネスホテルの前に「裁断橋」のモニュメントがあります。

大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。

橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。

1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市の文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。

そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。

1590年、18歳の堀尾金助は小田原の戦いに出発しましたが、病に倒れ帰らぬ人となりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。

その後、33回忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました(熱田区HPより)

裁断橋の横には、「都々逸発祥の地」の碑があります。

寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったという。

その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から名古屋全域に広まっていきました。

やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となりました。

   

熱田橋を渡ります。このあたりは、パロマやブラザーなど名古屋が本社の日本を代表する会社が建ち並んでいます。

  

山崎の長坂に来ました。ここは、呼続(よびつぎ)という地区で、古来、呼続一帯は、四方を海と川に囲まれた巨松の生い茂る陵の浮島として「松巨嶋」と呼ばれ尾張の名所でした。

ここは、東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差しています。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われています。

芭蕉は、「寝覚めの里よびつぎ」と書き記しこの地に足跡を残しています。また山崎の長坂に接する山崎の立て場は宮宿への往還の地として賑わい、宮宿より渡し船の出航を呼び継いだことから

「よびつき」の名があると言われています。

  

鎌倉街道という案内板があります。えっ、鎌倉には東海道を通って行けばいいのでは・・・・・・と思うのですが、鎌倉時代、全国から鎌倉へ向かう道として設定されました。

愛知県では、一宮~清州~あま市~名古屋古渡~鳴海~豊明~三河のルートだったそうです。

また、 室町時代には、星崎の七つの村(南野、荒井、牛毛、山崎、笠寺、本地)に約百町の塩田があり、前浜塩と名付けられていた。塩付街道はここでつくられた塩を北方の内陸へ運ぶ道として利用されました。

塩付街道の出発点は南区呼続町にある冨部神社でそこから笠寺へ行き、笠寺から瑞穂区を通り、石仏、川名、仲田、古出来町方面を経て、瀬戸街道へと結び、

さらに北上して高蔵寺より中山道に続く街道として重要でした。塩が馬の背に付けられて運ばれたことから塩付街道と名付けられました。

今は、住宅地が建ち並び近くに海があり、ここで塩を作っていたなんて信じられないですね。
 

  

富部(とべ)神社に来ました。由緒を見ると、慶長8年(1603)津島神社の「牛頭大王」を勧請したもので「戸部天王」とも「蛇毒天王」とも呼ばれています。

清州城主松平忠吉(家康の四男)は、当時の富部神社の霊験あらたかな事を知り、病気平癒を祈願したところ、日ならず本復したと言われ、その恩に報いるため、

慶長11年(1606)に本殿、祭文殿を創建し毎年百石を寄進されました。本殿は、一間社流造、檜皮葺で正面の蟇股(かえるまた)、破風、懸魚、脇障子など桃山時代の建築様式を

伝えており、国の重要文化財に指定されています。また、神社境内の保管庫には享保12年(1727)製の高砂車と呼ばれる車楽(だんじり)が1台保管されています.車体も古くあまりに高い車高のため,

昭和12年名古屋で開催された「汎太平洋博覧会」に曳かれた翌年頃から,道路事情などで曳くことが不可能になりました.現在では上層部を外し保管されています。

10月の大祭には保管庫が開けられ能人形など飾り付けられて一般公開されています。

   

笠寺に来ました。スーパーの前に立つと、蛙の置物があります。調べてみると、今から約400年前、戸部城主・戸部新左衛門という乱暴な殿様がいました。外出の折、面前を横切るものは、

なんでも無礼打ちにしていました。ある日、新左衛門の面前を一匹のトノサマガエルがさっと横切りました。お供衆は息を飲んだが乱暴な新左衛門も、その蛙の飛ぶ速さに心を奪われ、蛙は命拾いしました。

それから誰ともなく、“山崎(現在の名古屋市南区)越えたらとべ、とべ”と洒落るようになったとのことです。こうした言い伝えから、“命拾いをして無事にカエル”といった願いを込めて、

瓦職人が粘土で蛙を作って焼き、それを笠寺観音の参道に並べて売った土産物が、戸部の蛙の始まりだとされています。

  

笠寺観音(笠覆寺)です。略縁起を見ると、笠寺観音は、天平5年(733)呼続浜に桂旦国誉(けいたんこくふ)山の霊木が漂流して毎夜霊光を放ち、これを見た人は病気に罹ったという。近くに住んでいた禅光上人は、

不思議なる夢告を受け、その霊木を以って十一面観音菩薩を刻み、寺を建立し霊像を安置して、天林山小松寺と称した。

その後約200年の歳月が流れ、寺は荒廃し、堂舎は崩壊して、本尊は野中に立って雨露にさらされたままであった。

ここに一人の娘が鳴海長者太郎成高の家に仕えていた。長者の妻は彼女の美しさを妬み、朝夕草刈り、潮汲みをさせ雨の降る日も笠も与えずひどく使うのを、人が哀れみて、笠を与えたが、

信仰深い娘は、その笠を本尊に覆い、自ら発願して「人我に笠を与ふ、我歓喜にたえず、我また是を世尊に供養し奉る。ねがはくば、大慈大悲我が行末を救ひ給へ」と祈念し、本尊を雨露から守った。

その後関白藤原基径(もとつな)の子、兼平中将東国下向の際、成高が家に宿どり、娘の非凡なるを見て、自分の妻としてむかえた。此れを玉照姫と言ふ。

延長8年(930)兼平公は婦人と共に、下向し現在の地に仏殿坊舎を建て、大慈大悲の功徳を未代までも伝えんことを思ひ、婦人が本尊に笠を覆えたる縁をもって寺号を笠覆寺と改称し、

以後真言秘密の道場と栄えた。

その後300余年を経て、再び仏堂又破壊し、嘉禎4年(1238)に二位の房 阿願上人によって堂塔坊舎を再興し広大な建築の美を極めた。当山では禅光上人を開山、阿願上人を中興開山とする

 

境内には、千鳥塚、新免武蔵(宮本武蔵)の碑もあります。

  

 

(その2)に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


佐屋街道を歩く(その2)(愛知県津島市~名古屋市熱田区)

2017-01-09 17:58:55 | 佐屋街道

(その1)から続きです。

津島神社を御参りしたのち、再び佐屋街道に戻りました。浄土宗清光院の所に「津島の一里塚」がありました。

  

このあたりに「埋田(うめだ)の追分道標」があるはずなんですが、一寸探すが見つからない。幸楽苑という中華そば屋さんの裏手を行くとありました!

道標には、「右 つしまみち 左 さやみち」と書かれています。その先には、常夜燈がありまた先には土台だけのものがあります。

ここには、津島神社の一の鳥居がありましたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で倒れたそうです。

この一帯、江戸時代の終わり頃には、茶店などもあり通る人々で賑わい、大正時代までは松並木が続いていました。

今は、耕地整理や新しい町づくりで道筋も変わっています。

   

先へ進みます。日光川架かる「日光橋」に差し掛かりました。尾張名所図会では、「頗(すこぶ)る大河にして佐屋街道には大橋を架す。下流に百町、鹿伏兎、観音寺、大海用等の渡船あり」と書かれています。

   

津島市のマンホールです。津島神社の天王祭まきわら舟と市の花「藤」がデザインされています。津島市は藤の花の名所としても知られています。

越津町の信号の所で道を間違えてしまいました。ここは道が二手に分かれており間違えて県道68号の方に行ってしまいました。

神守(かもり)町下町の信号で気づき佐屋街道に戻りました。

万場宿と佐屋宿との間があまりに長かった為、正保4年(1647)に神守の宿が定められました。憶感神社を中心に宿屋・商家が建ち並び近くの村々の手助けによって宿駅の役割を果たしていました。

神守宿は、本陣1、旅籠12でした。神守という地名から想像すると神社の仕事をされてた人々の集まりしょうか?ここで言う神社は、津島神社かな?

 

 

   

神守町信号の手前に「神守の一里塚」があります。また、この一帯は、海抜-1mの地帯で海よりも低い所です。

「莪原(ばいはら)」というバス停がありました。莪という字が読みにくいです。難解地名にあげられますね。調べてみると莪は、きつねあざみ、つのよもぎなど湿地に自生し、若葉を食用とする。

と書いてます。薬草でしょうか。

  

 街道はあま市七宝町に入りました。下田橋を通り、あま市役所七宝支所の近くに「七宝焼原産地」の道標があります。

   

あま市の七宝焼は、天保年間(1830~1844年)、尾張国の梶常吉が、オランダ船により輸入された七宝の皿を手がかりにその製法を発見し、改良を加えたのが始まりとされています。

ここから約600m先の遠島で現在でも約10軒の業者が七宝焼に携わっているそうです。

大治(おおはる)町に入りました。ここは、海部郡大治町ですが、マンホールは、名古屋市のマンホール採用されています。

  

富田町に入りました。ここから名古屋市中川区になります。

  

 

 

八剣社を通ると「万場宿」です。万場宿は、万場の渡しをはさみ、岩塚宿と向き合って寛永11年(1634)御伝馬所に指定され宿場が置かれました。

この両宿場は近距離にあるため、制度上は、一宿と見なされ、月の上半分を万場宿が、下半分を岩塚宿が交代で人馬継立の役務を行った。

明治5年(1872)御伝馬所は廃止された。天保年間の規模は、家屋160軒、人口672人、問屋場1、町並6町10間、本陣1、旅籠10。

   

  

庄内川に架かる万場大橋を通り、「岩塚宿」に入ります。

 

岩塚宿は、天保年間の規模は、家屋212、人口1038人、問屋場1、町並4丁9間、本陣1、旅籠7でした。

ですが、宿場の跡は残ってなく、近所の人に聞くと、本陣は、八幡宮横にあったそうです。

  

神社の横に行くと「岩塚綱次郎先生之碑」が建っていました。説明文は消えており、ネットで調べてもわかりません。この方が岩塚宿に関わっていたのではないでしょうか?

  

時計も4時半を過ぎました。あたりはだんだん暗くなってきました。ちょっと急ぎます。

長良橋を渡ると「二女子」とか「五女子(ごにょうし)」という地名があります。かつては一女子から七女子まで村があったそうです。由来は、昔ある尾張の豪族に七人の娘がおり、

その娘を七つの村にお嫁に出しそこを領地としたことから村の名が変えられたとのことです。

新幹線のガードを通り、17:45金山総合駅に到着。時間も遅いし今日はここまでとします。

金山駅からJRで今夜の宿泊ホテルがある名古屋駅に向かいました。

  

名古屋といえば名古屋メシ・・・・・今晩は、みそカツをいただきました。

   

1/3 GPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 


佐屋街道を歩く(その1)(愛知県愛西市~愛知県津島市)

2017-01-08 15:06:34 | 佐屋街道

2017年新年あけましておめでとうございます。

1/3~1/7まで今年の初歩きとして東海道脇街道「佐屋街道」と東海道「宮宿」~「吉田宿」を歩きました。

佐屋街道

東海道の宮(熱田)宿と桑名宿との間は、伊勢湾を海路で行く七里の渡しを利用しなければならなかったが、天候次第で船が出ない日もあり、船が出ても安全とは言えない場合もありました。

そのため佐屋街道は、船酔いをする人や、犯罪に巻き込まれやすい女性や子供の旅人からも七里の渡しは敬遠され、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されました。

佐屋街道は、三重県桑名から三里の渡しで佐屋湊に着きそれから陸路、神守、万場、岩塚を通り宮宿に向かいました。

博多を6:05の始発の新幹線で名古屋に行き、名古屋から名鉄尾西線に乗り換え佐屋駅へ。佐屋駅には10:20到着。

準備を整え、10:30から歩き出します。 

   

   

新田交差点を左折し、しばらく歩くと「佐屋代官所跡」「佐屋舟場跡」の碑があります。

案内板には、「佐屋はその昔、慶長20年4月家康が大坂夏の陣にここから船出し、大勝した徳川方吉祥の地である。藩祖義直もこの事を嘉し寛永11年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、

更に承応2年船番所を置くに及んで、佐屋は天下に知られるに至った。そのため元禄8年奉行所が、ついで天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所となり、

海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄、寛永文久と、二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。

その後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物もそれを知る人もない。」

  

佐屋川が埋め立てられ、今、現在この地に立つと昔は湊町だったとはとても思えません。

往時、佐屋には、本陣2、脇本陣1、旅籠31もあり、大きな宿場町でした。町を歩くと、所々に旧家が建ち並んでいます。

   

内佐屋信号の手前には、「佐屋海道址」の碑が建っています。いままで佐屋街道と思っていましたが、石碑には、「佐屋海道」と書いてます。

西愛宕の信号の所が、愛西市と津島市の境界線。佐屋街道は、ここから津島市に入ります。

   

西愛宕信号から路地に入ると右角に「愛宕神社」があります。境内に入ってみますが、参拝客が少ない。このあたりの人は、初詣は「津島神社」に行くのかな・・・・・・

そう思い、私達も津島神社に行ってみることにしました。津島市民病院の先から右に約1,5kmが津島神社です。

津島神社参宮道の所にお饅頭やさんがあり、ここの「やき大福」が美味しそうでしたので買ってみました。ちょっと小腹がすいていましたので美味しくいただきました。

  

津島神社参宮道を通ると、「津島湊」の碑があります。それによると、

津島湊は、天王川の上流は、萩原川・渕高川と呼ばれ、約五百年前、この辺りは三百メートルほどの広さの川幅であった。津島神社参詣の人々のために天王橋(幅三間・長さ七二間)が架けられ、

その両岸には数千軒の町屋が並び、数千艘の出船入船で活気を呈した。津島湊はこの一帯で広さ五~六ヘクタールに及ぶ当地方随一の湊町・門前町として頗る繁昌した。

商都津島を支配した勝幡城の織田家は、信定・信秀と次第に勢力を広め、信長は天下布武をとなえ天下統一の基礎を築いた。信長は天王橋から津島天王祭を見物した。また、江戸時代になると、

代々の殿様も見物に訪れて、たいへんなにぎわいであったという。天王川は、天明五年(1785)に水害防止のためここでしめ切られ埋立地に町ができた

  

津島神社正門の横には、「堀田家住宅」があります。

堀田家は津島神社の神官に連なる家系で、初代之理(ゆきまさ)が福島正則に仕えた後、正則が広島へ国替えとなった際に帰郷し、祢宜町に家を構えたという。

近世に入り酒造業、金融業や新田開発を営んで財をなし、尾張藩の寺社奉行所御用達(ごようたし)を勤め名字帯刀を許されていた。屋敷は、居室・台所・座敷を設ける主屋と、茶室、土蔵群からなる。

最も古い主屋居室部は前身建物の材を用いた明和2年(1765)の建造、座敷部は明和7年(1770)の建造であることが棟札に記される。台所部は19世紀の増築という。

都市計画道路拡幅のために方位を45度北に振って曳屋され、現在はほぼ北を正面としている。

  

津島神社

御祭神は、天照大神の弟、「建速須佐之男命」

社伝によると、 欽明天皇元年(540)、西国対馬より大神が御鎮座されたのが始まりとされ、古くより「津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)」と言われ、全国天王総本社として凡そ三千社の御分社があり、

現在でも「津島の天王様」として尊称崇拝されています。

  

まだお正月も3日ということで境内には、参拝する方で一杯です。本殿で御参りしようと思ったのですが、長い列ができており、諦めました。

本殿は家康の四男清州城主松平忠吉の妻女が寄進しました。また楼門は、天正19年(1591)秀吉が寄進しています。どちらも国の文化財に指定されています。

 

    

尚、津島神社の「天王祭り」は、昨年のユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」で他の候補と一緒に登録されました。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2017年初日の出

2017-01-01 09:02:03 | 日記

2017年明けましておめでとうございます

今年もウオーキングがてら近くの日の出スポットに行ってきました。

福岡地方の日の出時間は、7時23分。

7時25分、山の上から太陽が顔を出しました。

  

左側は、福岡タワー、ヤフオクドームです。

  

5分ぐらいで雲の間に顔を隠しました。

  

そのあと、氏神様に初詣をしました。

今年もどうぞ宜しくお願いします。