1/4 ホテルを7時半に出てJRで前日のゴール地金山駅に向かいました。今日も天気はよくウオーキング日和です。
佐屋街道の道標は、金山新橋南交差点のコンビニの前にありました。
これから伏見通りを通って宮の渡しに行きますが、途中にある「熱田神宮」に立ち寄って行きます。
ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。
天照大神は、言うまでもなく、皇室の御祖神とも至高至貴の神とも仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神です。又、相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、
宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々です。
御鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父・景行天皇から信任を授かった日本武尊は、東征の帰途、尾張国造の御女である宮簀媛命をお妃とされ、
やがて草薙神剣をこの国に留めておなくなりになります。宮簀媛命は尊の御遺志を重んじて、神剣を今の熱田の地にまつられました。今からおよそ千九百年前になります。(熱田神宮HPより)
今日4日は、会社関係の仕事始めからでしょうか、境内には、スーツ姿の方が多く見られます。
広重の宮宿の浮世絵は、5月5日の祭礼に熱田の町の裸馬を仕立てて参拝する様を描きました。
参拝の後、七里の渡し に向かいます。この地は三重県桑名宿から宮宿までの海上七里の航路の船着き場です。
この距離が七里(約28km)あったのでこの名前が付きました。船は渡し舟で約4時間かかり、干潮時は沖を通るので10里ぐらいかかったそうです。
松尾芭蕉は、旅の初期に熱田に度々訪れ、林桐葉の計らいで名古屋・鳴海の門人達と交流し、七里の渡しから舟遊びであゆち潟(愛知の語源)を楽しみ熱田三歌仙を残しました。
・ この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ
・ 海暮れて 鴨の声 ほのかに白し
・ なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草
宮宿は、東海道の中でも最大の規模で本陣2、脇本陣1、旅籠248ありました。本陣は赤本陣と白本陣です。
赤本陣は、ひつまぶしで有名な蓬莱陣屋の隣にありました。(今は案内板だけ)
旧東海道に来ました。
近くに「ほうろく地蔵」があります。説明を読むと、この石地蔵は、もと三河国重原村(現、知立市)にあったが、野原の中に倒れ捨石のようになっていた。三河より焙烙を売りに尾張に来るものが、
荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、、ここで焙烙を売りつくしたた後、海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこの石仏を発見し、土中に埋まっていた台座と思われる角石に置いた。
※焙烙・・・・・・素焼きの平たい土鍋。
デイサービスの所に道標があります。ここが東海道と佐屋街道の分岐点でした。
このあたりは、2年前「名古屋ウオーク」で通ったことがあります。家康が御幼少のころ、この辺で幽門された場所があるそうで探すが見つかりません。
近くの喫茶店で聞くともう今はないそうです。ついでにモーニングを頂きました。(これで@500です。)
ビジネスホテルの前に「裁断橋」のモニュメントがあります。
大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。
橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。
1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市の文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。
そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。
1590年、18歳の堀尾金助は小田原の戦いに出発しましたが、病に倒れ帰らぬ人となりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。
その後、33回忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました(熱田区HPより)
裁断橋の横には、「都々逸発祥の地」の碑があります。
寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったという。
その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から名古屋全域に広まっていきました。
やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となりました。
熱田橋を渡ります。このあたりは、パロマやブラザーなど名古屋が本社の日本を代表する会社が建ち並んでいます。
山崎の長坂に来ました。ここは、呼続(よびつぎ)という地区で、古来、呼続一帯は、四方を海と川に囲まれた巨松の生い茂る陵の浮島として「松巨嶋」と呼ばれ尾張の名所でした。
ここは、東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差しています。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われています。
芭蕉は、「寝覚めの里よびつぎ」と書き記しこの地に足跡を残しています。また山崎の長坂に接する山崎の立て場は宮宿への往還の地として賑わい、宮宿より渡し船の出航を呼び継いだことから
「よびつき」の名があると言われています。
鎌倉街道という案内板があります。えっ、鎌倉には東海道を通って行けばいいのでは・・・・・・と思うのですが、鎌倉時代、全国から鎌倉へ向かう道として設定されました。
愛知県では、一宮~清州~あま市~名古屋古渡~鳴海~豊明~三河のルートだったそうです。
また、 室町時代には、星崎の七つの村(南野、荒井、牛毛、山崎、笠寺、本地)に約百町の塩田があり、前浜塩と名付けられていた。塩付街道はここでつくられた塩を北方の内陸へ運ぶ道として利用されました。
塩付街道の出発点は南区呼続町にある冨部神社でそこから笠寺へ行き、笠寺から瑞穂区を通り、石仏、川名、仲田、古出来町方面を経て、瀬戸街道へと結び、
さらに北上して高蔵寺より中山道に続く街道として重要でした。塩が馬の背に付けられて運ばれたことから塩付街道と名付けられました。
今は、住宅地が建ち並び近くに海があり、ここで塩を作っていたなんて信じられないですね。
富部(とべ)神社に来ました。由緒を見ると、慶長8年(1603)津島神社の「牛頭大王」を勧請したもので「戸部天王」とも「蛇毒天王」とも呼ばれています。
清州城主松平忠吉(家康の四男)は、当時の富部神社の霊験あらたかな事を知り、病気平癒を祈願したところ、日ならず本復したと言われ、その恩に報いるため、
慶長11年(1606)に本殿、祭文殿を創建し毎年百石を寄進されました。本殿は、一間社流造、檜皮葺で正面の蟇股(かえるまた)、破風、懸魚、脇障子など桃山時代の建築様式を
伝えており、国の重要文化財に指定されています。また、神社境内の保管庫には享保12年(1727)製の高砂車と呼ばれる車楽(だんじり)が1台保管されています.車体も古くあまりに高い車高のため,
昭和12年名古屋で開催された「汎太平洋博覧会」に曳かれた翌年頃から,道路事情などで曳くことが不可能になりました.現在では上層部を外し保管されています。
10月の大祭には保管庫が開けられ能人形など飾り付けられて一般公開されています。
笠寺に来ました。スーパーの前に立つと、蛙の置物があります。調べてみると、今から約400年前、戸部城主・戸部新左衛門という乱暴な殿様がいました。外出の折、面前を横切るものは、
なんでも無礼打ちにしていました。ある日、新左衛門の面前を一匹のトノサマガエルがさっと横切りました。お供衆は息を飲んだが乱暴な新左衛門も、その蛙の飛ぶ速さに心を奪われ、蛙は命拾いしました。
それから誰ともなく、“山崎(現在の名古屋市南区)越えたらとべ、とべ”と洒落るようになったとのことです。こうした言い伝えから、“命拾いをして無事にカエル”といった願いを込めて、
瓦職人が粘土で蛙を作って焼き、それを笠寺観音の参道に並べて売った土産物が、戸部の蛙の始まりだとされています。
笠寺観音(笠覆寺)です。略縁起を見ると、笠寺観音は、天平5年(733)呼続浜に桂旦国誉(けいたんこくふ)山の霊木が漂流して毎夜霊光を放ち、これを見た人は病気に罹ったという。近くに住んでいた禅光上人は、
不思議なる夢告を受け、その霊木を以って十一面観音菩薩を刻み、寺を建立し霊像を安置して、天林山小松寺と称した。
その後約200年の歳月が流れ、寺は荒廃し、堂舎は崩壊して、本尊は野中に立って雨露にさらされたままであった。
ここに一人の娘が鳴海長者太郎成高の家に仕えていた。長者の妻は彼女の美しさを妬み、朝夕草刈り、潮汲みをさせ雨の降る日も笠も与えずひどく使うのを、人が哀れみて、笠を与えたが、
信仰深い娘は、その笠を本尊に覆い、自ら発願して「人我に笠を与ふ、我歓喜にたえず、我また是を世尊に供養し奉る。ねがはくば、大慈大悲我が行末を救ひ給へ」と祈念し、本尊を雨露から守った。
その後関白藤原基径(もとつな)の子、兼平中将東国下向の際、成高が家に宿どり、娘の非凡なるを見て、自分の妻としてむかえた。此れを玉照姫と言ふ。
延長8年(930)兼平公は婦人と共に、下向し現在の地に仏殿坊舎を建て、大慈大悲の功徳を未代までも伝えんことを思ひ、婦人が本尊に笠を覆えたる縁をもって寺号を笠覆寺と改称し、
以後真言秘密の道場と栄えた。
その後300余年を経て、再び仏堂又破壊し、嘉禎4年(1238)に二位の房 阿願上人によって堂塔坊舎を再興し広大な建築の美を極めた。当山では禅光上人を開山、阿願上人を中興開山とする。
境内には、千鳥塚、新免武蔵(宮本武蔵)の碑もあります。
(その2)に続く