今日は特別な日。原爆が広島に投下された日。そして、母を想う日。
それは、母の誕生日だから。
数年前まで、8月のこの日は京都にいることが多かったのでした。
夏休みは京都に帰省する、それは当たり前のことでした。子どもたちもとても楽しみにしていた夏の過ごし方。
京都と言えないほど西の端に位置するそこは、まわりが畑と山だけで、山の方に行けばかぶと虫がまだ捕れて、子どもは隣の兄ちゃんと出かけていったこともありました。
父が孫が来たと自慢するものだから、近所の人とも仲良くなって、一緒に花火をしたこともありました。
そして、できうる年は16日の大文字送り火まで見て(2階の物干し場から見えるのです)、次の日の早朝、父が握ってくれたおにぎりを持って、後から来て合流した夫の運転で横浜に戻る、夫の実家にもここを拠点にして遊びに行く、そういう夏を何年も何年も過ごしました。
それは突然4年前、ぷつりとさいごになりました。
夏は高校野球を観るのがあたり前だったから、8月6日のその日も朝からテレビがついていて、朝のその時間が来ると、母が筆頭となってテレビの前でみんなで黙祷しました。
昭和7年生まれの母は当然戦争を経験していて、日々淡々と生きていたけれど(あの時代を生きた人の多くがそうであるように)、この誕生日のあの瞬間は特別な思いをもっていたのでしょうか。
いや、そういうたいそうな感じではなく、ただこれも当然のことであるようにテレビの前で黙祷した、そして私と子どもたちも同じように。
ただそれだけのことでした。
淡々としていたからこそなぜか色濃く焼き付いている思い出です。
夏の日差し、蝉の声、玄関ドアにはりついていた小さな蛙、すだれを揺する風、どこかから流れてくる田んぼのにおい、高校野球を見ながらアイロンをかける母の背中・・・思い出はつきません。
母の生まれた日は特別。母がいたから私も生まれてきた。
だから今日は大切な日。
そう思いながら写真に手を合わせただけで何もできなかったけれど、母を想うこと、一緒にすごした時間を想い出すこと、そして少しメソメソすること、今日はゆるしてもらえるよね。
だって今でもまた会いたいと思うから、叶わなくてもやっぱり会いたいから。
母の声が頭の中で響きます。今でも母が一等好きだと思う、それはかえられないのです。