はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

続き『ヒタメン 三島由紀夫 若き日の恋』②

2020年11月25日 | 三島由紀夫

2020/11/25

今日は三島由紀夫が亡くなって50年の祥月命日。

前回の岩下尚史著『ヒタメン 三島由紀夫 若き日の恋』続きです。

 

ヒタメンとは「直面」と書きます。

「能のシテが仮面をつけずに舞台にあらわれると、それは役者の素顔ではなく『直面』というもうひとつの仮面である。」

素顔のようでいて、やはり演技しているということですね。

第9章「おそらく最後の証言者」。

湯浅あつ子さんの聞き書きです。湯浅あつ子さんは、三島の妹・美津子の同級生の姉にあたり、三島とも親しく、三島の両親にも可愛がられて平岡家(三島家)に出入りしていた女性。夫はロイ・ジェームス。

「まるで弟のように・・・・・と申しましても同い年ですけれども。まあ、私は三島由紀夫にとって、親友と姉と恋人を兼ねたような存在でしたからね、たとえ、血はつながらなくても、おたがいに1ばん近い身内でした。」(P.287)

あつ子さんの聞き書きには驚くべきことが語られ、まるで週刊誌的興味で私は読んでしまったのです。

抜き書きして引用させていただきます。

【引用】

その頃の公ちゃんは、(中村)歌右衛門にぞっこんでございましたから。平岡のおばさまが嫉妬なさるくらい。当時の公ちゃんには、『仮面の告白』に書いたような傾きが、実際、見受けられましたからね。

歌右衛門とは、まさか、深い仲ではなかったとは思うんですけど、実際にあったかどうかはともかく、それに近いような思い入れは、確かにありましたもの。

湯浅さんによれば、三島は歌右衛門にぞっこん惚れ込んでおり、お顔も様子も似ていた貞子さんに歌右衛門を重ねていた部分がある。(p.270~272)

・・・・・

前夜の逢瀬のあれこれを、翌日、そのまま話に来るんですもの。私にだけは、女の恋人ができたことを自慢したかったのかもしれません。

ずっと後になって、彼女(貞子さん)に会ったときに、「あの頃、熱海や京都にも泊り掛けで行ってたって、公ちゃんからよく聞かされていたけど、あなたのご両親は御存知だったの?」と聴きましたら、「その頃はお店が忙しかったし、何しろ使用人も何十人もいて、取り紛れていたんでしょう」なんておっしゃっていましたが・・・・・赤坂でしたっけ?花柳界と云うのは、私たちから見ると、不思議な世界ですね。(P.273)

毎日のように会っていても、3年のあいだ、だこさん(貞子さん)が同じ衣装を着ているのを見たことがないと、公さんは感心していましたよ。それこそ帯から何から、お金のかかった凝ったものばかり・・・・・それを、たった今、しつけの糸を取ったばかりといった様子で、あらわれたそうですよ。

どこへ行くにも、だこさんの好きそうな場所を一生懸命選んでは連れて行くわけです。それこそ超一流なんですね。ですから、いつもお金が足りない。文士の稿料なんて知れてますわねえ。

当時は平岡のおじさまは年金生活者ですから、長男である公ちゃんが両親や弟を助けなければなりませんもの。

そこで、私がお立て替えをしていました。公ちゃんは必ず返しに来ましたからね。借りに来るのは週に1度で、いつも七萬円と決まっているんです。

(昭和29年当時の7万円を現在の価値に換算すると、当時の国会議員の月額歳費が七萬八千円、現在のそれは130万円である)

19歳のだこさんの財布には、いつも10万円の新札が入っていたそうである。

 

公ちゃんは結婚するまで親と同居しておりまして、緑ヶ丘の借家住まいでしたが、2階が6畳と3畳でしたか、そこを公ちゃんが占領して、自分の書斎にしていましたの。そこへ寝るんでしたからね。可哀想なくらい薄い煎餅布団のシーツが、いつ見てもヨレておりましてね、布団の真ん中がつぶれて両側だけかぶさって、ちょっと太鼓みたいな形になっているんですよ。

ーーそれで家督の惣領である三島由紀夫が、親兄弟を養わなければならなかったわけですね。

そうです、お金を稼ぐためには、公ちゃんは作家として、何としても有名になる必要がありました。

ーーなるほど、私などが想像していたよりもつつましい暮らしのようですね。

・・・・・・

以下は、後書きでの岩下氏の感想である。

「まるで生まれながらの貴公子のような言動を繰り返しながらも、ありようは、緑ヶ丘の借家なる屋根裏のような中2階にささやかな机を据え、古浴衣の紐を巻き付けた木綿布団にくるまりながら、夜の目も寝ずに筆を執り、年金暮らしの両親と弟妹を養う、若き日の三島由紀夫の健気さー」 

「絢爛、豪華、荘厳、華麗等々・・・お決まりの誉め言葉で形容されるのが型となった当代文壇の驍将の、つつましい楽屋を覗いた思いがする。」(p.349)

・・・・・

再び第9章より【引用】

公ちゃんに対するおばさまの偏愛ぶり、これにはおじさまも匙を投げていらしたくらいです。

それも度を越しておりました。おばさまが「公威さん、足を虫に刺されてイタイイタイだから、ちょっと舐めて頂戴よ」なんて仰言ると、「はいはい、どこどこ」って、むき出しの肌をぺろぺろ舐めてましたもの。

ですから、世間には、近親相姦じゃないか、なんてうわさする人たちもあったほどですよ。(P.289)

 

ーーそんなふうでは、貞子さんと付き合っていることなど、三島由紀夫から母親にはいいにくかったでしょうね。

そうかもしれません。でも、平岡の両親は知っておりました。だって、一緒に住んでいますから、ああ毎晩のように帰りが遅いんじゃ、どこの親だって、たいてい察しがつきますよ。

貞子さんのことは興味津々といったところです。ちょっと、変わった親たちですから・・・・・。

それにいくら何でも、料亭の娘さんと結婚するところまで、この交際が進展することはないだろうと云うような暗黙の了解が、平岡の親子にはあったと思います。

あちらのお母さまも、長男のところへは、ぜったいお嫁に行ってはならないとおっしゃったそうです。それと後ろ盾のない家の息子はダメだとも・・・・ね。(P.292)

貞子さんは、旧財閥の次男と結婚したそうです。

だこさんという人は、男たちに人気がありましたもの、言い寄ったのは、公ちゃんばかりではありませんでしたよ。ですから、ほかの男に誘われて、彼女がそっちへなびかないように、毎晩会うことで、自分に縛りつけておこうとしたわけです。

・・・・・

 

そして次には、瑤子夫人との結婚のいきさつになるわけですが、単純に幸せな結婚、とはいえない、ここから苦しみが始まったのかと思われる結婚の様子が語られます。

それは次回にしましょう。

 


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