はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

三島由紀夫文学館を訪れて

2020年08月23日 | 三島由紀夫

2020/08/23

 

山中湖畔の三島由紀夫文学館は三島(平岡)家に保管されていた大量の資料を、山中湖村が一括購入し、「三島文学の研究と普及」のためにつくられた文学ミュージアムです。三島研究者にとっては資料の宝庫でしょうね。

三島夫人・瑤子さんの遺志を受け継ぎ、1999年(平成11年)に開館しました。

山中湖は三島家にとって縁故のある土地ではありませんが、三島は取材などでときどき訪れていたようです。

 

入り口で住所・氏名を記入して、入館です。コロナのせいなのか、いつものことなのか、ひっそりしていましたが、私たち以外にも少し訪問者がいました。

手書き原稿、創作ノート、執筆資料、メモなどや、学習院時代の成績表や応召の際の遺書、川端康成との往復書簡の写しなども展示されていました。

手書きの整った文字で書かれた原稿は、几帳面な性格がよくわかる乱れのない字です。これら原稿は、昨年、鎌倉文学館の「三島由紀夫展」で見たとおりです。

20歳のときに、徴兵検査を受けるにあたって書いた毛筆の遺書も初めて目にしました。

興味深い、いくつかの逸話を読みました。

ドナルド・キーン氏の書かれたもので、1970年8月頃、三島と寿司を食べに行ったときに、三島は高いトロばかりを注文していた。そして伊勢エビも5貫注文して食べ、さらに2貫追加して食べていた。高いものばかり、いつもと違う食べ方をしていたので、キーン氏が不審に思い「何か悩みがあるなら話してくれないか」といったところ、苦い顔をして黙っていた(この通りの文章かどうか記憶が曖昧ですが)とありました。

死の3か月前のこと、この話は初めて知りましたが、何か思うところがあったのか、精神のバランスを崩していたのか、そんなことがあったのだと興味をひきました。

三島は、「比喩を大切にしており、他の人の書いた文章でも比喩が気になり、そこに注目する」とありました。なるほど、独特の比喩、やはり比重を置いていたのですね。

三島は絵にこだわる人で表紙絵を9回描き直しさせ、結局、妻の瑤子さんの描いた絵を使ったという話もありました。

楽しみにしていた映像『生涯と作品』(30分)、『豊饒の海』(24分)は、コロナのためコーナーが閉鎖されていて見られませんでした。これはほんとうに残念でした。遠いところを出かけたのも半分はこのためですから。

密になるのを避ける目的のようですが、密になるもなにも、見に来ている人がほとんどいないのですから、上映してもよさそうなものですが、言うのも憚られてました。今はYou Tubeで多くの映像が見られる時代です。

2階は資料室になっており、申請すれば閲覧できるようです。

いろいろな思いを抱いて、決心して出かけて行った文学館ではありましたが、午後の暑い時間帯、入館してもどっと汗が吹き出し、暑くて頭もぼうっとしていました。

入り口によく置いてあるような簡単な目録もなく、ミュージアムショップも見当たらないので、結局、資料らしきものは何も買ってきませんでした。

庭の「アポロ像」。自宅にある有名な像ですね。こちらはレプリカなのかな。

手入れされた芝生のきれいな場所でした。

「庭は夏の日ざかりの日を浴びて しんとしている」(『天人五衰』最終稿)

 

『蘭陵王』に収録された「自衛隊を体験する」の中で、三島は山中湖の春を次のように描写しています。

山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳(よ)かった。私はこれほどに春を綿密に味わったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れていた。

 

期待通りだった、収穫がいっぱいだった、とは言えませんが、訪れることができてよかったと思います。この春から、ずっと行きたいと思っていた所です。

文学の森と道を隔てたところにある山中湖を見ることもできました。

なぜか芭蕉の句を思い出しました。奥州、平泉で詠んだ句ですが、

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

緑に包まれた地に残された三島の魂の痕跡も、死後50年たって薄れてきたような気がします。

 

三島由紀夫文学館のサイト

https://www.mishimayukio.jp/

 

 


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