大正時代の大水害で流失したりしましたが、再建されたそうで、
この鐘楼は、被爆した建物です。
梵鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は敗戦後すぐに鋳造されたものだそうです。
三瀧寺・鐘楼
広島ぶらり散歩「三瀧寺附近」編
広島ぶらり散歩
この鐘楼は、被爆した建物です。
梵鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は敗戦後すぐに鋳造されたものだそうです。
三瀧寺・鐘楼
広島ぶらり散歩「三瀧寺附近」編
広島ぶらり散歩
現在の観音堂は明治初期に再建されたものだそうです。
お堂には、三体の石仏が祀られており、中央の十一面観音像が最も古い石仏だそうです。
この想親観音堂は、被爆した建物です。
三瀧寺・想親観音堂
広島ぶらり散歩「三瀧寺附近」編
広島ぶらり散歩
お堂には、三体の石仏が祀られており、中央の十一面観音像が最も古い石仏だそうです。
この想親観音堂は、被爆した建物です。
三瀧寺・想親観音堂
広島ぶらり散歩「三瀧寺附近」編
広島ぶらり散歩
壇ノ浦の戦いで、平家は源氏に破れ、
平清盛の妻であった二位の尼(平時子)は、三種の神器とともに安徳天皇(第81代:1178-1185)を抱いて海に身を投げました。
その屍が(宮島の)有の浦に流れ着いたといわれています。
二位尼の石燈篭
広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編
広島ぶらり散歩
平清盛の妻であった二位の尼(平時子)は、三種の神器とともに安徳天皇(第81代:1178-1185)を抱いて海に身を投げました。
その屍が(宮島の)有の浦に流れ着いたといわれています。
二位尼の石燈篭
広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編
広島ぶらり散歩
宮島港ターミナルビルから出てすぐ左手にこの日本三景各地の松が植えられているのです。
いままで如何に漫然と連絡船から降りて厳島神社に向かっていたことかと思うこの日本三景の松でした。
(宮島の)日本三景寄植の松
広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編
広島ぶらり散歩
いままで如何に漫然と連絡船から降りて厳島神社に向かっていたことかと思うこの日本三景の松でした。
(宮島の)日本三景寄植の松
広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編
広島ぶらり散歩
宮島桟橋を降り向かいの小高い丘の上に「角仏堂」があり、
役の小角(役の行者)を祀っていることは、
資料をみるまでわたしは知らなかったのです。
(宮島の)行者堂
広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編
広島ぶらり散歩
役の小角(役の行者)を祀っていることは、
資料をみるまでわたしは知らなかったのです。
(宮島の)行者堂
広島ぶらり散歩「宮島・厳島神社」編
広島ぶらり散歩
三滝寺参道に3つの滝の水を集めながら流れる川があります、
その(三滝)川に架かるのが(上流側に)慈眼橋、(下流側に)この赤縄橋があります。
赤縄橋の呼び方は(久保田)万太郎が命名したそうです。
(三滝寺の)赤繩橋
広島ぶらり散歩「広島の橋」編
広島ぶらり散歩
※霙になって少し降っていますがまだ白くはなっていません。
その(三滝)川に架かるのが(上流側に)慈眼橋、(下流側に)この赤縄橋があります。
赤縄橋の呼び方は(久保田)万太郎が命名したそうです。
(三滝寺の)赤繩橋
広島ぶらり散歩「広島の橋」編
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※霙になって少し降っていますがまだ白くはなっていません。
現在の呼び方は(清水寺貫主だった)大西良慶師が三瀧寺をお参りされたとき
行きは「観音様の慈悲の目で」
帰りは「福が集まるように」と
ひとつの橋に二つの名前を付けられたことからいわれるようになったそうです。
慈眼橋=福壽橋
広島ぶらり散歩「広島の橋」編
広島ぶらり散歩
行きは「観音様の慈悲の目で」
帰りは「福が集まるように」と
ひとつの橋に二つの名前を付けられたことからいわれるようになったそうです。
慈眼橋=福壽橋
広島ぶらり散歩「広島の橋」編
広島ぶらり散歩
広島市内の軍用地は、
日清戦争前は旧広島城内・第5師団練兵場(西練兵場)、東練兵場、工兵大隊用地、江波射撃場、比治山陸軍墓地等に限られていましたが、日清戦争、日露戦争によって広島市は軍都・廣島を形成していきました。
江波射撃場跡
廣島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編
広島ぶらり散歩
日清戦争前は旧広島城内・第5師団練兵場(西練兵場)、東練兵場、工兵大隊用地、江波射撃場、比治山陸軍墓地等に限られていましたが、日清戦争、日露戦争によって広島市は軍都・廣島を形成していきました。
江波射撃場跡
廣島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編
広島ぶらり散歩
穴神社下でみた小さな碑でしたが、
国語苦手のわたしには、字が読めないのです。
「止」ではないのかと思い「忠魂止碑」としていますが、確信はありません。
漢和辞典を引くと、止のところの(字源)に趾の原字とあるので・・・
(丹那區)忠魂止碑
広島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編
広島ぶらり散歩
国語苦手のわたしには、字が読めないのです。
「止」ではないのかと思い「忠魂止碑」としていますが、確信はありません。
漢和辞典を引くと、止のところの(字源)に趾の原字とあるので・・・
(丹那區)忠魂止碑
広島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編
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碑正面に忠魂碑、元帥伯爵東郷平八郎 側面に昭和八年四月建之 と刻まれています。
明治十年役病死1名、明治三十三年役戦死など6名のお名前が刻まれていました。
明治10(1900)年は西南戦争でこの地から兵を出し病死ではあったようですが亡くなったことがあったのかと知ったのです。
(楠那町)忠魂碑
廣島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編
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明治十年役病死1名、明治三十三年役戦死など6名のお名前が刻まれていました。
明治10(1900)年は西南戦争でこの地から兵を出し病死ではあったようですが亡くなったことがあったのかと知ったのです。
(楠那町)忠魂碑
廣島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編
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