『芭蕉の句碑を歩く』という本があります。(→アマゾンへ)
(今 私の手元には その本のコピーしかありません。
吉祥寺の書庫の中には、たぶん この原本があるはずです。)
38ページから、「吉祥院の句碑」という項目があります。
この「吉祥院」というのは、われらが吉祥寺の事です(苦笑)。
ここに 昨日の芭蕉の句碑について 書かれています。
「江戸時代後期、この地にゆかりの三人の俳人が居た。
南々(なんなん)、文子、奇三、という。
中瀬の斎藤家の三兄弟として知られ、共に児玉逸淵の門下として 著名であった。
奇三は 河田家に入って河田奇三、不知庵と名乗り、「南々発句集』、『去来伊勢紀行』、『七部集連句早見』、などの著作がある。
この連句早見は良くできたものらしく、後に幸田露伴が常に愛用して離さなかったと言われる。」
と書かれています。
天保12年(1841年、水野忠邦が天保の改革を始めた年です!)に建立された句碑です。
なんとなんと、斎藤家と河田家は 奇三さんで繋がっていたんですね!
ということで、以前より宿題にしていました「奇三さん」についての記事の、
これは 第一ページ、ということで、よろしくお願いします。
調べれば 本が一冊できてしまいそうですので、
のんびり、ゆっくり、気にかけていきたいと思います。
(もちろん、本を書く気は、毛頭ありません!!! 汗)
(今 私の手元には その本のコピーしかありません。
吉祥寺の書庫の中には、たぶん この原本があるはずです。)
38ページから、「吉祥院の句碑」という項目があります。
この「吉祥院」というのは、われらが吉祥寺の事です(苦笑)。
ここに 昨日の芭蕉の句碑について 書かれています。
「江戸時代後期、この地にゆかりの三人の俳人が居た。
南々(なんなん)、文子、奇三、という。
中瀬の斎藤家の三兄弟として知られ、共に児玉逸淵の門下として 著名であった。
奇三は 河田家に入って河田奇三、不知庵と名乗り、「南々発句集』、『去来伊勢紀行』、『七部集連句早見』、などの著作がある。
この連句早見は良くできたものらしく、後に幸田露伴が常に愛用して離さなかったと言われる。」
と書かれています。
天保12年(1841年、水野忠邦が天保の改革を始めた年です!)に建立された句碑です。
なんとなんと、斎藤家と河田家は 奇三さんで繋がっていたんですね!
ということで、以前より宿題にしていました「奇三さん」についての記事の、
これは 第一ページ、ということで、よろしくお願いします。
調べれば 本が一冊できてしまいそうですので、
のんびり、ゆっくり、気にかけていきたいと思います。
(もちろん、本を書く気は、毛頭ありません!!! 汗)
ところで、「奇三」て、なんて読むのでしょうか。
はずかしながら、「きさん」としか読めないのですが・・・・
私たちも「きさんさん」と読んでおります。
塗装を職業となさっているO氏も 「きさん」と読んでらしたと思います。
名前をつけた方は「〇〇ぞう」と呼ぶおつもりだったかもしれませんが。
じゃあ、「何ぞう」だったのでしょうね?(苦笑)
句碑もふくめて よくわからない事ばかりです。
一度「ああ! そうか!!」 と思っても、すぐに忘れてしまいますし(汗)。
ひとつひとつ 確実にわかってから 記事にしていこうと思っています。
記事にしても きっと忘れてしまうとは 思うんですけれども。。。(大汗)。
久々の雨が降ってきました♪