活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタン版の印刷人は何人いたのだろうか

2006-11-19 14:03:46 | Weblog
 加津佐の「天辺の丘」に佇んで、私が考えたことはいっぱいあります。まず、前に述べたように、こんな断崖の上に、どこから、どうして印刷機材を運んだのだろうかという疑問でした。
 
そして、もっと突き止めたいことがありました。
 それは、仮に1590年(天正18)年の終わりごろから、印刷場の建設にかかったとしても、1年足らずの短時日に、活字を鋳込んだり、文字を拾ったり、組んだり、印刷や製本の実作業に従事してキリシタン版第1号を送り出したチーム構成はどうなっていたのかという疑問です。
 
「印刷」は、つい、近年まで労働集約型の産業でした。キリシタン版の印刷は、400年以上も前の話です。それなのに、1年足らずでローマ字綴りの日本文の聖人物語『サントスの後作業の内抜書き』が仕上ったことになっているのです。1592年の夏過ぎ天草に引っ越す以前に、2巻で1000ページを超す本をモノにしたというのが定説ですが、私には作業量からいって信じられません。最低でも20人以上必要です。
 
 親玉はイタリア人のジョアン・パプチスタ・ペッセ、それに、リスボンで印刷修行をしてきた日本人ドラードやアゴスティニョ、メスキータ神父やマルチのが手伝ったとしても数人でこなせる量ではありません。ペッセが子分を連れてきた、帰国途中マカオで手につけていた、いろいろ考えられますが、いままでの研究ではそのあたりの考察が不足しています。
 それと、付け加えておきますが、印刷場の所在についても、福田八郎さんは天辺の丘ではなく、永年、加津佐古城跡説を主張しておられます。



 
コメント
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