ヴァリニャーノの思惑どおり、コンスタンチノ・ドラードたちはポルトガルのリスボンで印刷工場へ通って実習を受けました。
実習期間は、ギリギリ幅をとっても、1585年の10月から、帰国の船が出た翌年の4月そうそうまで、半年あるかないかです。
日本人最初の活版印刷人になったドラードがいくら優秀でも、この間に、活字の鋳造から、版の組み方、印刷機の扱い、製本のしかた、この、いろいろな工程のすべてを身につけることが出来たでしょうか。
しかも、教える人はポルトガルの印刷職人、使う言葉はポルトガル語、扱う活字はすべてローマ字。
どう考えても答えはノンです。
私はこう考えます。ポルトガルでは「概論」を習っただけだと。ドラードとともに日本に来たイタリア人で「印刷」に強いジョアン・パプチスタ・ペッセという名前が文献に出てきますが、彼を職長格にして少なくとも数人の印刷工が同道したはずです。あるいは、寄港地ゴアからも乗り込んだとみます。
南蛮船は揺れましたから、まさか、船の中で学習はできなかったでしょうが、ゴアで1年、マカオで2年も逗留しましたから、その間が絶好の修行期間になったのでありましょう。
実習期間は、ギリギリ幅をとっても、1585年の10月から、帰国の船が出た翌年の4月そうそうまで、半年あるかないかです。
日本人最初の活版印刷人になったドラードがいくら優秀でも、この間に、活字の鋳造から、版の組み方、印刷機の扱い、製本のしかた、この、いろいろな工程のすべてを身につけることが出来たでしょうか。
しかも、教える人はポルトガルの印刷職人、使う言葉はポルトガル語、扱う活字はすべてローマ字。
どう考えても答えはノンです。
私はこう考えます。ポルトガルでは「概論」を習っただけだと。ドラードとともに日本に来たイタリア人で「印刷」に強いジョアン・パプチスタ・ペッセという名前が文献に出てきますが、彼を職長格にして少なくとも数人の印刷工が同道したはずです。あるいは、寄港地ゴアからも乗り込んだとみます。
南蛮船は揺れましたから、まさか、船の中で学習はできなかったでしょうが、ゴアで1年、マカオで2年も逗留しましたから、その間が絶好の修行期間になったのでありましょう。