活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

鍋冠山から長崎港を見る

2008-01-18 13:19:09 | 活版印刷のふるさと紀行
 行きつ、戻りつで申し訳ありません。この11月末に、長崎でグラーバー園の裏手からエスカレータとエレベータを乗り継いで長崎港を見下ろせる鍋冠山コースを辿ったことは、前々回の「本木昌造と平野富二」の項でお話いたしました。
 
 あの日も長崎港を見下ろして、ここに出入りした南蛮船や紅毛船が、日本に活版印刷をもたらすヒキガネになったのだなあという感慨にふけりました。天正時代のキリシタン版も本木から始まった明治の活版印刷も、デビューの舞台はこの港につながる「長崎」でした。

 さて、天正時代に日本に伝わった金属活字を使う活版印刷は、キリシタン版消滅の1612年ごろから1851年本木が流し込み活字の鋳造に成功するまで、実に240年もの間、途絶えてしまいました。
 
 そうはいっても、本木昌造はキリシタン版のことは知らなかったはずです。彼はオランダ語通詞時代にオランダ渡来の美しい印刷本の釘付けになり、オランダ船が積んできた「蘭書植字判」を通詞仲間と金を出し合って求めて活字と取り組むようになりました。それは、当時の金で120両もしたといいますから、大変な金額ですが、欧文活字1セット、パンチ(種字)の父型と母型、インテル、スペースなどからなっていたようです。
 
 とにかく、このセットでいろいろ試しているうちに、字母に溶けた鉛を流し込んで活字にする流し込み活字の製法を思いついたのです。28歳、1851年といいますから寛永4年になりますが、実はこの1851年という年数が本木の名を挙げたのでした。
コメント (1)
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