活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

本木昌造が「鼻祖」になったのは

2008-01-19 12:31:15 | 活版印刷のふるさと紀行
大阪、四天王寺に、本木昌造の顕彰碑があります。陣笠をかぶり、筒袖の着物に陣羽織、、腰に大小、右手に杖というスタイルは一見、壮士ふうでさえあって、とても金属活字の開発者には見えません。

 台座には大きく縦に「大木氏 昌造翁 紀年碑」とあります。こんなとき、記念と紀念の使い分けをさぐりたくなるのは編集者アガリの悲しい性と思いつつ、さらにその上に目をやると、「日本鋳造活字始祖」とあります。

 私は、かつて、どこかで、本木昌造が鋳造活字の「鼻祖」とあるのを見て、わざわざ広辞苑で鼻祖をしらべたことがありました。胎生の動物は鼻から形が出来るとされているから、一番、最初に、手をつけた人を指すと説明があったように記憶します。

 実は、本木が鋳造活字の鼻祖というのは、当たっています。なぜなら、同じ頃、動機こそ違え、活字鋳造に取り組んでいた人は他にもおりました。

 大鳥圭介(1860)・木村嘉平(1864)・島 霞谷(1870)で、括弧内がそれぞれが活字をモノにした年です。そのほか、時代的には後になりますが、熊谷金次郎、天野芳次郎、神崎正誼などの名を挙げることもできます。

 つまり、本木の場合、正確にいうと鋳造活字を完成させたのは、1870年で大鳥や木村より遅いのです。しかし、彼が、後年、長崎の新街活版製造所から大阪に大阪活版所、京都、横浜、東京と印刷の事業化を進め、有名になったから1851年の流し込み活字がスタート点にとりあげられ、「鼻祖」や「始祖」と喧伝されるようになったのです。


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