活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

西周(にし・あまね)か阿部潜か

2010-12-19 10:25:26 | 活版印刷のふるさと紀行
 沼津駅の南口を出て歩きはじめると道路脇に西周のレリーフがありました。
明治元年沼津兵学校の頭取になった人とあり、近くには「あまねガード」と名付けられた何の変哲もないガードまでありました。このあたりが、旧沼津城の一郭であり、西の屋敷もあったといいますから沼津市役所の教育委員会が気を利かせたのでしょう。それに、西周が初代校長でもあった沼津兵学校付属小学校もここにあったと記念碑にありました。

 西が津和野出身で幕府に命じられてオランダのライデン大学に留学した話や「哲学」などの
今は当たり前に使われている学術用語の訳者であることは私も知っていましたが、沼津兵学校とのかかわりは知りませんでした。不勉強を恥じながらレリーフをカメラに収めました。

 しかし、このままでは幕府の陸軍が消えてしまう。駿河に移らねばとみんなが躍起になっている中で危機感をつのらせて「沼津兵学校」を企画したのは、幕府時代の陸軍奉行にあたる陸軍頭阿部潜だったというのです。おそらく、西はお膳立てが出来てから担ぎ出されたのでしょう。

 徳川慶喜の駿府到着が慶応4年の7月、藩主の家達が8月、9月には清水港に向かう外国船に陸軍関係の移住者がたくさん乗り込んだといいますから、すごいスピードです。
たしか、鳥羽・伏見の戦いがその年の正月で、江戸城の無血開城が4月だったはず。この間に設立計画をたて、生徒募集をし、開校準備をしたのですからそのエネルギーたるや昨今の政界人のスローモーぶりとは比較になりません。
 

 
コメント
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