活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

床屋さんの思い出

2015-04-24 10:25:30 | Weblog

 暇を見つけて気取ったフランス語名前の理容店に行って来ました。鏡に映るわが老け顔と対面しているうちに子どのころの「床屋さん」の記憶が蘇って来ました。戦前の小さな田舎町での話です。 

 町の真ん中をゆったりと川が流れていて、そこに架かる橋には市電の軌道と自動車用の車線があり、一段高い歩行者道路がそのわきにあるという当時としてはかなりのものでした。私の行きつけの「床屋さん」はその橋を渡った先にありました。遠くからでも目に入る三色のサインポールは入り口が横手の露地からだったからでしょうか。天気さえ良ければその入り口のガラス戸の横に籐で編んだ乳母車が出してあって嬰児がゴムの乳首を吸っていました。

 使用人はいない夫婦床屋でした。小学4年生頃まではいつも父といっしょでした。父が親方にやってもらう隣で私はおかみさんにやってもらうのでした。おかみさんはときどき赤ん坊を見に外へ飛び出して行って、手をふきふき戻ってきては散髪をつづけるのでした。その間、私は鏡越しに親方の手の動きに見入っていました。親方の白衣の袖から出ている腕から手首まで黒い剛毛が生えていました。毛深いからこわいかというとズングリムックリの体型と笑顔で少しもこわくありませんでした。その手で散髪が終わると私には10銭銅貨のお駄賃をにぎらせてくれるのでした。

 あれは、たまたま一人で行くようになってからのことでした。家に帰るとすぐに母が呼ぶので玄関に行ってみると頬っぺたを真っ赤にして床屋のおかみさんが立っていました。しかも白衣の裾が泥だらけでした。「坊ちゃん、仕上げを忘れたので、父ちゃんに叱られて追っかけたんだけど坂の下で転んじゃって」仕上げは ほんの4~5秒、櫛と鋏を動かしたら終わってしまったのですが、おかみさんの荒い呼吸が首筋にかかって熱かったことをおぼえています。

 私が親方に最後に会ったのはそれから1年も経たないうちでした。いつものように店に入って行くとおかみさんがお客さんの髭を剃っていて、奥から親方の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」という軍人勅諭暗誦の声が聞こえました。小学生の私でもたちどころに事態は理解できました。親方に召集令状が来たのです。それからも何回かおかみさんだけの床屋さんに行きましたが子どもでしたから親方の消息は聞けませんでした。

 町が米軍機の焼夷弾にやられた翌日でした。床屋さんの前を通ると焼け落ちた店の瓦礫の中に乳母車の台車の金属だけが焼けたdれているのが目に入りました。それっきり、戦争が終わっても「床屋さん」は二度と私の前には現れませんでした。

 

 

 

 

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