秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

あのチュニジアが政権崩壊し旅行客足止め

2011-01-17 | 旅・チュニジア
11日、ローマ行きのアリタリア機に変更となったとき、お隣席の女性はたまたま同じ京阪沿線お住まいだった。
チュニジア観光に向かわれるとのこと。
ローマで乗り換えてチュニスまでならすぐですね
私は去年2010年2月に行きましたよ~ なんて話が弾んだ。

チュニジアの政変を今朝になって知りました。

オランダやベルギーでもBBC放送見たけど、天気予報を中心だったし、何より英語だから完全に聞き流してたんだろう。

2011年1月17日10時24分の毎日新聞によると、日本人観光客足止め180人以上。
相次ぐ航空便のキャンセルや情報の乏しさに旅行者らは「いつ帰れるだろう」と不安を募らせている、と書かれてあった。

きっとあのお隣さんも、11日夜チュニスのホテルに泊まられたはず。
翌日からまさかこんな事態になるとは予想もされなかったことでしょう。
今どうされていることやらと案じています。
1日も早く無事帰国できますよう、心より祈ります。

それまでのチュニジアは、強権的なベン・アリ政権が23年にわたり支配し政情は安定していた。
今から思えば、去年観光した時、辟易したのは大統領の顔写真。
かつての共産国圏のようにあまりにあちこちで大統領の垂れ幕や看板などを目にした。
 

 

 

若年層の失業率30%や政治的自由の抑圧などで国民の不満が鬱積していたんだそうだ。

チュニジアの混乱は昨年12月中旬、
生活のための野菜販売を摘発された若者が焼身自殺を図ったことをきっかけに地方都市で警察署などの焼き打ちが発生。
暴動は1月に入って激化し、首都チュニスでも数千人規模の抗議デモが発生。
12日若者を中心に数百人が投石するなどし、治安部隊は催涙ガスを発射して応戦した。
政府発表では、デモ鎮圧などで市民ら23人が死亡した。

13日ベンアリ大統領は2014年の大統領選不出馬や民主化を約束。
14日内務省周辺に市民約5000人が集まり大統領退陣を求めた。
非常事態宣言と夜間外出禁止令を出す事態に追い込まれていた。

大統領退陣の背景には、デモ隊への発砲など強硬な取り締まりを求めた大統領に反発した国軍幹部の介入があったとの情報がある。

14日夕にベンアリ大統領は家族と飛行機で出国
旧宗主国フランスへの入国を希望したとされるが、ロイター通信によると、仏政府当局は「(入国を)望まない」と拒否。
同氏は15日未明、サウジアラビア南西部のジッダに到着した。


最後に気になった一文は、
「主に日本人が参加する旅行をアレンジする地元ツアー会社の責任者アブデル・ラフマン氏は
『もはや、われわれだけの手には負えない。日本大使館の助けが欲しいのに得られない。
日本人を守るという気概を示してほしい』
と日本大使館の対応への不満をぶちまけた。

 
カルタゴの遺跡奥に写る白い塀は大統領府です
こちらにカメラを向けると射殺されるか逮捕されると聞きました。
ライフルを持って警備している兵も見かけました。
遺跡を撮るようにして遠景で撮影したものです。

でんでん太鼓にしょうの笛♪

2010-05-08 | 旅・チュニジア
2月にチュニジアへ行った時、エソラへのお土産にでんでん太鼓を買ってきました。
画像真ん中の竹笛は神社の横笛(画像上)とよく似ていたので買いました。

予想以上にエソラはでんでん太鼓を気にいってくれて、今では自分で鳴らせるようになってるそうです。
しかし太鼓を鳴らす丸い二つの玉がお菓子の「ちちぼうろ」と思っているのか、最後は口に入れるらしいけど。


チュニジアではでんでん太鼓があちこちの土産物屋で売られていて驚きました。
でんでん太鼓って、子守唄にも出てくるくらいだから日本のもの、あるいは中国伝来くらいに思っていました。

  

絶対口に入れるのは分かっていたので、
少しでも埃のかかっていないものを探し、最終的にカルタゴ博物館前の売店で購入しました。


♪ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのお守りは どこ行った 
あの山越えて里へ行った 

坊やのおもりに 何もろた
でんでん太鼓に しょうの笛♪

里のみやげにもらうぐらい昔は「でんでん太鼓」や「しょうの笛」がどこにでもあったのだろうか。

岩波古典文学大系の解説によると、江戸時代頃より伊勢で売っていたおもちゃで、雅楽の笙を略式にした篠竹の一本笛があったそうです。
ぴーとかぴゅーとか鳴るだけで、穴があっても多少の高低音が出る程度のごく安物の笛のようだ。
子守歌の「しょうの笛」は、「篠の笛」あるいは「ひょうとなる笛」だったのかもしれません。

では「でんでん太鼓」はどうなんだろう。

豆太鼓とも呼ばれたこの小さな太鼓は、奈良時代から続く楽器の歴史をもち、その音色は赤ちゃんを災いから救う響きでした。

でんでん太鼓は、奈良時代に中国大陸からきた舞楽とともに伝わった振鼓が起源らしい。
舞楽の振鼓は、木製の胴に鋲で革を止めた直径7-8㎝の小型の太鼓を直角に2つ重ね、それぞれの太鼓に、革を打つ小さな球が紐で吊り下げられています。
柄を回転すると、球が革を打って音が出るのです。

中国では周の時代にすでにこの打楽器があったそうだ。
アフリカのチュニジアとどっちが先やねん。

北西アフリカの食べ物

2010-03-07 | 旅・チュニジア
アフリカの食事といったら、どんなものを想像されるでしょう。
アフリカといっても地中海沿岸諸国しか行ったことがありませんが、
きっと想像以上に野菜が多いことに驚かされると思います。

チュニジアは穀倉庫といわれるぐらいらしいし、日本と変わらぬ野菜がたっぷりありました。
  

街角でもオレンジなど売ってる露天商もよく見かけました。
  

シンプルに焼いただけの野菜もとても美味しかったです。
  

北スペインからポルトガルを廻った時、ジャガイモはふんだんに出ましたがトマトやレタスもほとんどお目にかかりませんでした。
しかしチュニジアではサラダ欠乏症にはなりませんでした。
  

北西アフリカといえば、同じマグレブの国モロッコでもタジン鍋料理とクスクス。
  
クスクスとは極小のそぼろ型パスタ、原材料は小麦粉です。
北アフリカの先住民ベルベル人の伝統料理で、肉やスープと一緒に食べます。
主食として何千年も前から食されているそうです。

お米もライスサラダ感覚で付け合せによくでました。
  

  

タジン鍋も蒸すことで素材のうまみを閉じ込めますが、
一般的に味付けは薄めで素材の味を大事にする感じ。
今回のツアーは東京発で、私達2名を除いて他は関東の方々でした。
関西人にはだいたいOKですが、関東味に慣れた方々は食塩をふって召し上がられる人が多かったです。

肉は鳥だったり、羊だったり、いのししだったり、どれも臭みがなく美味しかった。
  
  
この羊もそのうち料理されるのでしょう。

古代カルタゴ展とサハラ砂漠

2010-03-07 | 旅・チュニジア
京都文化博物館で開催されている「古代カルタゴとローマ展」
旅のツレと一緒に見に行きチュニジア旅行の締めくくりとしました。
旅の前に見てたらもっと理解が深まったのにねと、いろんな説明文もくまなく真剣に読んできました。

まぁ人それぞれでしょうが、私達はチュニジアではカルタゴが見たかったので、南部はいらんかったなぁとあらためて確認。

今回の旅報告では南部の砂漠地方、何枚かの画像は紹介済みですが、まだちゃんとした記事にはしてなかった。
間単にどんなとこだったのか記録しておきます。

   

あちこちで砂漠のバラが飾られているしお土産としても販売されています。
砂漠のバラは、水と大地と太陽が作り出した芸術品です。
オアシスが干上がる際に、水に溶けていたミネラルが析出して結晶となったものだそうです。
水がないと結晶は成長し、まるで薔薇の花のように立派な形になります。
ざらざらした茶色なのは砂が付着しているからで、割ってみると透明な結晶であることが分かります。
砂漠のバラは、かつて水が存在した証拠ですが、どのようにしてバラ形の結晶に成長するのか科学的に解明されていないそうです。


チュニジアについて3日目、塩の湖ショット・エル・ジェリドを見学後、ドゥーズというサハラ砂漠の隊商都市でらくだに乗りました。
翌日4日目、サハラ砂漠を横断しマトマタへ。

チュニジア南部のサハラ砂漠は、「猿の惑星」とか「スター・ウォーズ」などが撮影された場所でもあります。
荒涼とした風景が地球外の異星に見立てられたのでした。

マトマタは、北アフリカの先住民族ベルベル人が現在も暮らしています。
12~13世紀にアラブ民族に追われ、穴居住宅という地面を掘った家が造られるようになりました。
その穴居住宅を利用したホテルもあり、映画「スターウォーズ」のロケで使われたシディ・ドリス・ホテルは特に有名で、多くの観光客が訪れる場所となっています。
映画となってしまうと上手に編集されているし、ここがロケ地だといわれてもふ~んって感じ。
  


穴居住宅で観光用に公開している家もあり見学させてもらいました。
  

  

    
ナンという焼きたてパンも試食させてくれました。

台所道具も置いてはありますが、ここでナンを焼く匂いも熱気も感じなかった。
   

実際にはこうした穴居住宅で今なお生活しているベルベル人もいるんだろうけど、
観光で食べている家も多いのかもしれない。
生活臭がしなかった。   
たぶん右丘上の四角い家で暮らしてるんじゃあないかしら。    

買うてまうやろ

2010-03-01 | 旅・チュニジア
旅に出るのが好きなのは私だけではありません。
血が騒ぐのか、一族皆旅好きです。
今、姪っ子は会社で1ヶ月のお休みをもらってパリにいます。
買うてまうやんか!とオシャレなパリ・グッズの記事をエントリーしていました。

彼女のブログは→ La carte de la vie

私がチュニジアでつい、買うてまうやんか!となったのは、
姪っ子と違ってだいぶレベルダウンしてしまってます。
最初の画像左側、ショット・エル・ジェリドという塩湖の塩でした。
   
家に帰ってよくよく見れば精製されていない塩はゴミ混じりで、いったいどこで使えばいいのか…
   
画像左側に置かれたミルクティー色したさらさらパウダーはサハラ砂漠の砂です。
らくだに乗って沈む夕陽を見に行った時、らくだを引くおっちゃんにビニール袋に入れてもらいました。
   
   
   
ツレがお礼に日本の手袋をプレゼントしたら、何が気に入らなかったのか目の前で捨ててえらい怒ってた。

さすがに買わなかったのはタジン鍋。
大きい食器や土器は持ち帰るのが大変なのもあるけど、色や模様がね。
   

   

なんで、でんでん太鼓がこのアフリカにあるのかわからない。
   
少しでも埃のかぶってないものをエソラのお土産にと思い、カルタゴ博物館前で買いました。
竹笛といい不思議です。  

チュニジアのオリーブ

2010-02-28 | 旅・チュニジア
オリーブの石鹸の他に、1本だけオリーブオイルを買ってきました。
割れずに持ち帰ることができて一安心。
添乗員さんの話では、大人のオムツを持っていけばトランクに詰めるビン類を包んで安心だそうです。
次から持っていこうと思います。

オリーブの枝は、ハトとともに平和の象徴とされることが多く、国際連合の旗やイタリアの国章などにも使われています。
旧約聖書の「神が起こした大洪水のあと、陸地を探すためにノアの放ったハトがオリーブの枝をくわえて帰ってきた。これを見たノアは、洪水が引き始めたことを知った」との一節に基づいているそうです。

ブドウと並び、オリーブは人類によって最初に栽培された植物の一つであると言われています。

その歴史はあまりにも古く、誰が最初に果実を口にしたのか、
塩や苛性ソーダに漬けて保存することをどうして思いついたのか、
オリーブの実をつぶしてオリーブオイルをつくれるとどうして分かったのか、
残念ながらわかっていません。

  
   この図は小豆島のオリーブ園で2008年4月に撮影しました


地中海一帯を産地とするオリーブの木は、12,000年前まで遡ると言われています。
オリーブ栽培はペルシャ中部、メソポタミアからエジプト、フェニキア、さらにギリシャへと広がっていきました。
チュニジアには紀元前8世紀に、フェニキア人によって持ち込まれたそうです。
ギリシャ、ヘブライ、カルタゴ、ローマそしてアラブなどの地中海文明が、この不滅の木を伝播、発展させてきました。


オリーブ生産国の98%以上は地中海に面しています。
今までイタリアやスペインを旅していて、オリーブが栽培されているのはたくさん目にしました。
しかしチュニジアほど多いのは驚きでした。
最終日スースから首都チュニスへ戻るまでの2時間ほど、車中から見える景色は右も左もオリーブが延々と続きました。


   

   


チュニジアのサヘル地域は紀元前、ハンニバルの時代から「オリーブの交易」で栄え、ローマ時代も本国の繁栄を大いに支えました。
チュニジアに点在するローマ都市遺跡のほとんどに、オリーブオイルの古代使用圧搾機が見られます。

オリーブ・オイルの最大の特質は、
生の果肉から非加熱で果汁を絞って放置しておくだけで、自然に果汁の表面に浮かび上がり、これを分離することで得ることができます。

優れた実用的技術をもつローマ人は、油絞りの技術を開発しスクリュープレスは当時占領地だったチュニジアの各地に残されています。

現在のチュニジアはイタリア、スペイン、ギリシアに次いで世界第4位のオリーブオイル産出国だそうです。

イタリアはオリーブオイルの生産量も多いけれど、同時に消費量も多い。
スペインとギリシアから大量のオリーブを輸入し、自国の品種とブレンドしてイタリア産オリーブオイルとして輸出している場合もあるそうです。
そしてチュニジア産のオリーブオイルもイタリアで瓶詰めされてイタリア産となると、添乗員さんが話されてました。

   

オリーブの植林地の境界線にサボテンが使われているようなかんじですが、そこにビニール袋のゴミが多数引っかかったままであるのが目に留まりました。

海流に乗って流れ着くゴミ同様、サハラ砂漠のモロッコでもチュニジアでも、中央アジアのウズベキスタンでも、風で飛んできたのか、土に返らないプラゴミの散乱に心が痛みました。


オリーブオイルのウンチク
1.古代エジプト王ラムセス三世が供物として、ヘリオポリスの町周辺に広がるオリーブ畑を太陽神ラーに捧げたといった内容がBC12世紀のパピルスに記してある

2.オリーブ・オイルの使用はクレタ島で始まったと広く信じられている

3.イエス・キリストの「キリスト」は救世主を意味するが、原義は「油で聖別された者」の意
聖別にオリーブ油が使われたと見られるほか、聖書にオリーブ油が頻繁に登場するのはパレスチナの文化にオリーブ油が根付いていた証拠である

4.ジェノアと並ぶ貿易量を誇るヴェネチアは、オリーブを入れた壷をより多く運べるようにする為、平らな船底を持つ特殊な船を開発した

旅の洋服

2010-02-28 | 旅・チュニジア
チュニジアから帰ってすでに20日が過ぎました。
日々の出来事に追われ、いつまでも感傷に浸っているわけにもいきません。
そしていつものごとく、どんどん忘れていきます。

しかし旅立つ前に、どの洋服を持っていくか悩む話を書いたので、次旅立つ時のためにも記録を残しておくことにします。

基本的にツレと旅立つのはお正月があけてから3月連休までの旅行代金が底値の時です。
南半球へ行かない限り冬支度です。

コートを着る季節の旅はポケットも増えて便利だし、貴重品もコート下に隠せるので安心です。
しかし外で自分の姿を入れて撮影するといつでも同じコート姿となってしまいます。
それでコートの着替えを持っていって気分転換します。

大阪を旅立つ時もコートが必要だし、今回はサハラ砂漠のイメージで中綿入りのライトブラウンショートコートを着ていきました。
連れも同じようなキャメル色コートをセレクトしていました。
飛行機の中でブランケットかわりにもなります。
あまり厚手のコートや重いものは脱いだ時に邪魔になるので避けます。

中に着ているフリースシャツは、たいていの国へ連れて行ってます。
1999年のエジプト旅行前に購入しすでに10年愛用しています。
両胸にフラップがボタンで留めるポケットがついていて安心だし、左胸側にはさらにファスナー式ポケットもついてます。
胸ポケットは耳栓やデジカメ、あるいはイヤフォンガイド機器なども入り便利です。

もう一つのコートは、気温が高いことが予想されたので、さらに薄手で裏無しダスターコートを持って行きました。
  

中に着たものは、長袖Tシャツの上に半袖Tシャツを重ね、その上に2枚仕立てになった少し厚手の綿シャツ。
朝の寒い時間帯は、この上にカシミアカーディガンを羽織りました。
カシミアは薄手でかさばらず暖かいので今回も役立ちました。

ボトムは黒のストレッチパンツをはいて行き、ユニクロのウォームエフェクトジーンズを持って行きました。

インナーはできるかぎり薄手で重ね着ができるものを選んでいます。

シチリアへ行った時は直前にインフルエンザに罹り、治ってすぐだったためタートルネックのセーター着ていってエライ目に遭いました。
飛行機の中が暑くて、脱ぐわけにもいかないし。
首まわりが開いているものにしてスカーフなどで調節するべきだと思い知りました。

チュニジアのアラブ

2010-02-21 | 旅・チュニジア
旅から帰って10日も経てばどんどん記憶が薄れていきます。
下の画像もたぶんスースの街で撮影したよな気がする程度のかすかな記憶・・・
   

ローマ時代の遺跡は、あともう一つ内陸部で見てきました。
   

   
スペイトラの遺跡、調べてみたら7世紀に造られたチュニジアでは最も新しいローマ遺跡と書かれてあった。
大浴場、大劇場、神殿や上下水道などインフラの整った遺跡です。
ローマ時代の道路がそのまま使われていて、今でもその下には下水管が埋まっているらしい。

強大なローマ帝国もやがて東西に分裂し、
東ローマ帝国にあたるビザンチン帝国がこのあたりを支配するようになりました。
7世紀半ば、中心地をカルタゴから内陸部にある修復・拡張したスベイトラへ移したんだそうです。

ところがその数ヵ月後、アラブがやってきて市街地を襲撃・略奪。
このスベイトラ遺跡はローマ・ビザンチン最後の遺跡となり、チュニジアはアラブ人が支配する時代に入っていきます。


北アフリカにおけるイスラム教発祥の地として知られている古都ケロアン
   
高さ8m厚さ2mのこんな城壁が、3.5km続いています。
古い中世の街並みにはアラブの雰囲気が残っていて、都市遺跡が世界遺産に登録されています。

   

669年ウクバ・ブン・ナーフィー率いるウマイヤ朝アラブ軍が、アラビア半島から攻め入りここケロアンでビザンチンを破り建設された街です。
伝承によると、そのウクバが勝利を祝って地に槍を突き立てたところ、
突然そこから泉が湧き出してきたという。
これがメッカの聖なる湖と地下で通じているとして、ウクバはこの地が神の加護を受けていると信じ軍事基地として街を築いた。
    
   
   
メッカに繋がるとされる井戸「ビル・バルータ」
ラクダがいて、井戸の周りをぐるぐる回り水車が回転し水が汲み上げられる。
ラクダは一日交替で毎朝ここへ出勤してくるそうだ。

   
   
ケロアンのメディナに建つ、アフリカ最古のモスクであるグランド・モスクには、現在もイスラム教第4の聖地として数多くの巡礼者たちが訪れています。
メッカ、メディナ(サウジアラビアの町の名前)、エルサレムに次ぐイスラムの4番目の聖地なんだそうです。
しかしこのモスクの中には入らなかったようだ。
だって写真が1枚も残ってないから。

   
シティ・サハブ霊廟には預言者ムハンマドの同志だったアブ・ザマ・エル・ベラウィが祀られています。
ここで竹の立て笛を買いました。


  
9世紀アグラブ朝時代に造られた貯水池は、当時14の貯水池があったそうだ。
世界最高の技術といわれていて、現在もケロアンに住む人々の水源として利用されています。

   
チュニジアのちょうど真ん中あたりにあるガフサという町へも立寄りました。
ウキペディアによると、旧石器時代からの歴史を持つチュニジア最古の町、
町の中心にはローマ時代のものと推定される天然湧き水を使用した浴場が存在する、と書かれています。
しかし、浴場ではなく貯水池だとガイドさんは話されてました。
  
そこへ現地の少年が飛び込みました。
観光客がくるとテンション高くなるのかな。
   
     

40円のエアーメール

2010-02-20 | 旅・チュニジア
チュニジア最後に泊まったスースのホテルで投函お願いした絵葉書が届きました。
急いでとりあえず何か書くために走り書きで、おまけに切手さかさま貼ってた。
600と印刷されてますが、0.6ディナールで約40円、超安い。

2005年春先に北西アフリカのモロッコから送った絵葉書は、同時に出した連れは届いたのに私のは届かんかった。

モロッコとチュニジア、同じマグレブの国でフランス植民地だったけどだいぶ違うね。

チュニジアのポストはイエローだった。
   

やるなぁ、ローマ帝国の土木建築

2010-02-18 | 旅・チュニジア
世界遺産ドゥッガ、ローマ・ビザンチン複合遺跡です。

ローマはカルタゴを滅ぼしてから100年ほど経過して、カエサルがカルタゴに植民市を築くことを決定。
ローマ帝国のアフリカ属州都市として、カルタゴは4世紀頃まで再び栄えました。
現在チュニジア各地で見られる遺跡もほとんどがその4世紀頃までのローマ帝国の建物です。


産経新聞の記事、後半です。
③ローマ文化(2/12の産経新聞記事より)
「アントニヌスの公共浴場、ローマ帝国で3番目に大きいこの公共浴場は今、カルタゴの海岸に巨大な遺構を横たえる。
かつて、数多くの浴室が大理石、モザイクなどで華麗に彩られ、地中海を眺めながら人々は社交を楽しんだはずだ」
   
   
この浴場跡左手に大統領官邸があり、そちらにカメラを向け撮影は禁止されています。


「開発はすさまじい。
南郊の水源地ザグーアンとカルタゴを結んで、水道橋が造られた。
水は高低差を使って約130キロの距離を運ばれ、公共浴場などにも水を届けた」

   


「チュニジア中部、エル・ジェムにある円形闘技場。
ローマ帝国で第3の大きさを誇り、楕円形の闘技場の長径が140mほど。
3万5,000人の観客を収容した」

   

   

アリーナ地下を歩くと、映画グラディエーターの数々のシーンが蘇ってきました。

ある人の旅行記にはこう書かれてました。
このコロセウムは2世紀に建設が始められたが、政治的、経済的な要因によって全体が完成することはなかった。
ガイドさんの説明、聞き流してしまった…


④モザイク(2/15の新聞記事より)
「北アフリカ各地に残るローマ遺跡。
チュニジアのドゥッガは、中でも保存の良さで屈指だ。
首都チュニスから南西へ約100キロ。見晴らしの良い丘の上に、3世紀末に最盛期を迎えたローマ都市が広がっている」

   

   

   

よいお天気に恵まれましたが風が冷たかった。
丘からの眺望はとても気持ちよかったです。

本家のローマより立派な都市遺跡がチュニジアで見られることもおもしろい。

「神殿、劇場、公共広場などの巨大建築を中心にしたローマの都市文化は、アフリカの内陸部にも伝播した。
そして現地の風土と溶け合い大きく発展したのが、建築を飾る”石の絵画”モザイクだった。
ドゥッガではタイムマシーンに乗ったみたいに、モザイクをほぼ往時の姿で見られた」

「アフリカでモザイクが人気だった理由はいくつかある。
素材のカラフルな石があったこと。
そして、穀物、オリーブなど農産物が豊かで経済が潤い、高級品であるモザイクをたくさん作れる力があった」

  

  

地中海の女王☆カルタゴ

2010-02-17 | 旅・チュニジア
グッドタイミングなことに、産経新聞で「地中海のきらめく至宝」というタイトルで「古代カルタゴとローマ展」に関する記事が4回(2/9・11・12・15)連載されました。
さすが新聞社の文章はわかりやすいので、カルタゴの歴史をこの連載記事よりそのままいただいてくることにします。
以下「」で挟まれた文章は、すべて書き写したものであることをあらかじめお断りしておきます。

①ポエニ戦争(2/9)
「ピュルサの丘の遺跡はローマが支配したさい、カルタゴ時代の住居跡を埋め、上から巨大な建物を造った跡だった。
角柱に踏みつぶされたように見える家々が、カルタゴの悲運を物語る」

   
カルタゴ博物館の、どの地層からどんな埋蔵物が出てかを示す展示


古代カルタゴの街並み想像図


「カルタゴは前3世紀には地中海で最も繁盛した商業地だった。
港から神殿があった丘まではびっしり住宅が建ち、5,6階建てもあった。
町は碁盤の目に整備され、古代の地理学者は人口70万人に達したと、と書く」

「チュニジア随一のバルドー国立博物館には、1領の青銅の鎧が残る。
第2次ポエニ戦争(前218~201年)で、アルプス山脈を越えイタリア半島まで攻め込んだカルタゴの勇将ハンニバル。
その軍に関係があるとされ、まぎれもない同国の至宝だ(古代カルタゴとローマ展に出品)」

わざわざチュニジアまで行ったのに、それらは日本各地で巡回展示されてるなんて、運悪いね。
どおりでバルドー博物館は壁からはずされたモザイクもあり、この機会にとばかり補修中だった。





高度な航海術を駆使して繁栄したカルタゴは、イタリア統一をはたしたローマと
紀元前264年シチリア島の利権をめぐりポエニ戦争が始まります。
それから実に80年もの間、ローマとカルタゴは争い、最終的にローマはカルタゴを滅亡させました。
カルタゴの人々は殺されるか奴隷に落とされました。
火を放たれた街は17日間にわたって燃え続け、焼け跡には二度と再生することがないよう塩がまかれたともいわれています。


「住民が最後に逃げ込み、燃え落ちる町を見たとされるのがビュルサの丘だった」


②ケルクアン遺跡(2/11)
「フェニキア人は卓抜したモノづくりと航海技術で知られ、地中海の東から西方へ、そして大西洋へと国際交易網を築き、植民を進めた。
紀元前814年には、チュニジアの首都チュニス近くの海岸に、フェニキア本土から、王家のきょうだい間の相克を逃れてきた王女エリッサの一行が舟で到着する。
エリッサは先住民から土地を手に入れ住み着いた。
ここよりカルタゴが創建された、とされる」

王女エリッサは土地を分けてもらうに当たり、牛1頭分の皮だけの土地といわれたそうだ。
それでその皮を細く長いひも状にし、その紐で囲った土地をゲットするという機転を利かせた英知ある女王だったと伝えられています。


チュニジア入国時に書く用紙には、姓名の次に Meiden name 
何これ?でしょう、母親の旧姓を書くなんて初めてでした。
さすが女王建国の国だけのことあるわぁ。

「ガラスの起源はオリエントとされ、その技術を花開かせたのがフェニキア人、そしてカルタゴの職人たちだった。
ケルクアンにもガラス窯があり、カルタゴの工芸の厚みを物語る。
文化ではフェニキアだけでなく、ギリシャやエジプトの潮流も入り込んでいる」





「ケルクアン遺跡は1952年偶然発見された。
出土遺物から分かったのはここが職人の町だったこと。
陶器、ガラス、金銀細工のほか、盛んだったのが高級染物」

残念ながら、今回のツアーにケルクアンは含まれてなかったんです。

タニとタニト

2010-02-16 | 旅・チュニジア
旅の連れタニは、以前中国の外務省要人を我が家に招いた時同席しました。
その時、中国には50以上の部族がいるが、タニは上海っこ風だと言われました。
そして私は雲南省、もうひとりの友人は黒龍江省といわれ3人とも民族不詳に大笑いしたものでした。

そのタニと、墓碑に彫られた人型のシンボルTanit(タニト)
タニトはフェニキアの「月と冥界の女神」にしてカルタゴの「守護神」です。

  
    バルドー博物館にて

  
    カルタゴ博物館にて、陶片裏の刻印

フェニキア人は、古代オリエントの大国の狭間で翻弄されながらも、技術力と経済力を武器にしなやかに力強く生き抜いた民族です。
地中海の各地に多くの植民市を建設した中で、最大かつ最強の街がチュニジアのカルタゴです。


古代世界史で必ず出てくるカルタゴ、
BC9世紀にフェニキア人によって建設された都市は現在瀟洒な高級住宅地になっています。

大統領官邸右手に広がる巨大な共同浴場遺跡やピュルサの丘の住居跡などは、カルタゴ・ローマ時代のものです。
古代カルタゴ・フェニキア時代の建造物はローマに徹底的に破壊されています。
わずかに円形の軍港と、真偽は不明ながら生贄にされたといわれている子供たちの墓(トフェ=タニト神の聖域)ぐらいだそうです。

   

現在販売されているチュニジア産煙草パッケージにも豊穣の女神タニト神を表した印が印刷されています。

タニト女神のシンボルと右手をかざす礼拝ポーズはフェニキアの文化的特徴なんだそうです。

チュニジアはおよそ3000年の歴史の中、ローマ、アラブ、イギリス、フランスと色々な人種に入れ替わり立ちかわり支配されました。
しかし自分たちの起源は、あくまでもフェニキア・カルタゴなのだという主張がこめられているかのようです。

街角スナップ★イスラムとフランスと

2010-02-15 | 旅・チュニジア
パンはフランス風で、バゲットやクロワッサンなどとても美味しい。

フランス統治時代の影響を強く受けており、メーンストリートはパリのシャンゼリゼ通りのように街路樹とカフェテラスが道路の両側に並んでたりします。
   

しかし観光客ではなく働き盛りのような男性達がおしゃべりしています。
スーク(市場)でもメディナ(旧市街)、地方でも同様でした。
   

いつ働いているんだろう?
分業というか、ワークシェアできてるんだろうか…

働いているおっちゃんの姿をおさめたショットは数少ない。
チュニスで泊ったホテル近くで、飲み物とパンを売る店のおっちゃん
   

中古らしき靴下を整理している露天商のおっちゃん
   

敷布団らしきものを運ぶ親子?
   

子供達はいたって親しげですが、物乞いは一度もされませんでした。
   

   
   
   


面積は日本の半分以下と国土は狭いですが、ローマからビザンチン時代の古代遺跡が数多く、エーゲ海の都市の雰囲気を漂わせ、同じフランスの統治下にあったモロッコよりも都会的。

人口は約1,000万人、アラブ人が95%以上、経済成長率もアラブ諸国ではトップクラスだそうです。
穀物や野菜・果物も豊富で、貧富の差も大きくなく人々の暮らしも他のアラブ諸国に比べるとかなり豊からしい。
教育に力を入れており、予算の20%を占め6~16歳までの11年間の義務教育期間は誰もが無償で教育を受けられるそうです。

これらの情報は帰国後ネット検索で得ました。
ガイドさんは日本語が喋れないので、バスの中でも運転手さんと雑談していることが多かった。
言葉の通じない国の旅はガイドによる部分が大きいですから、もっと生の情報を話して欲しかったと思います。


チュニジアをイスラム国と思って出かけるとちょっとがっかりされるかもしれません。

イスラム教国の特徴であるモスクやメディナ、スークなどを見学しましたが、どれもイマイチ?
たしかに礼拝を呼びかけるアザーンの声も聞こえたけど、エジプトほどではない。
モスクはトルコのほうが素晴らしかった。
イスラムのタイル芸術・モザイクもウズベキスタンには劣る。
スークもイスタンブールやエジプトのほうが活気がある。
モロッコの迷路のようなメディナはほんとにエキサイティングだった。

とはいっても、もっと厳しいイスラム教国であるイランはまだ行ったことがないので。

しかしいちばん見たかったのはカルタゴ・フェニキア人です。
忘れないうちに次回に。

信号機が少なくてロータリーの多い国

2010-02-15 | 旅・チュニジア
チュニスはチュニジアの首都なので人通りも車も多い。
しかし信号はほとんど見かけなかった。
   
朝の散歩してホテルに戻る時、大通りを渡るのにドギマギしていたら、二人連れの男性のうち一人が一緒に渡ってくれた。
そしてまた元の位置に戻ったから私達を助けてくれたのだった。
さりげなく親切でした。

  

  
  
大きな四つ辻はロータリーになっていて、何らかのオブジェが建てられています。
  

  

何にもないところは旗が立ってたり木が植えられていたり。
  

たまたま見かけたおまわりさんと信号機
  

こんなに信号機少なくて、交通事故って多いのか少ないのか?
交通行政はずいぶん日本とは異なるようです。
交通違反ってどんなものがあるんだろう?
かつてパリで見たのと同様、車のボディは埃まみれがほとんどだった。

おちゃめなガイド

2010-02-14 | 旅・チュニジア
確かムリーさんてお名前だったと思います。
一見エルサレムのユダヤ教徒的ですが、冗談の好きなガイドさんでした。

基本的に古代ローマ遺跡の建築物はすごいんだけれど、廃墟だし壊れてるしで、私はあまり感動するということはない。
ただし水の扱い方、遠くから上水を引いてくる水道橋とか、入浴施設とか、下水処理とかは感心させられます。
ドゥッガのローマ・ビザンチン複合遺跡、水洗の公衆トイレです。
下に水が流れているんだそうです。
   

以前トルコ・エフェソス遺跡でも同じような公衆トイレ見学しました。
ゆりちゃん、懐かしいでしょう。
あの時も驚愕したものでした。
   

ローマから時代は進み、その後の中世ヨーロッパのトイレって最悪だったんですよね。
桶にためた排泄物を2階から捨てた時に、下を歩く人の頭にかからないよう帽子が考案されたとか。
お風呂もめったに入らないから香水が発達したとか。

中国江南地方を旅したときのガイドさんは上海生まれの40代男性でした。
その方は子供の頃、桶に溜まった排泄物を捨てに行くのが毎朝の仕事だったと話されてました。

   
カルタゴ・ビュルサの丘にはローマ時代の多くの彫像も立っていますが、頭部がない。
皇帝が変わるたびに頭だけ付け替えていたそうです。

今回のツアーは男性わずか5名という珍しい構成比率でなんと一行40名!
人数が多いと、ついつい説明も適当にはしょって聞いてたりするし、
尋ねたいことがあってもそれっきりになったりする。

   
カルタゴ博物館の門をくぐって建物を撮影したショットです。

遠すぎてわかりにくいですが、柱前にボーリングの玉より少し大きい丸い石が積み上げられています。
何だろうと気になったけど聞くチャンスがなかったし、拡大画像もありません。

今回ネットでいろいろ調べていてわかりました!
カルタゴを徹底的に破壊したローマの投石機で放たれた石の球だったのでした。