世界史と、日本史と、地理と、倫理社会。
30年以上前の古きよき時代は全部学ばされたし、入試だって文系は社会2科目受験でしたもの。
小学校では、世界の国々の首都を覚えたり、白地図を埋めていったり、結構楽しい作業でした。
休み時間に地図帳から地名を探すのも流行りました。
高校時代は、特に世界史が大好きでした。
歴史は一国だけで完結せず、お互いに干渉連携しながらグローバルに時代が変遷していくのが興味深かった。
高校卒業までに身につけた知識がおぼろげながらも今だに礎となっています。
これだけインターナショナルな時代に、なぜ世界史をはしょろうとするのか理解できません。
先だって幣立神宮について調べていて、応神帝の時に隠れ宮になったと書かれていたことがとても気になりました。
ここから先は興味ある方だけ
「倭の大王は古墳時代の4世紀後半から5世紀にかけ河内に王墓群を形成しました。国内外情勢が不安定だったこの時期、活躍したのが応神大王です」
と毎日新聞も主催の一つである、「応神大王の時代」という近つ飛鳥博物館の特別展のパンフに書かれていました。
応神大王が活躍したのは4世紀後半らしいです。
母親が神功皇后で、仁徳天皇は子供です。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵(三韓征伐)、
韓国などが教科書の内容で問題視していますよね。
百済の頼みで新羅を撃つ、
百済との誼は王仁博士の来朝(345年)に象徴され、その危機を救いそれに百済が感謝して七支刀を作った翌年(370年)応神天皇は崩御した、と物語「応神天皇」に書かれているようです。
400年前後に朝鮮半島への出兵が幾度となく繰り返され、大陸の文化と同時に帰化人が多く入ってきました。
仁徳天皇は帰化人に最新技術を教えてもらうために、猪飼野にある御幸森神社で休憩されたことを、この夏鶴橋コリアンタウン探索で知りました。
戦争兵器は常にその時代のテクノロジーの最先端を行くようですが、この時代も最先端の兵器つまり鉄製の武器を持って、東へ西へと倭の大王の勢力を拡大させていったようです。
この4世紀は、斎宮制度から見てもおもしろい。
伊勢の国津神神を奉じる伊勢の在地勢力を併呑し、
皇祖神としての天照大神の神像がほぼ整ってきた重要な転機に当たるようです。
学生時代に学んだ日本史では、縄文・弥生の先史時代から突然「任那日本府滅ぶ」がでてきて、仏教伝来ご参拝(538年)なんて習いました。
邪馬台国がどこにあったかとか、騎馬民族説というのもありますね。
中国の三国志で呉の国は魏に敗れたあと、日本に流れ着いたので、当時の服のことを呉服という、なんて聞いたこともあります。
徐福伝説も然りです。
空白の日本古代史、もっと早くすっきりさせてほしい。
ネットで見ているだけでもおもしろかったです。
しかし幣立神宮が隠れ宮になる政変が何だったのかはわかりませんでした。