秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

ハーブ18種類が入った薬用酒・45度です。

2009-04-14 | 旅・ウズベキスタン
栓を開けるのに、ペンチが必要でした。
私のほかにもうお一人、このお酒を買われた御仁は、どのようにして開けられたのかしら。

サマルカンドでワインテイスティングしたところ 
 

だいたいどこの国へ行っても、その地のお酒をテイスティングさせてくれるところはあります。
しかし、こんなにたくさん10種類もさせてくれたところはなかった。
なんと太っ腹、うれし~い!! と2本買いました。

今回は珍しいハーブ薬用酒、上等の紹興酒のような味わいでしょうか。
名前は聞いたけど忘れました。
少しミントの香りと味がすっきり、しかし養命酒のように甘めです。

中央アジアのワインの歴史は数千年
 

寒暖差の大きい内陸部ゆえ、植物は小ぶりで味が濃い。
葡萄も甘みが強いので、ワインも甘口となるそうです。

フランスやイタリアに葡萄の種子が持ち込まれる以前から、中央アジアでは果実酒が作られていました。
しかしイスラムとなってから長い間、ワインは未開の地となったようです。

中国ではすでに唐の時代に、ガラスグラスにワインを注いで味わっていたらしいです。
ソグド人によって胡酒として持ち込まれたようです。

クシャン朝の三尊仏

2009-04-12 | 旅・ウズベキスタン
タシケントの歴史博物館でもう一つ印象に残ったのが、
1世紀ごろの仏像初期の造形、クシャン朝時代の仏像です。
この画像もまたSさんからいただきました。

三蔵法師・玄奘が「大唐西域記」でこう書いているそうだ。
「坦蜜国(テルメズ)は・・・東西は長く、南北は狭い。
伽藍は十余カ所、僧徒は千余人いる。
多くのストゥーパおよび仏の尊像は神異(ふしぎ)なことが多く、霊鑒(ごりやく)がある。

ご利益があるらしいので、
イスラムの記事ばかりだったウズベキスタン旅記録に仏像を最後に載せておきます。

 
ウズベキスタン最南端の街テルメズ近郊のファヤズ・テパ遺跡で、
三尊仏がうつむけになっていたためきれいな状態で発見されたそうです。
石灰岩に彫り込まれた仏陀は柔和で美しく、中央アジア仏教美術の最高峰といわれています。

 
アムダリア川の港として栄えたテルメズ、今は川を渡ればアフガニスタン。
シルクロードの歴史からみても非常に重要な仏教遺跡は、アフガニスタン国境に接した軍隊の基地のなかにあり検問所があるそうだ。

紀元前5世紀にインドで生まれた仏教は、500年の歳月を経て中央アジアからガンダーラまで広大な帝国を築いたクシャン人によって世界宗教へと飛躍していきました。

クシャン族はパミールの西のワッハン渓谷から興り、1世紀中頃、現在のウズベキスタン南部からインド北部にいたる大帝国を築き上げました。

 
もともとクシャン人はゾロアスター教を信奉していたが、あらゆる宗教に寛容でもあった。
紀元前にクシャンの進出したバクトリアの地はギリシャ文化の温床であり、さらにガンダーラ地方は東西交通の要衝であったので中国やイランから幅広く異文化が取り入れられた文化が熟成されていった。

ギリシャ的な偶像崇拝には何ら抵抗がなく、ヘレニズムの写実主義の伝統が加わり、勃興しつつあった大乗仏教の誰しもが救済者として頼れる仏像の製作へと繋がった。

インドの仏教教義に基づき、ヘレニズムの写実主義、ギリシャ神話やゾロアスターの要素も加わり、数百年間に渡って蓄積された多地域多文化の混交が、ガンダーラ美術として花開いたのでした。

またローマとの海路交易もさかんになり、インドの要衝部をおさえたクシャン朝には膨大なローマ金貨が流入。
その金貨を用いてクシャン朝は独自の金貨を発行し、金本位制をとっていたそうです。

正倉院や法隆寺に残された品々は、こうしたルートを通ってもたらされたものもあることでしょう。

野菜4:肉3:穀物3で体重増減なし

2009-04-08 | 旅・ウズベキスタン

ウズベキスタンの食事はだいたいどこへ行っても、最初はナンというパンと野菜サラダ数種類がでてきます。
ニンジンの細切り、キャベツのコールスロー風、ポテトサラダ、ビーツの酢漬けなど、店によって少し味付けが違う程度でした。
テーブルについて、メインディッシュが出てくるまで数人で分けて食べていると結構お腹に溜まってきます。

 

 
スープはコンソメだったりミネストローネ風だったりしますが、たいてい野菜はしっかり入ってました。
麺入りスープはウグラ、中央アジア風うどんはラグマンというようです。

 

 

メインディッシュは、日本でもおなじみのものながらかなり大きいサイズで、日本女性なら全部食べきるのは苦しい。

 

米飯もそれなりに美味しくいただけました。
ハッシュドビーフかビーフストロガノフか違いはわかりませんが、肉は羊なのか牛なのかもわからず食べてました。

 

プロフとピラフ、この違いもよくわからなかった。
デザートはたいていフルーツでした。

どれもみなそれなりに美味しかったし、結構たべたけれど野菜たっぷり食べたおかげでインドについでお腹も好調、帰国しても体重に増減はなかったです。

いちばん驚いたのはランチパック↓
 

列車移動のランチと、帰国便が朝7時だったため朝食がランチパックを体験しましたが、どちらもひどかった。


ティムールの呪い

2009-04-05 | 旅・ウズベキスタン
サマルカンドのティムール坐像、バスの中から撮影しました。

ウズベキスタンでティムールは英雄で、日本で誰に相当するか考えると数人ぐらい合体しても足りないかも。
ソ連より独立してから、レーニン像などに変わりティムール像が設置されたらしい。

ティムール生誕地シャフリサーブスでは立像
 
 

タシケントでは宿泊したウズベキスタンホテルの前が公園で、そこにティムール騎馬像がありました。
 

ティムールの遠征図
 

インド遠征から戻ったティムールが壮大なモスクを建設することを決意し、約5年で完成させたビビハニム・モスク
 
一度に13000人が礼拝することが出来た中央アジア最大のモスク、ビビハニムはティムールの愛妻名です。
中庭にある大理石のコーラン置き台は15世紀にウルグベクによって造られました。

急がせた工事中、毎日毎晩工事現場で見張っていたティムールはそのため風邪を引き、1402年中国への遠征に旅立つとまもなく亡くなったと言われています。
完成したのはティムールの死後3年目、ティムール本人は完成を見ることが出来ませんでした。

 
突貫工事のせいか、それとも当時の技術としては大きすぎたのか、落成直後から崩壊が続き、その後地震によってほとんどが崩れてしまいました。
北西側ミナレットの土台部分のみが残っています。


ティムールは死後シャフルサーブスにすでに用意した霊廟で眠る予定でしたが、実際はサマルカンドで眠っています。
 
グリ・アミール廟、タジク語で「支配者の墓」
ティムール本人と家族、教師、聖人が眠っている霊廟です。

 
ティムール朝は内紛の末に滅亡。
ブハラ・ハーン国が支配するも内紛の末にロシアの干渉を受け、1868年にロシア領トルキスタンに編入されました。

第二次世界大戦が始まった頃、ソ連政府は調査名目でグリ・アミール廟にあるティムールの石棺をあけました。

石棺には「墓を暴けば、私より恐ろしい敵がやってくる」と書かれていた。
その言葉通り、調査直後にソ連はナチス・ドイツ軍による奇襲攻撃を受けて(バルバロサ作戦)、長い独ソ戦争が始まったため「ティムールの呪い」と言われたそうです。


ウズベキスタンがソ連より独立後1990年代に建造されたアル・ブハリ建築群、サマルカンド市街から約25km郊外にある新名所です。
 
6歳でコーランの7万のハディス(逸話)を覚えたアル・ブハリ(810-860)、イスラムの偉大な神学者がこの場所に葬られています。

もともと16世紀に小さな廟とモスクが建てられた場所で、1998年にウズベク政府が新しい廟とモスク、展示室を作ったそうです。
ウズベク中から優秀な職人が集められたそうで、現在のイスラム建築の粋を究めたものです。

観光地と言うよりイスラムの巡礼地で信者が世界中から礼拝に訪れるそうです。

世界遺産☆サマルカンド

2009-04-04 | 旅・ウズベキスタン
シャーヒ・ジンダ霊廟群、このアーチをくぐると
 

サマルカンドで一番印象に残った場所です。
ティムールゆかりの人々の霊廟とモスクが一直線に建ち並び、今はウズベキスタンの人々の巡礼場所になっています。
当時は40あったのが現在14箇所だけ残っています。

アフラシャブの丘の南角にあり、横から見ると
 


サマルカンドはかつてはマラカンダ(豊かな土地)とよばれ、タジキスタンとの国境にほど近く、紀元前10世紀頃からシルクロードの中心都市でした。
紀元前4世紀アレキサンダー大王の遠征軍がマラカンダに立ち寄ったとき、その美しさに感銘を受けたそうです。

しかし13世紀チンギス・ハーンが破壊し、今は↓
 

当時の中心的な担い手はソグド人。
伝説のソグドの最初の王からとられたアフラシャブの丘に、何世紀もの間城壁に囲まれた都がありました。

今はなんにも残っていないけれど、2750年間にわたる11層の文化の痕跡が発見されています。
丘の16m地下から発見された紀元前7世紀の壁画には、ソグド人と拝火教の絵が描かれているらしい。


この破壊された都を蘇えらせたのがティムールです。
イランやシリア、アフガニスタン等から優秀な職人や建築家を連れて来て、当時の新市街に整備された都市を建設させた。
壮大で芸術的な宗教施設群をつくり、イスラーム世界に名だたる都市にしました。


サマルカンドといえばここ、レギスタン広場
 

中央はティラカリ・モスクとメドレセ(1660年・天井の金箔が見事な美しさで、純金25kgが使われているそうだ)
      


左にウルグベク・メドレセ(1420年・青い星の模様が装飾)
ここのミナレットに登ったので少し高いところから中庭を撮影。
 


右にシェルドル・メドレセ(1636年・正面アーチ、ライオンの絵と人顔のタイル装飾は200スム紙幣にも描かれています)
この中庭で、楽器や皆さん思い思いのウズベキスタンの思い出と土産物を買われたのでした。
 

ホスピタリティ☆親しみやすい若者達

2009-04-02 | 旅・ウズベキスタン
バフさんは現地ガイド、1982年生まれと聞きました。
恰幅のいい大男で、とてもその年齢には見えません。

タジク人なので家ではタジク語、ペルシャ系言語ゆえペルシャ語もOK、もちろんウズベク語が日常会話です。
学校ではロシア語で授業を受けたそうで、他に英語、日本語が堪能です。

携帯は結構普及していて、彼が使っていたのはアイフォンみたいなノキア製、月に60~100ドルぐらい使うそうです。
一般人の給料平均200ドル程度と聞いたような気がする。
ガイドという仕事柄にしてもすごいね。
 


暗い螺旋階段を登り、やっとたどり着いたミナレット上で
 
上はスペースがないので入れ替わりで降りてくれました。
タシケントからヒヴァ観光に来たと言ってました。
若者なら結構英語が通じます。


アイスクリームを食べている若者はよく見かけました
 
笑うと金歯がキラリとする人は多かった。
金がたくさんとれるから安いのかしら?


公園でみた男性2人連れ、後方の人は携帯電話中
 
日本人の添乗員はアイフォンを持ってました。
日本まで電話すると1分500円と言ってた。


車窓から
 
田舎ではまだまだバスが珍しいのか、手を振ってくれる人が多かった。
私達も皇族の宮様の気分で手を振り続けていました。


国内線のキャビンアテンダント、ロシア系かな
 


10代から20代前半の若い子たちは、ジャパニーズ?と話しかけてもきますし、写真一緒にとろうとも言います。
 


アフガン難民の子供が施しを求めてまとわり付いてくる
 
アフガニスタンと国境を接しているから、もっときな臭く難民も多いのかと思っていたけれど、シャフリサーブスで1回見たきりでした。

シルクロードの中継点にあるウズベキスタン、
残っている建造物はほとんどが中世のイスラム建築です。
しかしそこで暮らす人々のDNAには、いまなお他民族の切磋琢磨で生き延びた共存共栄を図るためのホスピタリティが深く根付いているように思われました。

日本が今後観光大国を目指すのなら、招き入れる側のホストとして見習わないといけない点はあるでしょうね。

ホスピタリティ☆はにかんだ笑顔

2009-04-01 | 旅・ウズベキスタン
観光国となるには、まず観光資源、そして交通インフラでしょう。
そして親しみやすさも大きな要素の一つです。

ネットでウズベキスタンの旅行記を旅立つ前に見てると、ウズベクの人々の画像がよく載っていました。
実際行ってみると、みな親しみのある笑顔で接してくれて、写真撮ってくれといわんばかりのジェスチャーをされる。

それでついついシャッター押してたら、どれも削除しがたく見ていただくことにしました。

まずはおっちゃん達の、はにかんだ笑顔から
 

 

 

 

  


中年以上の女性は、やはりイスラムの顔を隠す習慣からか、あまり目を合わせてこない。
 

 

 

しかし若くなると、洋服が民族衣装系でないのが見分けるポイントですが、今風の服を着た女性ならちゃんとカメラ目線です。
 

若者達は次回で。

想定外のきれい好き

2009-03-31 | 旅・ウズベキスタン
アジアってあちこちにゴミの散乱よくみかけ汚いイメージ。
ウズベキスタンも中央アジア、同じようなものなんだろうと思って出かけたら大違い。

都会も田舎も行く先々で時間帯にかかわらず掃き掃除する人々を見ることが出来ました。

タシケントについて、朝まだ早いうちにクカルダシュ・メドレセに到着。
 

 
まず掃除が行き届いているのに感心し、掃き掃除している人が多いのにもびっくり。

ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場では
 
玄関前をモップ掃除している人は、時々汚れた布を洗い黙々と何度も行ったりきたりしていた。


 
青いユニフォーム着てるから、たぶん公園管理の掃除人?
木々が多いということは、葉や実も落ちるので常に掃除しないとすぐにたまります。
どこの公園へいっても掃除は行き届いていました。

 
緑の揃いのエプロンつけてるから、これも雇われ人でしょう。


 
こういう街中の掃除人は、自分の意思によるボランティアなのか、
公的機関から雇われているのかどちらなのかしら?


 
チョルスー・バザール入り口あたりで。
各店舗スペースあたりを掃除する人はたくさん見られました。
バザールではしゅろの箒も売ってたけど、スーツケースに納まらないので買わなかった。

車窓からみていても、街中の店屋さんや各家屋の前を掃除する男性や子供の姿もよく見かけました。

 
ここには掃除人が写っていないけれど、土産物やのおじいさん達が腰掛ける近辺にもゴミにがないのは、常にお掃除されているからでしょう。

 
ゴミ箱の設置を見たわけではありません。
しかし掃き掃除する人々はたくさんみかけました。
ウズベク人がキレイ好きなのは想定外でした。

イスラムのプライド

2009-03-30 | 旅・ウズベキスタン
ウズベキスタン歴史博物館、ここも中で撮影する人は2500スムが必要だったので、カメラ無しで見学。
画像はツアー同行者に頼んで送ってもらいました。

早朝着の飛行機でタシケント着いてそのまま観光、お昼ご飯を食べるとテキメン眠たくなる。
説明聞きながら立ったままうつらうつら状態で、ほとんど記憶が飛んでいます。

2匹の蛇の石彫像が一番印象に残りました。
後で調べたら分かるとタカをくくっていたら、検索では見つけられない。
画像送って下さったSさん、もしこのブログ見ておられたら、このへびは何だったのか教えてください。

 

確かルネッサンス前のイスラムは錬金術や天文学・医学が進んでいて、西洋に大きな影響を与えたと習いました。

イヴン・スィーナー(英語読みのアヴィセンナ)980ー1037年
 
ブハラ出身で、999年にはサーマーン朝が滅亡し彼は祖国を去る。
放浪の旅に出、イラン各地で活動、当時の世界の大学者であると同時に中世ヨーロッパのスコラ学に多大な影響を与えた。
『医学典範』医学書は、後のヨーロッパで17世紀まで大学で使われていた。

こうした歴史もあってか、ウズベクの人々は国の教育制度もありますが、一般人でも医学の知識に貪欲なのかもしれません。


数学者ムハンマド・アル・ホレズミ(783~850)の像
 
ヒヴァのイチャンカラ西門右の城壁前に、紙をじっと見つめ何かを考えている表情が印象的です。
ホレズム帝国で生まれたので、アル・ホレズミという名前ですって。
「ゼロ」の発見者だと聞きました。
ゼロの発見はインドだと思っていたけれど、彼がインド滞在中に為しえたとか、
ガイドさんの話をいい加減に聞いてしまったので、ネット検索したけれどわからなかった。 
アルゴリズムやコンピューターの礎となったそうです。

そういえばイスラムのテロリスト達は理科系出身者多いですよね。
考え方の基本姿勢に接点があるのかなぁ

戦争などで建物は破壊されても、民族のDNAは綿々と受け継がれていきます。
イスラムのプライド、そしてシルクロードの民の強靭で柔軟な精神を時々垣間見る時がありました。

ウズベキスタンは石油産出国で、国内需要分は充分あり輸出してないだけだそうです。
天然ガスもしかり、金やメタル金属も産出されます。
そして農作物も国内でまかなえてそうださし。
なんと国内線の飛行機はウズベキスタン製だそうですよ。


昨夜NHKで沸騰都市という番組みました。
ロンドン、ドバイ、イスタンブール、ダッカなど去年春の放映と比較して、リーマンショック後の不況とどう闘っているかという内容でした。

ドバイやイスタンブール、ダッカはイスラムの国です。
イスラムの横のつながり助け合い精神や、プライドが今後の世界潮流に大きく影響するだろうなと思いました。

桁数の錯覚

2009-03-29 | 旅・ウズベキスタン
外国へ行って現地の貨幣に両替しますが、これを日本円に換算するとどれぐらいになるかがすっと分かるようになるのは、いつも帰国直前。

ベトナムのドンやトルコのリラなども、べらぼうに大きな数字でわけがわからなかった。

桁数が大きくなると、普段が小銭専門生活なのでか頭が切り替わってくれない。
2009年3月現在1ドルは100円程度、
これならHow are youをいちいち日本語に置き換えないようにスッと換算できて、5ドル(=500円)なんて聞くと安いとすぐ支払ってしまう。

今回のウズベキスタンは、10ドルが140,000スムでした。
10ドルなら1000円で安いと思うのに14万スムといわれると躊躇してしまうのです。

10,000スムが800円程度ということは、何度も聞いて分かっているのに、5000スムなんていわれると高っ!!
よくよく考えれば400円ぐらいなのにね。


世界遺産がある地方の街々はまだまだ発展途上なので、スーパーもなければもちろんコンビニもありません。

たぶんそこで暮らす人々はバザールへでかけて調達するのでしょう。
昔の日本の市場のように、何でも計り売りです。
値段表記もされていないし、言葉が通じないしどれぐらいの値段かはわからなかった。

ただとてもフレンドリーで、すぐ味見しろとジェスチャーで。
これはざくろ、もちろん買わなかったけど機嫌損ねずよかった。
 

白い丸いものはヨーグルトの固めたものだそうだ。
ビールのおつまみにしたり、ポケットに入れて時々食べたり。
カルシウムが多くて妊婦さんにおススメと言ってた。
 
娘がただいま8ヶ月の妊婦なので、買う気満々で味見したら、あまりに塩っ辛くて酸っぱくて。

野菜は日本と変わらないぐらい作られ、サラダは毎食でたし野菜不足になることはなかった。
 
寒暖差の大きい風土なので、植物は小ぶりで甘みが強い。
そのため葡萄も糖度が高く甘いワインができるそうだ。

ニンジンの細切りしたサラダ、キャベツのコールスローなども毎食でたけど、バザールではナンや惣菜もたくさん販売されていた。
 

穀物や木の実も量り売り
 

サマルカンドのバザールでアーモンドとピスタッチオとピーナッツ砂糖まぶしと、蜂蜜を買った。
 
ホントはキロ単位販売のようだけれど、2000~5000スムぐらいのお金をだして、これだけ頂戴というと適当に袋に詰めてくれた。

これは肉屋さん
 


地方の道路沿いにはパーキングエリアはまだない。
そのためトイレ休憩用のレストランも土産物も立ち寄ることはない。

車窓から見えたジュース屋さん
 
こうしてペットボトル入りのものが田舎にも普及し始めて、ゴミ問題が発生していくのですね。

もちろん首都タシケントは都会なので街なかに販売スタンドあり、通勤途上の人が買い物してましたよ。
 

世界遺産・シャフリサーブス

2009-03-26 | 旅・ウズベキスタン
シャフリサーブスは、ティムール誕生の地。
旧名ケシュ、かってのソグディアナの古都で、
7世紀には唐の玄奘三蔵法師も訪れたといわれています。

ティムールが生きていた時代の建物は壊され残骸しか残っていませんが、緑豊かな静かな街でした。

ウズベキスタンの英雄ティムールの立像より、200mぐらい後ろに「白い宮殿」という意味のアクサライ、今や入口のアーチを残すのみ。
塔に登った記事の中でウズベキスタンの旗がなびいていた所です。

★追記
なぜアクサライ宮殿の屋上にプールがあったのがわかるかというと、スペインから派遣された大使ゴンサレス デ クラビホ(Gonzales de Clavijo)が記録に残しています。
この本を旅のツアー仲間のみねさんは以前読まれたことがあるそうです。


ドルッサオダット(大いなる力の座)建築群
 
22歳で亡くなったティムールの長男ジャハンギールの霊廟があり、ティムールが自分が死後入る予定だった石棺もあります。
しかし実際にはティムールはサマルカンドのグリ・アミール廟に眠っています。

ドルッティロヴァット(瞑想の家)建築群
 
たぶんこれは裏側?
どちらが正面かわかりませんが、正面画像らしいものは、「気になる木」の記事で桑の大木を紹介した画像です。

何よりも勇敢な軍事指導者であったティムールは、
同時に学者との対話を好み、「一瞥して物事の核心を悟り」「真実と作りごとを鋭く識別する」極めて明敏な人物でもあったそうです。


朝ブハラをバスで出発しシャフリサーブスに昼頃到着したので、観光の前にとある民家レストランで昼食でした。
 

中庭があって、春の穏やかなランチを味わっていました。
彼らがレストランに入ってきたとたん静寂が破られました。
 

自分の席に着くと、セッティングされた皿に水かけさっと洗って、その水を中庭に捨てていました。
何をしているんだろうと見ていると、次にスプーン・フォークも丁寧に拭いていました。

つまりセッティングされた食器やカテラリー類は汚いものと信じているのですね。
私達日本人は清潔好きです。
しかし、まぁよしとして、よっぽどでなければ準備されたものを拭いたり洗ったりはしませんもんね。

香港からのツアー客、5カ国周遊しているらしい。
現地ガイドさんの話によると日本人の4倍は食べるそうだ。

香港へ行かれたことのある方はご承知のように、香港人はとてもエネルギッシュです。
歩くスピードも速いし、よく食べよく喋る。
サマルカンドのホテルまで一緒でした。

彼らはとてもフレンドリー、日本人とわかるのか「こんにちは~」と挨拶してくれました。

これでひと悶着

2009-03-25 | 旅・ウズベキスタン
このスーツケースには納まらない荷物。
やむをえず手荷物として機内持ち込みにされた方2名は、帰路の飛行機に乗る前の出国手続きで「ちょっとこちらへ」となりました。

銃や武器を仕込まれてると思われたのでしょうか。

あわてて添乗員もその部屋へ。
ツアー一行、不安げにその場で待ちぼうけ状態。
なかなか出てきません。

午前7時発の搭乗が始まる30分前、添乗員が部屋から出てきて、
「時間がないから先に搭乗ゲートへ行ってください。
あのお土産に税金がかかるというので、この国の文部省みたいなところと交渉中です」

一緒に帰れるだろうか心配しつつ先にゲートに向かいました。
半分以上が搭乗し終わった頃添乗員と2人の持ち主が現れました。
どうやら購入価格の1割程度の関税を支払い解放してもらえたようです。

何を買われたかというと、
 

サマルカンドのレギスタン広場にあるシアルドール・メドレセ、すでに神学校としての役割を終え今は工房となっていたりお土産屋さんになっていました。

その中の一画にウズベキスタンの民族楽器を演奏してくれるところがありました。
以前小泉元首相が訪れたときも演奏を聞かせた地元の有名な音楽家だそうで、一緒に写った写真を見せてくれた。

様々な胡弦楽器を聴かせてもらうと、いい音色で欲しくなる。
一番安いので70ドル。
弦が切れたり、皮が破れたりした時メンテナンスできないなとあきらめ、CD1枚を15ドルで買いました。

しかしツアーの中のリッチなおば様二人が、400ドルと150ドルのを買われたのでした。
その梱包はエアークッションに包むでもなく超簡単なエコ包装。
え~っ、こんなので持って帰るの?
周りのものが不安になるような梱包でした。
それにしても関税かかるって事前に言ってよね。

ちなみにウズベキスタンの太鼓はこんなの↓
 
縁裏に金属の輪がぶら下がり、タンバリンと合体したがごとくのなかなか乙な太鼓でした。
セレブな奥様はこの太鼓も買われてました。

そしてさらに、スザニ刺繍の入ったバックも↓
 
一つ5から10ドル程度なので、現地で持つには楽しいけれど・・・

このウズベキスタンの有名なスザニ刺繍、手刺繍のものは見事な芸術品ですがお値段も超素晴らしい。
 

他に有名なお土産といえば、書見台
 
1枚の板を彫り抜いて作られたもので、何通りもの形に変身するすぐれもの。
安いので30ドルぐらいであったので、フルートの練習するときの楽譜台にしようかとずいぶん思案したけどやっぱり買わなかった。
これを初めて作った人は偉いね。

こうのとりの形をしたハサミは、ナイフ同様有名な工芸品らしい。
シャプリサーブスのタキの工房で作っていた。
 
小さなものでも28ドルを値切りに値切ってやっと20ドル、
お金持ちの奥様方は一人で何個も買っておられました。

今回のツアーも、お金持ち多かったわぁ。
 
いつも帰国してから土産物の話をすると、子供たちから、
「買えばよかったのに、二度とその国へ行くことないやろう」って。

ちょっと休憩

2009-03-25 | 旅・ウズベキスタン
旅から帰って1週間、あっという間です。
早く記事にしないと、どんどん忘れて行くし時間との勝負です。
でも月末で忙しいし、おまけに侍ジャパンは見んとあかんし・・・
昨日の決勝戦はハラハラドキドキでしたね。
ホント勝ってよかったわ。

ところで旅のお土産。
何も要らんといわれても、全く無ければないでがっかりさせるだろうし、くだらんゴミみたいな民芸品もどうかと思うし。
旅している者にとって、土産は旅のあいだ始終頭を離れません。

ヒヴァのジュマ・モスクの中で、金色の魚の飾りが目にとまりました。
店のスタッフは金色モチーフは金運にいいと信じてます。
そしてたった1ドルだったこともあり早速ゲット。
ここでそんなものを買ったのは私一人でした。

めちゃ喜んでくれて、デニムスカートをリフォームして作ったエコバッグにぶら下げてくれています。
お値打ちありました。

 

世界遺産・ブハラ

2009-03-23 | 旅・ウズベキスタン
サッカーボールを追いかける子供たち。
世界遺産を傷つけたらどうすんの、
写真撮っとこうと近づくと集まったきてポーズをとった。
ウズベキスタンの人たちは写真撮ってもらうのが好きな人が多かった。

少年達はスペースを見つけるとサッカーに興じているのをあちこちで見かけました。

ウルベク・メドレセで
 
ティムールの孫のウルグベクが、真の教育施設にしたいと願って1418年に建てた、現存する中央アジアで最古の神学校


 
カラクム砂漠は黒く、キジルクム砂漠は赤いという。
このキジルクム砂漠を南へ下るのに、陸路バスだと7~8時間かかるのを飛行機で約1時間。
私が座った飛行機の座席は左側だったので、ずっとキジルクムが見えていたということになる。

アムダリア川の両側で沙漠の性質が異なり、
西南側がカラクム(黒い沙漠)東北側がキジルクム(赤い沙漠)

 
白い部分がみえることもあって、それは塩の白。
塩害で土を変えないと植物は育たない不毛の地です。

ブハラはシルクロード交易によって古代から栄えた古都で2500年以上も歴史があります。
ブハラの最初の黄金期は9世紀サーマーン朝時代に始まり、
イスラム神学の聖地として偉大な学者が集まりここから各地に巣立っていったそうだ。

ブハラの黄金期の第2期は16世紀後半、
今残っている建造物はそれ以降のものがほとんどで、茶色いイメージの街でした。


カラーン・モスクから右奥にカラーン・ミナレット
 
ブハラの旧市街で一番高く砂漠の灯台と言われる町のどこからでも見えるブハラのシンボル
1127年建造、チンギスハーンが壊さなかった唯一の塔です。
18、19世紀には死刑場として袋詰した受刑者をミナレットの屋根から投げ落としたので、
「死の塔」とも呼ばれるようになった。
最後の死刑は1884年。
これを知ると塔に登る気は失せた。

ミル・アラブ・メドレセ
 
カラーンモスクに面して建ち、巨大なアーチの両脇の2つの青いドームがきれいです。
青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた装飾は、末期ティムール様式の典型例だそうだ。
ソ連時代に中央アジアで開校を認められていた数少ない神学校で、ここから多くのイスラム原理主義者が輩出しました。

アルク城
 
この城の辺りが古代プハラ発祥の地で、2000年以上前に遡るといわれるが、最初の城砦がいつ築かれたのかは定かではない
今残っている城は18世紀のもの。

ラビ・ハウズは旧市街にある元キャラバンサライの池
 

前に修復中のメドレセ
 

公園内でゲームを楽しむ人たち
 

気になる木

2009-03-23 | 旅・ウズベキスタン
          これは樫の木

タシケントのウズベキスタン工芸博物館中庭に植わってて、
樹齢何百年と聞いたけど忘れました。

日本の神社のしめ縄まいたご神木のように、大木がたくさんみられましたが、まだ葉がでていないので幹の木肌を見ただけでは何の木がわからない。

「この木なんの木、気になる木」です。
その都度、現地のガイドさんに尋ねました。

 
桑の木、こんな大木にまで成長するのですね。
すでに芽がでていましたが芽を見ても桑の木とはわからなかった。

 
 
樹齢800年だったと聞いたようなプラタナスの大木。
下に看板がありましたが、キリル語なので読めない。

 
なんの木が聞きそびれた。
緑の葉が茂るようになるとさぞかしきれいだろうと思われました。

ウズベキスタンは100年あまりソ連の支配下にありました。
1991年に独立しましたが、共産圏でいてよかったこと、教育費と医療費の無料の制度は現在も引き継がれているそうです。

そのため義務教育のあとの大学も授業料無料、
そして4年間は専門課程に入らず、びっちり一般教養を学ばされる。
その後大学院で2年間専門課程をするらしい。

だから歴史も植物の名も知っていて当然だと。
簡単な医学治療も学び、自分の病気は自分で治すのが前提にあるそうです。

病院が満員で救急車だってたらいまわしの日本、
ただ単に木でしかない、植物に疎い普通の日本人、
ちょっと恥ずかしい思いがしました。

 
傑作なのは、列車のすべての扉ガラスの白い花、
なんと模造品がセロテープで貼り付けられていました。