秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

聖地★保久良神社の祭石群

2024-05-22 | 古代史のミステリー
雨の日曜日、急峻な参道山道だというのにけっこう参拝者いました。
知る人ぞ知る聖地でもあるからでしょうか。

本殿向かって左手に立岩あり、
その前での自撮り写真は前記事でアップしてます。
そこから本殿や閉まってる社務所裏に回れます。



金網で覆われたエリアに
磐座神生岩




金網外にも岩ゴロゴロ。
これらも磐座っぽく見えますが、市民の森の立看板。
地権者の境界とか?


この木のうねり、ねじれスゴい!
方位アプリみてみよう。


手ブレで360度でスクショ無理でした。

真っ直ぐに直立する木々に混じり、たまに捻れた木がありました。
もしゼロ磁場で方位狂うなら、ピンスポットなの?
あるいは感受性豊かな木と動じない木の違いなのか?

これ以上奥に進む脚力ないし膝すでに痛いし😓
調査終了(^_-)

鳥居前で尋ねた方によれば、
左に行けば歩きやすい参道だけど回り道。
右に行けば険しいけど駅に近いんだって。
やっぱり元来た道で降りることにした。

案内板があまりなくて道迷う。
ここで遭難したら老女2名六甲で遭難ニュースに😱



この見覚えある看板まできてやれやれ😅
難なきを得て無事下山できた。
膝庇い腰にきて、水曜日にしてまだ痛い。

珍しい発見は、



おぉ〜アサギマダラ❣️
国東半島沖の姫島で見たやつ


ここも飛来地、やっぱり聖地❣️


昨日道迷った話したら、ぐるぐる🌀でカタカムナって言われた。



楢崎 皐月(ならさき さつき)という物理学者さんが、カタカムナ文明と称する超古代文明の存在を主張。

1948年頃から全国の電位分布実測調査を行い、

六甲山山系の金鳥山での調査中に、平十字と名乗る宮司と出会った。

カタカムナ文字とされる巻物を紹介され大学ノートに書き写す。調査研究重ね20年ほど経過後、著書発表した。



これで二つの疑問なんとかクリアにしときましょ。


最後の疑問「ヒルコ奥宮=奥夷」は次回で。




稲蔵神社の烏帽子岩に降臨した神は

2024-05-01 | 古代史のミステリー
昭和の日に生駒へ行こう❣️
3年前にビル空っぽ大作戦に携わった店の関係者3名、
現況報告がてらお礼参りに宝山寺行き急遽決定。
運転手は私。
行きたいとこ私次第です。

最後に日帰り温泉寄るとして、
先月ブログコメントでさくらさんが教えてくださった稲蔵神社参拝を組み込みました。

稲蔵神社フィールド調査
2 生駒聖天さん宝山寺参詣
3 グリーンテラスで天空ランチ
4 東大阪の極楽湯♨️


行く前に稲蔵神社を予習してて、
生駒デジタルミュージアムには、

小明の鎮守として江戸時代頃創建されたと考えられます。

祭神は生魂明神いくたまみょうじん大宮能御膳神おおみやのみかしわでのみことです。

境内には「烏帽子えぼし石」と呼ばれる巨岩をいわ座として祀っています。




生駒市小明町(コウミョウチョウ)1793

家出る時にナビで稲蔵神社入れても出ない。

住所検索でも番地が出ない。

電話番号の表記もネットで見つからず。

で、すぐ近くのガスト東生駒店をナビに入れて出発しました。

R169ガスト向かいに一の鳥居、思ってたより大きい。

少し入ったとこで、門を掃いてたおばさんに駐車許可得ました。



うーーんパッと見ちょっとこわっ。


赤い鳥居2つ後ろに稲蔵神社の扁額ある石造鳥居ありました。





画像では分かりませんが、
藤色の小さい花が至る所にいっぱい落ちてた。
上見てもそれらしき藤の花見当たらず?





拝殿側面に数々の掲示ありました。





烏帽子岩は高さ6m、周囲12mの立派な磐座です。

向かい側の鳥居は白川大明神


2014年に噴火した御嶽山で、白川大明神の石像首が折れてましたね。
どういう神様なんでしょう。



御嶽大神の石碑もありました。



大神や大明神の石碑がいっぱい。
数えてないけど50は超えそうな。

なんなんでしょう、ここは。
入口の暗さに比して全く怖くなくて不思議。
同行者も、今までみたことない神社やね、気のいいとこやねと言ってました。




生駒市の北西の天野川と、中央から南側の竜田川、その分水点あたり、だとか。

神社神主さんが本出されてるようです。


生駒の天孫ニギハヤヒと稲蔵神社 Kindle版 




レヴューで興味深かったのは、

評価が☆3と厳しいのが、この神主さんが非常に素直なお人柄のようで、出会った伝承を大概丸呑みで信じてしまう傾向があることです。
例えば、某宮司から聞いたという、とある神が西アジアから来た渡来人というのも特に調べもせず素直に受け容れてしまったこととか。
そういう都市伝説やオカルトレベルの話は個人的には地雷なので、平成天皇表記と共に☆ふたつ減で。
また、山陰や九州に残る日本と海外を往来していた海人族の面影を宿す神々やその伝承は調べていない御様子なので、そこは読者各自がバランスを取りたいところです。
そして、縄文文化を全く受け継いでいないアイヌを縄文代表のように言うのも、鵜呑みにせずそこはきちんと勉強して頂きたかったと思いますが、著者が神職として真摯に生きてゆく事には特に関係のないことなので、これはこれでいいのでしょう。
それらの点以外は一読に値する本だとお勧めしたいです。



間人皇后母子像で思い出した、彼の地の不動明王が母子像だったこと

2023-12-27 | 古代史のミステリー

間人港で水揚げされる間人(たいざ)蟹は「幻の蟹」と形容される超高級ブランド蟹。その味は格別らしいけど、食べたことないです。

間人は、うちらがカニ食べた久美浜と、丹後半島の先の経ヶ岬の真ん中辺り。

そのすぐ近くの海岸にある立岩見学行きました。

先の記事に画像載せましたが、虹かかって幻想的でした。


立岩は東洋のエアーズロックといわれるジオスポットです。

日本列島が大陸から離れた頃の約1500万年前に出来た柱状の巨岩で、高さ20m、周囲40m。

伝説が残っています。

推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊という3匹の鬼が首領となり人々を苦しめていた。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し鬼の討伐に向かわせた。

その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出す。

やがて鬼との合戦が始まり、劣勢になった鬼は山の奥深くに逃げ込むも、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出す。英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、みせしめとして丹後の岩に封じ込められた。

その岩が現在の立岩だと伝わり、今でも風の強い時や波の高い夜などは、鬼の泣き声が聞こえるといわれている。



この立岩を正面に見据えて、間人皇后と聖徳太子の母子像が建っていました。

平成2年竹下内閣の「ふるさと創生基金一億円」の一部を使用し建立されたようです。



聖徳太子の御母である穴穂間人(あなほべのはしうど)皇后は、蘇我氏と物部氏の争乱を避け、今の丹後町間人(たいざ)に身を寄せたと伝わります。

大和の国へ帰られるにあたり皇后から自らの名間人(はしうど)を賜るも、畏れ多いと考えた村人は御退座にちなみ間人(たいざ)と読むことに。

この伝説をもとにした母子像です。



間人皇后母子像 - 観光 「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト

間人皇后像は高さ3.5m、聖徳太子像は高さ1.5mのブロンズ製の像。母子像の後ろの石柱は、高さが5.5mもあり、飛鳥時代を表現している。中央部が太く、奈良の法隆寺の柱と同じ...


母子像の後ろの石柱はなんだろなと思ってたら、

高さ5.5m、中央部が太く奈良の法隆寺の柱と同じ形で飛鳥時代を表現しているそうです。



2013年に久美浜湯元館でカニ食べたことあると、先の記事で書きました。

あの時は宿泊したので、翌朝宿近辺散歩しすぐ近くで二つの祠見かけました。

祠中を除いて

>なんで母子像が不動明王なんだろうと、ものすごく気になりました。

詳細は 2013-2-8⤵

母子像が不動明王とは、これいかに - 秋麗(あきうらら)

久美浜温泉湯元館に泊まった翌朝、温泉つかって朝食までまだ時間があった。近辺を散歩することにした。湯元館すぐ横を流れる佐濃谷川不動橋を渡ると、対岸に平屋の湯元館が...

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あれから10年過ぎて、丹後半島でまたも母子像に出会う。
間人皇后は彼の地に滞在されたけど、聖徳太子は来られてないようです。
なのに母子像としてモニュメント残す土地柄、伝説。
何を物語るのでしょうね。


さらに、謎は深まるばかり…




こつま南瓜祭り@生根神社

2023-12-23 | 古代史のミステリー
昨日の冬至は上の天神生根神社へ。
大阪メトロ四ツ橋線玉出駅からすぐでした。
住吉大社北へ数百mにあるのが奥の天神生根神社で、
すぐ近くに同じ生根という名の神社2つ。
5、6年前まで知りませんでした。

まずは見たまま。


南海線岸里玉出駅から来る友達と待ち合わせしてました。


10時に近隣の幼稚園児による鼓笛隊演奏ありました。



コロナ禍を経て数年ぶりに再開されたのか、過去の南瓜お振舞いと違ってました。
まず、蒸し南瓜祈願券付きを800円で賜ります。



祈願券裏に住所氏名とお願いを記し本殿に納めました。
少彦名神に中風除け、莫気払い、無病息災祈願です。

授与された南瓜は


蒸し南瓜に小豆かかり、甘さ控えめで美味しかった。



勝間南瓜塚なでなで。
豊受大御神(食物の神)より陽の気の精を賜った「こつま南瓜」の御霊を祀る

子どもの頃に、小っちゃいけど大人みたいに賢い子をこつま南瓜と言った。
でも泉大津の友は知らんと言うてました。





由緒によりますと、

大昔、茅渟の海(大阪湾)に大津波が起こり、
西宮の恵美寿神社は社殿とともに流れ、御神体は勝間の浦に流れつかれた。
村民これを漁船に迎えこの地に祀った。
後、西宮の氏子がこれを聞き伝え返還を要請され、
御神体をお返しして、御分霊を奉祀したのが神社創建の始めと伝わる。

伝統的な特殊神事として、この神社に古くから伝わる「こつま南瓜祭り」がある。
江戸時代より、当地勝間村特産物であった「こつま南瓜」にちなんだ無病息災を祈願するお祭りで、
毎年12月の冬至には大勢の老若男女で賑わいます。

江戸時代に飢饉がおこったとき、
勝間(こつま)村の農民達は、大事に保存していた、こつま南瓜を食べ餓えをしのいだそうです。
その感謝の意を込められた「かぼちゃ石」という石が生根神社の境内にあったとのこと。
古くから生根神社では「こつま南瓜」神事が行われていたとのことで、
参詣者は一年間の平穏無事と無病息災を願い、その御利益は霊験あらたかだったと伝えられています。




2016年6月19日の記録です。
少彦名命の生根神社参拝 - 秋麗(あきうらら)

少彦名命の生根神社参拝 - 秋麗(あきうらら)

明け方からすでに雨降ってて天気は悪いし、ギズモの調子も悪い。もう少し遠出する予定を急遽変更して住吉大社へ。10時に天王寺で待ち合わせして、チンチン電車阪堺電軌上町...

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この記事のコメント欄に、

>こつまナンキンって子供のころから親しんだ南瓜の名前です。
小柄な利発な子を「こつまなんきん」とよく言ってて、
ちっちゃいけどぎゅっと詰まってるという意味だと子供心に思ってました。
勝間村の特産品である南瓜とはつゆ知らず、「こつま南瓜」神事も。


吉田一氣さんに頂戴したコメントも意味深。
未だ解明できてませんが…


桂カツラは聖なる木で、金屋子神降臨し、葵祭にも

2023-10-16 | 古代史のミステリー
島根県雲南市の菅谷たたら訪れたのは9月末でした。





高殿傍の桂、カツラの木が色づいた季節の画像探しました。

【朝刊先読み!】製鉄の炎のように赤く存在感放つ 雲南・吉田でカツラの木が満開 | 山陰中央新報デジタル

【朝刊先読み!】製鉄の炎のように赤く存在感放つ 雲南・吉田でカツラの木が満開 | 山陰中央新報デジタル

たたら製鉄が操業された高殿が国内で唯一現存する菅谷たたら山内(雲南市吉田町吉田)で、神木のカツラの木が満開となった。見頃は26日まで。製鉄の炎のように赤い花が、...

【朝刊先読み!】製鉄の炎のように赤く存在感放つ 雲南・吉田でカツラの木が満開 | 山陰中央新報デジタル

 
山陰中央新報デジタル  2023/3/25 19:00
>今後、花が新芽に変わると、光の反射で黄金色に染まったように見え、色の変化も楽しめる。


こんなふうに⤵︎ 変わるようです。



美しい、見たいなぁ〜
画像検索で見た時はてっきり秋の紅葉かと思いました。




住んでる近くに桂の木は多分無いと思います。
今までに見て記憶に深く刻まれたカツラの木は、

一里四方の水を呼ぶ木★和池の大カツラ - 秋麗(あきうらら)

但馬高原植物園のパンフレットには、和池の大カツラを次のように紹介しています。「当園のシンボルで幹周り16mの大カツラ。千年以上この湿原を見守り、今なお瀞川山より水を...

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2013-8-7 但馬のマザーツリー


兎和野の大カツラ★語源は香連(かつら) - 秋麗(あきうらら)

今大阪は晴れてますが、消滅した台風15号は前線と一緒になって午後から雨らしいです。猛暑に豪雨、今までにないような気象が続いた夏でした。ふ~ふ~言いながらもあっとい...

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2013-8-31
カツラは水を調整する一種のコンデンサーの役目を果たし、「水源の森」たるゆえん

これは覚えてました。
しかし久々に読み返すと、すっかり忘れてけど、

カツラの幹は、ほぼ垂直にそびえたつので、材は直通であり器具や道具に用いて狂いが少ない。
とくに平安初期の貞観時代には、カツラ材による白木彫りの仏像が多くつくられた。
当時、人はこれを檀佛とよび、カツラを神霊の宿る木として貴んだ。

カツラは、太古第3紀には太平洋をはさみ日米両国に広く繁茂していた。
その後、アメリカのものは絶滅し、日本のものだけが生き残ったので日本特産とされる。
学名 Cercidiphillum jponicum ヤポニクム
英語も、カツラは「カツラ・ツリー」で通用する。

水分が多くて肥えた土地を好んで生育するので、尾根上にはなく冷涼な渓流などに見られる。
カツラの木の近くには水が湧いて出たり流れていたりする事が多い。




金屋子神が降臨した桂、カツラの木は聖なる木。
なんでカツラに降りたったんだろうと気になりまして。

「桂 聖なる木」で検索するとと

山幸彦がわたつみのみやに行き豊玉姫と出会ったとき、井戸のそばにあった聖なる木が、カツラ。

京都には桂の里があり、松尾大社、月読神社が鎮座します。

>桂の木は切っても切ってもすぐに枝が出て太く成長するため、不老不死の霊力をもつと信じられ、…

続きは、



京都の葵祭では、葵桂といって、



祭の当日(5月15日)
内裏神殿の御簾(みす)をはじめ、御所車(牛車)、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、
すべてに葵鬘(あおいかずら)を飾ったことからきている。
使用される葵はフタバアオイで、葵鬘は葵(あおい)を桂(かつら)の枝に絡ませた髪飾り。
諸葛(もろかずら)あるいは葵桂(あおいかつら、きっけい)とも呼ぶ。



不思議ですね〜
しかし、金屋子神がカツラにどう絡むのか?
検索に検索を重ね、やっと。


第5話 樹齢2千年の桂が日本の製鉄の歴史を変えるかもしれない。 - 但馬二千年桂

  糸井の大カツラは、国の天然記念物であることや樹齢が2千年であることから自...

但馬二千年桂

 

上記サイトによりコピペ。

浅井壮一郎氏の『古代製鉄物語』(2008年8月彩流社)には、
小片にしたカツラの生木をルツボに入れ、生木から発生するメタンガス、一酸化炭素を還元剤として使用し、
(ふいご)も小規模で移転が容易な低温でできる古代インドの製鉄技術が紹介されています。




たたら考によりますと、

たたらの語源
中央アジアの民族タタール人が持っていふいた『皮袋』が、
製鉄作業の送風器具(吹子)に使われたところから、『たたら』と名付けられたとも、
インド地方の言語『タタール=猛火の意味』から転化したとも言われます。 
図は岩手県の小林家に伝わる製鉄絵図の皮吹子です。 


たたら製鉄にカツラの木が深く関わってたように思え、納得❣️





つんぼの春日がしくじって榎本神社は

2023-06-30 | 古代史のミステリー
大神神社には年に一度は参拝するのに、春日大社は10年ぶりでした。

2013年3月に見落とした摂社の榎本神社にやっと。





場所は、春日本殿の南回廊の角近いとこ。
ちょっとわかりにくいです。




こうした地図確かめて行ったのに、えぇ〜何処?
砂ずりの藤の木の横は壁で見当たらない。
ふつう南門から出入りしますが、その回廊沿いに傍道を行きます。
言われたらなるほど、なんですけどね。


榎本神社祠の左側に立看板には、

御祭神 猿田彦命
御例祭 11月1日
御由緒 春日の地主の神として尊崇され、本社ご遷座後、
一時安倍山(現在奈良県桜井市)に御遷りになったが、
承平5年(935年)再びこの場所に御遷座になった。



安倍山を調べると、明日香のキトラ古墳の南側の山でした。
土地を交換したけど、云々。
私の知ってるエピソードと違ってる。
過去の記録から見ていただきましょう。


竹と合体したムクロジ - 秋麗(あきうらら)

先週のお伊勢ウォーキング3回目の終点は春日大社本殿前駐車場。4時半出発でそれまで自由に時間を使うことができました。50年ぶりで春日大社参拝しました。立派な一の鳥居で...

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2013-3-23 より以下コピペ。

大和の傳説に以下のような伝承が書かれてあります。

● つんぼ春日(奈良市春日大社)
春日の最初の山の主は、つんぼであった。
初め常陸の鹿島から、春日明神が遷ってござった時に、
山の主に向かって『この山を、三尺借りたい』と申し込まれた。
山の主は、僅に三尺位のことでもあるし、耳も不自由だから細かにも聞きたヾさず、
『よいとも、よいとも』と快く承諾したのであった。
ところが、其三尺といふのは面積でなくて山全体の地下三尺のことであった。
それで今でも春日山の杉などの樹木は悉く地下三尺より深くは根をおろしてゐない。
此、山の主の春日様は、現在の官幣大社春日神社楼門の西手、
回廊の簷下にある攝社春日神社(通称 榎本神社)がそれである。
即ち、つんぼの神様である。
明治二十年頃までは春日に参詣した人々は、必ず先ずこゝに来て、
『春日さん、参りましたゼ』と云ひながら、
其柱を握りこぶしでトントンと幾度もたゝいて、祠のぐるりを廻ってから本社にいったと云ふことである。

……ココまで

2010年早春にチュニジアを旅しました。
その時の記録で

地中海の女王☆カルタゴ - 秋麗(あきうらら)

グッドタイミングなことに、産経新聞で「地中海のきらめく至宝」というタイトルで「古代カルタゴとローマ展」に関する記事が4回(2/9・11・12・15)連載されました。さす...

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「フェニキア人は卓抜したモノづくりと航海技術で知られ、
地中海の東から西方へ、そして大西洋へと国際交易網を築き、植民を進めた。
紀元前814年には、チュニジアの首都チュニス近くの海岸に、
フェニキア本土から、王家のきょうだい間の相克を逃れてきた王女エリッサの一行が舟で到着する。
エリッサは先住民から土地を手に入れ住み着いた。
ここよりカルタゴが創建された、とされる」

王女エリッサは土地を分けてもらうに当たり、牛1頭分の皮だけの土地といわれたそうだ。
それでその皮を細く長いひも状にし、
その紐で囲った土地をゲットするという機転を利かせた英知ある女王だったと伝えられています。


なんか似てますでしょう、やり口が。
伏見稲荷大社が藤森神社から境内を手に入れたのにも似ています。
未だに藤森の祭りのだんじりが伏見稲荷の前にきて、
土地返せ〜、今日神さん留守って、やりとりするんだとか。






榎本神社場所のわかりやすい画像もらってきました。

六甲山と瀬織津姫 236 「ワニ」を歩く | 追跡アマミキヨ

六甲山と瀬織津姫 236 「ワニ」を歩く | 追跡アマミキヨ

 東大寺の大仏殿から春日大社(奈良市春日野町)へ。 〜平城京擁護のため国譲りを達成された最強の武神 である武甕槌様(鹿島)を神山御蓋山(みかさやま)に奉還...

追跡アマミキヨ

 

こちらのブログによりますと、
今の榎本神社と、御蓋山浮雲峯遥拝所は対角線上にあると記されています。

そして、

「くだんの春日大社・榎本神社は、祭神を猿田彦神とするが、古くは巨勢姫明神だったという説がある。


巨勢祝(こせのはふり)と言えば、日本書紀の神武即位前記に、「和珥の坂下に巨勢祝という者あり」と、

抵抗勢力の長(?)として記されている。和爾氏とは神武以前からの大和豪族だったと分かる。

和爾町には、「和珥坂本伝承地」の石標が随所に。

巨勢祝(または巫女)が祀ったのが春日御蓋山の祭神か。」



神奈備サイトの春日大社 奈良市春日野町 も参考になりました。

鎮座地は春日野と呼ばれていた。

おそらくは和珥氏が齋祀る神社であった春日神社が現在は榎本神社として本殿より奥の回廊内に祀られているが、この神社が地主神とされる。

祭神は巨勢姫明神とされていたが、江戸時代に猿田彦明神となった。

この神と春日明神との間には土地交換説話があると言う。

すなわち榎本明神の領分である御蓋山と春日明神が一時的に鎮座した安倍山(桜井市安倍)を交換したと言うものである。

巨勢姫明神は『日本書紀』神武即位前紀の「和珥の坂下に巨勢祝といふものありて」と帰順しなかった土賊として登場する巨勢祝と無関係ではなかろう。

また、安倍山であるが桜井市大字外山に宗像神社が鎮座、「春日の宮」とよばれていたそうで、その辺りだったのか。 

平城京遷都の際、藤原氏の手で春日野地域が宮古の範囲に入れられている。

長安のように四角からはみ出ているにもかかわらずである。

藤原氏が平城京全体の鎮守として和珥氏春日氏小野氏などの先住者に圧力をかけたのであろう。 




南山城の綺原座健伊那太比賣神社

2023-02-05 | 古代史のミステリー
蟹満寺本堂後ろのお地蔵さんピラミッドを写した道、
山背(やませ)古道というようですが、向かいに鳥居がありました。
昔の山背国の漢字ですね。



綺原座健伊那太比賣

知らんなぁ〜なんとよむんだろう。
初めて出逢ったひめ神さまです。

きはらにいますたていなだひめ 




縮めて、綺原(かんばら)神社とも呼ばれます。

住所は、京都府木津川市山城町綺田山際16

地名では、綺田(かばた)のようです。


「綺原」は「カムハラ」「カンバラ」と読む説がある。
奈良時代に織物を生業とした綺一族の氏神という伝承がある。
木津川の支流天神川が山峡から平野部に出た地点の山麓に鎮座する。
蟹満寺の北接。

明治10年6月に式内社と決定されるまで梶原社と呼ばれていた、
梶原社の梶原は綺原の言い誤りであろう。近世に於ては綺田村の産土神。


綺原神社由来

ここに鎮座されます綺原神社は「大日本史」「日本書紀」「延喜式」にも
綺原座伊那太比売神社として記述されており
祭神は「タテイナダヒメ」とされタテは健康イナダは稲田で
達者で農耕にいそしめるよう祈願されたものだと考えられます。
ここの地名「綺田」はその昔、紙織または神織とも呼ばれ、
神に献ずる衣服を織る技術者及び養蚕技術者を祀った社とも言われており
綺氏一族(秦氏一族)の創起だと言われております。
現在は菅原道真公を祭神とする天神社及び八王子社をおまつりしております。

社頭掲示板






参道階段傍に立つ立看板は経年で薄くなりよく読めませんでした。

社名や地名で頭ぐるぐる。
境内の本殿、天神社、八王子社の写真は撮ってません。



創建の詳細不明。
平安中期927年『延喜式』では、相楽郡六社のひとつ。

【鎮座地】明治23年蟹満寺の南西より現在地に遷されたという。








元の鎮座地、蟹満寺の南西ってどのあたりなんでしょうね。

井手には、橘諸兄の邸があったり、さらに北に小野小町ゆかりの地。
中臣鎌足が落馬したのは山科とされるので、近いかな。


現在の京都の行政区では



ブルーが南山城で、グリーンが北山城です。

奈良時代大和国の背後あるところから山背(やましろ)と記すも、
平安遷都により山城と改訂。



701年の大宝律令により、現在の山城町域は蟹幡(かむはた)郷と大狛郷に分割され、
地名の綺田(かばた)の「綺」も「かむはた/かにはた/かんはた」と呼ばれた。
綺は、錦に似た薄い絹織物を意味し、
「かむはた」は、神の美称(かむ)と織物(はた)に由来
神に献ずる衣服を織る人々か、養蚕に携わった綺(かば)氏(秦氏)が住していたともいう。

また、「蟹のいるような河庭原(かにははら)」の意味であり、
天井川の天神川出水に因んだものともいう。



蟹満寺は、白鳳時代(645~710)に
秦和賀(はた の わか)によって創建されたと伝わる。





ツクヨミ尊は、月夜を見、月を読む、同じようでいて実は…

2022-11-23 | 古代史のミステリー
けっこう降りしきる雨の中、月夜見宮へ。



2013年遷宮の翌年春に来た時はもっと雨風強かった。


春の嵐に、記憶に残る伊勢参り - 秋麗(あきうらら)

天気予報では雨風強い春の嵐になるが午後からあがるということで、思い切って予定通り出かけることになりました。遷宮後の旧宮は今月いっぱいで、新宮と二つ並んだ状態は20...

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あの時に比べればマシ。
でも傘さしての参拝は写真どころじゃない。

鳥居の奥が暗くてわかりにくいですが、真っ直ぐに参道伸びてません。
通せんぼするみたいに石積みが遮ります。
直角に2度曲がります。
お城で言えば枡形の防御仕掛けだそうです。
 


言い伝えでは、
月夜見宮入口の石垣の一つが、夜になり月夜見尊が鞭を当てると白馬と化す。
その白馬に跨って月夜見尊は夜な夜な外宮へ通うそう。
人々は夜この道を通ることを避け、やむを得ず通る場合には神の馬に触れないように、道の端を歩く。








社殿を横から写しました。
屋根の千木や鰹木から御祭神ツキヨミ尊は男神ですね。

毎晩白馬に跨り外宮へ通われたという伝承。
神さまの世界にもいろいろあるんですね〜


別宮・月夜見宮:斎王 05

別宮・月夜見宮:斎王 05

伊勢神宮別宮の「月夜見宮」と外宮「豊受大神宮」を結ぶ道を「神路通」(かみじどおり)と言います。 夜になると「月…

偲フ花

 
こちらのブログによりますと、

富家の伝承が伝えるところでは、外宮は、もとは「月読みの神」を祀っていたと云います。
やがて度会氏が外宮に宇佐の豊姫を「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)として祀ったので、
月読みの神は当地に遷座したそうです。





左奥のお稲荷さんの老木根元が焦げてるのは、戦争末期の空襲で焼夷弾が落ち燃えたんだって。




手水舎脇の楠大木は、幹周り太さからして生き延びたんですね。


空襲の記録探してみました。

第二次世界大戦終戦間際の全国的空襲は、神都である宇治山田にも及んだ。

1945(昭和20)729日午前1時頃、宇治山田市街地に6ポンド油脂焼夷弾1万数千発も投下された。

アメリカ軍の資料によると、この時B-2993機で焼夷弾734.6tの攻撃を仕掛けたとされる。

被害は市街地面積の5割に及び、全戸数の34,517戸を焼失、総人口の35%22,600人が罹災した。

月夜見宮は、周辺の住宅がすべて焼失した中で、軍隊による懸命の消火活動と、萱葺屋根に突き刺さった焼夷弾が不発だったため、

社殿だけが焼け跡に建っているという状態。しかし宿衛員嘱託は空襲で命を落とし宮掌が大火傷を負った。



なんかすんごい御神威ですね。


月夜見宮

由緒は定かではないが、古くは高河原(たかがわら)と呼ばれ、農耕の神を祀る神社であったという。

927年の延喜式では外宮摂社の首位とされた。

『止由気宮儀式帳』では「月讀神社」、

『延喜式神名帳』では「月夜見神社」、『伊勢大神宮式』では「月夜見社」と記載。

1210年別宮に昇格した。

明治になって、同じくツキヨミの神様祀る「つきよみのみや」は、

外宮別宮は「月夜見宮」、内宮別宮は「月讀宮」と表記するようになった。



同じツキヨミ尊をお祀りするのに、なんで名前あえて変えるんだろうと思ってました。

もともと「月読」と「月夜見」はそれぞれ別々の氏族に祀られていた別神で、

外宮の月夜見宮は度会神主によって祀られ、

内宮の月読宮は中臣氏が祀るものだったようです。

古くからその区別が付かなくなってしまい、100%納得できる答えはないそうですが。


やっぱり異なる説あるんだ!


古代より、月を読む、月を観測して暦を定め、農事を占う専門家もいました。
吉凶を占うことにも通じます。
月を読むことを専門とする職能者は、
亀卜の神に仕える神主か巫女のような存在だったのではないかという説も。


先にリンク貼らせてもらったブログには、こんなことも書かれてました。
月神はもともと、びっくりなこと引用コピペさせてもらいます。



月神はもともと宇佐の豊玉姫が祀る神でした。
月には兎がいると信じられていたので、その場所が「宇佐」と呼ばれるようになったのだとか。
当時は太陰暦で、稲作や様々な祭り事が月齢を頼りに決められていました。
つまり月で暦を読むので、「月読みの神」と呼ばれるようになったのだそうです。

豊玉姫の後を継いだ豊姫は、物部イクメ王の東征軍に加わり、
大和の三輪山の麓「大和笠縫村」で月読みの神を祀る姫巫女となりました。
そこで民衆の人気を得た豊姫自身を、月読みの神と呼ぶ一部の人もいたと云います。

記紀の日本神話において、豊姫は「豊鍬入姫」(トヨスキイリビメ)と表記され、
天照大神の御神体を遷宮した、最初の斎王としていますが、
実際は太陽の女神を祭祀することはなかったのです。



富士御室浅間神社、初めて知りました。

2022-09-08 | 古代史のミステリー
富士山SPをTV視聴しての続きです。


画像引用元は


2合目にある神社の拝殿壊れてた!
小さな祠だけが網で囲われ、何かの神事してた映像映ってました。

ものすごく気になりました。
いつなんで壊れたんだろう?
そのまま朽ちたままにしてていいの?

調べてみて、へぇ〜そうだったんだレポートです。


864年 貞観の大噴火(青木ヶ原樹海を作った)
869年 貞観地震
878年  関東地方で巨大地震

貞観の大噴火を契機に、大和朝廷は富士山を取り巻くように浅間神社を放射状に配置。
浅間神社の本社は、静岡県富士宮にある富士山本宮浅間神社、駿河国一宮です。
富士山山頂に奥宮が祀られていて、8合目以上は富士山本宮浅間大社の境内だそうです。




『富士本宮浅間社記』によれば、
垂仁天皇3年(紀元前27年)に富士山の噴火を鎮めるために浅間大神を山足の地に祀った。
景行天皇40年(西暦110年)日本武尊が東征の際に山宮の地に磐座を定め、浅間大神を遷座して祀った。

「山足の地」が噴火で荒廃し、「山宮の地」に遷したという記載。
山足とは山裾のことで、山麓の森に山宮のようです。
名前が似通っててややこしい。


Wikipediaより
社伝では、垂仁天皇3年とされる創建から大同元年(806年)までは山宮浅間神社で祀られており、同年に現在地に遷座したという。
なお、遷座して来るまでの当地には式内社・富知神社が鎮座し、湧玉池を祭祀していた(現在は北方に遷座)
この遷座は、富士信仰が水の神たる「フクチ・フジ」信仰から
火の神たる「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事だと解されている

興味深いブログ見つけました。
『富士山信仰のルーツを解き明かす(3) 浅間神社と浅間山』

『富士山信仰のルーツを解き明かす(3) 浅間神社と浅間山』

3回シリーズ「富士山信仰のルーツを解き明かす」の最終回は、浅間神社と浅間山について考えます。→[富士山信仰のルーツを解き明かす(1) ] →[富士山信仰のル…

西陣に住んでます

 
サラ〜っと読み流せないので、ぼちぼち精読してみます。



はるか以前の太古から、富士山のエネルギーを古代人が感じていた場所は、
富士山頂より山梨県側2合目にもありました。
そこが、TV放映で映し出された朽ちた拝殿の神社だったのです。
その名は、富士山最古の冨士御室浅間神社本宮

699年 文武天皇の時代に冨士御室浅間神社として奉斎
722年 雨屋建立 
807年 坂上田村麻呂が社殿造営


この社のある場所は背後に富士山を控え、少し広い溶岩の大地で水が豊富に湧く風水的にも理想の立地場所だった。
富士山の噴火や厳しい自然の環境により、何度となく焼失、倒壊、破損をくりかえしながら、そのつど再建されてきたという。
中世には富士山における“修験道”の、戦国時代には“武田家三代の祈願所”として、また近世には“富士講”と結びついて発展した。
ところが1964年富士スバルライン開通により登山口が五合目になった。
富士講の本道であった吉田口登山道が衰退。
恒久的保存のために、御室浅間神社は、1974年現在地に移された。


主要な浅間神社は山中に祀られた山宮と、麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られる。
山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている。


河口湖を背にした里宮の本殿は、富士山を正面に仰いでいるそうです。
2011年2月河口湖の宿で宿泊しましたが、参拝できてない。
当時も今も、つい最近までそんな神社のあることすら知らなかった。

TVでは、元から鎮座した本宮=奥宮の拝殿が、何年か前から倒れ朽ちたままになってるのが映し出されました。
いつそうなったのか調べてもわかりませんでした。

ものすごく大事な富士山の聖地があれ荒んだままになってるのは気になります。


参考サイトは





天文学者が議論した卑弥呼「最期の地」

2022-06-10 | 古代史のミステリー
AIがおすすめするニュースに、



先月発刊された本の解説記事が出てきました。

これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか(播田 安弘)

これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか(播田 安弘)

邪馬台国はどこにあったのか? 古代史最大の謎といわれるこの難問に、意外な分野から斬り込んだ研究者がいました。日本史のさまざまな謎を当時の天文現象をもとに解明する...

ブルーバックス | 講談社

 

国立天文台報に載ってる論文が引用されてて、論文最後の締めで

卑弥呼の死の前後と見られる紀元247年に、
北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する」



このストーリー、以前書いたことありました。
思ってたのと同じで、それが科学的に実証されそうなかんじ。


13年前、2009-7-3のブログは
日食×卑弥呼以って死す - 秋麗(あきうらら)

日食×卑弥呼以って死す - 秋麗(あきうらら)

今月22日に今世紀最大の皆既日食が日本でも見られます。奄美諸島の場所によっては皆既の始めから終りまでの時間が最長6分44秒と、21世紀に起こる皆既日食としては最も長く、...

goo blog

 
あの時の日食で思ったことを次のように書きました。


皆既日食によって太陽が隠れることは、古今東西人々に甚大な恐怖を与えたことでしょう。
中国では太陽は君主の象徴とされ、
日食時に国家行事を行えば臣下によって国が滅ぼされる前兆になるとされていたそうだ。

そして日本の古代、248年9月5日にも皆既日食が起こり、このとき卑弥呼が殺害されたという説があります。
太陽に仕える巫女(日巫女→卑弥呼)の霊力が失われ「卑弥呼死す」にいたったとしても分からなくもない。

もう少し詳しく調べてみると、
卑弥呼の没したとされる年代あたり、247年3月24日と248年9月5日の2回日食が観測されたようです。

AD247/3/24は夕刻6時半頃のまさに沈まんとする夕日の蝕。 
欠けながら沈んでしまった太陽、そしてそのまま夜になってしまう。
日食は新月の時におこりますから、月のない夜は暗い。
一生暗闇の世界が続くかのような恐怖感を与えたのではないでしょうか?

そしてAD248/9/05は早朝6時頃の昇る朝日の蝕。
地平線近い太陽がすぐに欠けだして昇ってくる、これも不気味です。
でもそのあと蝕が終わればあっという間に明るくなるのだから、希望を与えてくれそうです。

もし殺害されたのだとしたら、248年の朝日よりは247年の夕日の蝕のときのような気がする。

そしてどちらの蝕も、地平線すれすれの角度の低い太陽です。
盆地で山に囲まれた場所なら見にくいね。

シャーマンとして「共立」された卑弥呼。
他の王たちも日食が見えて恐怖などの感情を共有したことが重要なんではないかしら。




八丁子紋とゾグド人

2022-05-12 | 古代史のミステリー
買っただけで満足してた本



急に思いたってパラパラめくってみました。


というのは、


御杖神社の神紋が初めてみたもので、八丁子紋とわかりました。




他に情報ないか調べてみると

 

このツィートがヒットしたちょうどその時、
このブログのリアルタイムアクセスで多くのアクセスあったのが、
2009-4-23
シルクロード謎の民・ソグド人 - 秋麗(あきうらら)

シルクロード謎の民・ソグド人 - 秋麗(あきうらら)

東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀・栴檀2点の香木って、どんなだろうと探しに探して見つけた画像です。この画像ではよくわかりませんが、白檀表面には...

goo blog

 

ゾグド人❣️

で、なんか情報あるかと本探したのでした。
なーんも見つからんかった。

追記
丹波亀山藩の初代藩主である松平信岑も八丁子紋だった。


丁子紋 | 家紋無双

丁子は非常に強い香気がある植物で、開花前のつぼみを乾燥させたクローブと呼ばれる香辛料が有名です。 原産はインドネシアですが、五~六世紀頃には日本に輸入されており...

家紋無双

 

【家紋】丁子紋(ちょうじ)の意味・由来を解説!植物紋の一種

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「丁子」という香辛料をご存知ですか?現代ではブームでもあるスパイスカレーに使われる「クローブ」を指します。 かつてはカレーなどありませんでしたので、独特な香りを活...

お役立ち!季節の耳より情報局

 



阿吽の吽ちゃんブサカワイイ@大枝神社

2022-05-06 | 古代史のミステリー
ネットで見た情報を確かめに大枝神社へ。
何度もブログに登場してる氏神さまです。
でもちゃんと見てこなかったことに気づきました。




こんなにカワイイ顔してたんですね。
そして確かめにいった頭のツノ❣️






ブログ内検索したら
2019-6-1 
3年前の記事は、狛犬阿吽像の阿の後側刻印メイン。
顔ちゃんと見てなかった。


吽像にツノがある、
他所はどうなんだろう。

今まであちこちの神社参拝して記録残してます。
狛犬に特に関心強いわけではないので、ときどき。
獅子じゃない場合は甚く反応。
龍だった真名井神社、伏見の神宝神社。
鞍馬の虎、三尾神社の兎とか。


確か白山比咩神社で写したかすかな記憶、
2015-10-30

確かに写ってましたが、
頭てっぺんのトンガリ、確かに。
ツノなのか耳なのか分からんので、ネットで検索


白山比咩神社では重文で、木造りの古い狛犬が保存されてるそうです。



吽像頭にツノが取れた跡残ってます。

一般的な狛犬の説明はあちこちでみられますし、
たとえばキリン公式サイトとか


阿吽像の阿は獅子、吽は麒麟という説は、
「グリフィス 麒麟」で検索しヒット、触発された情報は

まだ読んでないけど、



けったいな名の波牟許曽神社は蛇の社?

2022-03-21 | 古代史のミステリー
JR長瀬駅で下車して
駅前の地図看板写す。
下蛇草公園やって!

一般的に公的な地図とかに神社記されないの、なんでかな。
Google maps もそうだけど、まぁ日本の会社ちゃうもんね。

駅前の低い建物は昭和時代の団地らしき住宅街で、道はぐちゃぐちゃ。

事前予習で、近鉄長瀬目指して歩くとしたらという設定で、
地図見てた時に発見した 波牟許曽神社
はむこそ、と読む。
なんともけったいな名前で興味津々。

弥刀神社への途上なので立ち寄りたいと連れに事前了承える。


地図マピオンのほうが、神社もバス停も表記されますね。




隣に生協病院まで確認してたのに、
ややこしい道を結局はスマホナビで歩いて、
Googleは車道誘導するから わけわからんように。

ありゃりゃ、ここかな?


12:38
シンプルな木の鳥居がいい。
左側石柱に、波牟許曽神社

左手樹木奥に、天龍不動明王。


参道を進むと右側に手水舎あって



由緒書案内文より一部抜粋

平安時代の延長5年(927)法令(延喜式)神明帳には、全国2861社が記載
東大阪市内では、波牟許曽(はむこそ)、彌刀(弥刀 みと)のほか枚岡神社など16社が記載…
伴信友(神名帳考証・河内誌)に 蛇草と書イテ今イカニ唱フニカ知ラネド
波牟久佐(ハムクサ)トカ唱フベキ也。云々と記載す…
波牟は蛇にして、許曽は社の義なり、蛇を祭れる者にや村名は、これ社名より起こると述べて
その昔、物部の氏人の村であり、蛇草と云う地名の起源はこの宮の名より起こったものと伝えられる。 
『神社要録』には、北蛇草村神明とあり、河内明記には大社天神とも伝え、神明考証には、大杜神社と呼んでいた。
御祭神は埴安神(はやすのかみ)、波牟埴安姫(はむはやすのひめ)なりと記されています。
また一説には、蛇を祀れるものかとも伝えられる。



上記の由緒抜粋を茶色に指定したのに、なぜか一部黒のまま。
何度やっても変わらん、不思議〜
そこに注目ってか?
後半部分、論理的じゃなくて意味不明…





おもかる石が置かれてました。


拝殿全景を撮り忘れて


今の御祭神は、天照皇大神、伊弉那岐大神、伊弉那美大神

河内国 渋川郡「波牟許曽神社」に比定される式内社です。
明治に合祀され、昭和になって北蛇草の氏子さんらが再建された。

地名は蛇草で、社名は波牟。
元々の神さまや如何?


左側から裏へまわると

本殿はこれまたシンプルで素敵です。
紙垂が風に靡いてました。



猿田彦大神と天鈿女命が並んでるのもうれしい。
夫婦神が並んでるとこ他にあったかな?

拝殿右側には

素戔嗚尊

他にも祠いっぱい。
松龍大神、榎大神、白龍大神、縞姫龍神と龍神こんなに集まられて、
白光大明神は巳ーさん?
子守勝手大神に、伊勢神宮遥拝所も。



ネット検索してて見つけました。
1704年大和川が付け替えられるまで、現代の長瀬川は大和川主流だった。
川幅200mと広く、今でも堤跡残ってるそうです。

上の地図の緑鳥居が弥刀神社。
川の対岸(地図左上)長瀬町、生協病院あたりの印がはむこそ神社。

共に荒れる川を護ってもらうのに祀ってたのでしょう。


渋川郡北蛇草村の式内社は
明治22年(1889)北蛇草村を含めた7ヶ村合併し長瀬村に
大正元年(1912)に村内八社を合祀して新たに長瀬神社が創建
昭和51年(1976)社殿が再建された

同じく長瀬神社に合祀された神社に、
北蛇草字奥宮に鎮座してた蛇斬神社があるそう。
御祭神は須佐之男命とされるが、奥宮鎮座のヘビを斬る「じゃさき」


長瀬神社調べで長背氏が出てきて、苗字検索したら

長背連(高麗鄒牟王子孫)の子孫。
近年、和歌山県西牟婁郡串本町にみられる。
「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。


長い生物→蛇 ですね〜



和歌山県東牟婁郡串本町に
ごく少数10人程居られるようです。
長背氏は河内から紀州へ落ちのびたのか、それとも西牟婁が発祥なのか。

謎は深まるばかり…




弥刀神社でハヤアキツヒメに…

2022-03-20 | 古代史のミステリー
3/13(日)正午過ぎてJR長瀬に到着。
ここまでお昼食べるとこ見あたらなくて、エネルギー枯渇気味。

JR長瀬駅高架下もなーんも無い。
近鉄の長瀬駅へ歩くうちに見つかるの期待して。



最終目的地は弥刀神社でした。
2020年9月まで全く知らぬ神社だったのに

2020-9-10

いつか行きたいと、
地図見ても道が入りくんで迷路のよう。
車だと迷いそうな生活道路エリアです。
あっという間に1年半が過ぎてました。

で今回、長居公園からスタートして大阪東部探索お出かけ。
大阪市東住吉区から東大阪市へ、思いついた移動プラン。
いつもの連れが同行してくれることになりました。

近鉄長瀬駅は近大の最寄駅、
学生時代に一度行った記憶あります。
しかし今はコロナ禍もあり、飲食店は閉まってたり潰れてたり。
はぁ〜食べるとこない。
結局コンビニ弁当買って、
やっと 
13:19 到着




天平宝宇6年(762)6月 長瀬川(旧大和川)堤が決壊した際、
字切所・切下切の浦からの激流のために社殿が流出したという記録。



1704年に大和川付け替え工事が行われるまで、
今の長瀬川は、上の地図の久宝寺川で、川幅は200mもあって大和川主流だったそう。
洪水が度々あり、水戸(みなと)の守り神として弥刀神社が祀られたようです。

ネットでみた由緒略記によれば
「古い時代、この辺りで一番高い台地の上に、そう大きくない社が齋き祀られていたと思われる。・・・
神社から西に延びる参道が旧大和川(長瀬川)の東堤(右岸堤)まで達し、そこに船着場があり水戸(ミナト)であった。
弥刀神社の祭神がミナト神であることと符合するのでなかろうか。
神代の昔、この地が河海の水戸であったため、高天原より天の浮橋により天降られた神々が、大阪湾の入江であった河内潟から当地水戸に着き、水戸の神の許しを得て大和川筋をさかのぼり、大和へ入られた」



またもや拝殿写真撮り忘れ(*´꒳`*)

右横に八坂神社でスサノオが祀られてました。


隙間からスマホ差し入れて撮影

左に本殿が木々に隠れて写ってます。

この八坂さんに向かい合って

大己貴命を祭神とする常世神社。
なんでこんなとこにと思って調べました。

大己貴命が出雲の国から大和の国へ国造りへ向かう途上、
この水戸に寄航し決意を固めた伝承があり、常世神社が創建されたそう。


かなり古そうな石彫り物

隣接する近江堂公園で

  ネット拝借画像


近鉄大阪線眺めながらベンチでコンビニ弁当広げました。

疲れてたのもあるけど、
長瀬川から離れてるし、全く水戸は感じれず。
ハヤアキツヒメは降りてこられず感応するものなかった。


実はこの弥刀神社までに立ち寄ったとこが印象深くて。
これは次回で


長瀬の次の弥刀駅まで歩いて帰りました。
近鉄大阪線の俊徳道でJRおおさか東線に乗り換えて


高架電車ではありますが
大阪でこんなに空見えるエリアあるんですね〜。
ホンマ何もなくて昭和へタイムスリップしたみたいな。





和布刈神社の磐座とめかり神事

2022-01-23 | 古代史のミステリー


大きな磐座(いわくら)は古代よりここにあり、
海をわたる船乗りや漁師たちの道標となり、灯台の役割も果たしてきたという。
和布刈神社やっと行けました。
関門トンネル同様気になってたのが実現しました。


神主?さんのお話伺えました。
15:25





帳のご神紋が右側だけ。
なぜ片方だけか説明聞き流したかな。
聴きながら写真撮ってたから、どこか抜けますわね。


大潮の時は階段下の灯籠際まで干上がり、和布刈神事行われます。

公式サイトより画像もらってきました。




和布刈神事は、毎年旧暦の元日に執り行われる祭事2022年は21)

神功皇后が海の神から授かった「満珠・干珠」を、和布(わかめ)や荒布(あらめ)に見立て、神職が刈り取る儀式で福岡県無形民俗文化財に指定されている。


和布刈とは「わかめを刈る」という意味。わかめは万物に先駆けて自然に繁茂するという縁起の良いものとされている。

門司駅前でみたオブジェ 
和布刈神神事ですね。

以前ワカメもらった時に記録してますが
2015-3-12

そのブログ記事で、
2013年6月初め出雲大遷宮で日御碕神社参拝して、和布刈神社を知った
2014年門司駅で和布刈神事オブジェみた。
ともに記事にできなかった。

やっと時節は巡り、です。
分からないなりにコピペで記録残しておきます。





片方だけにご神紋で調べてみると
神紋は八重桜。
御祭神が陰の神さまであることから片方だけなんだそう。

中川政七商店のサイトがヒットしました。

創建1800年。社伝によると、三韓(現在の朝鮮半島)討伐に向かう神功皇后(じんぐうこうごう/勇敢なる女帝と称される)が、神の教えを受けて勝利を収めたことからこの神社をつくられたとか。

その神というのが、天照大御神の荒魂「瀬織津姫(せおりつひめ)」という月の女神である。月の女神は陰陽において陰の神であるとされ、穢れを払う禊ぎの神さま。
さらに瀬織津姫は、潮の満ち引きを司る“導きの神”として、関門海峡を望み、人々の行く道を照らし続けてきたという歴史をもつ。

詳しくは⤵︎




説明聞き終わり、本殿裏に廻ってみると




松本清張文学碑「時間の習俗」より




集合が15:55
残りあと20分で何をしたかは、
つづく