秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

枯れるように逝く

2012-03-31 | 世情雑感
ご近所さんが貸してくださった本「大往生したけりゃ医療とかかわるな」
以前から妹とともに死ぬ時は癌がいいなと話してた。
返しに行った時、この本と一緒やったわと話すと、妹さんにも読んでもらってと言ってくださった。
また貸しすることになったのでお彼岸に持っていった。

たまたまその日、妹の家で親戚のおじさんと久しぶりに会った。
高槻から電車乗り換えて、堺の北野田にある墓参りに来られたのだった。

今年80歳になられるので、長距離の運転はやめているそうですが、すこぶる元気で記憶力抜群で言葉も淀みない。

そしてもっとすごいのが、再会した翌日、妹にメールアドレス聞いたとメールが届いた。

そして数日後、



中村仁一著「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著者と毎日記者との対談記事が今朝の毎日紙上で見掛けましたので取り急ぎスキャンが2枚になりましたが添付お届けします。
と、添付メール受信。


「大往生したけりゃ医療とかかわるな」
中村 仁一著 幻冬社新書 価格798円

内容紹介
死ぬのは「がん」に限る。ただし、治療はせずに。
3人に1人はがんで死ぬといわれているが、医者の手にかからずに死ねる人はごくわずか。
中でもがんは治療をしなければ痛まないのに医者や家族に治療を勧められ、拷問のような苦しみを味わった挙句、やっと息を引きとれる人が大半だ。
現役医師である著者の持論は、「死ぬのはがんに限る」。
実際に最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない数百例の「自然死」を見届けてきた。
なぜ子孫を残す役目を終えたら、「がん死」がお勧めなのか。
自分の死に時を自分で決めることを提案した、画期的な書。




父が他界したのは2000年8月なので今年が13回忌です。
父の晩年や、母の現在をみていて思うこと

食べないから死ぬのではなく、「死ぬ時」が来たから食べない
最期は体をドライにするのが一番楽
枯れるように逝けたらいいな

GRACE DEWのチョコレート

2012-03-30 | 日々是好日
守口の百貨店(とはいいがたい五十貨店)京阪デパートの地下売り場に
昨秋 「銀座 鹿鳴館 ゼリー」売り場ができました。
おかげでゼリーいただけるようになりました。

つい最近頂戴したものは GRACE DEW CHOCOLATE

黄色いバナナチョコが目に付いて、早速口に入れてしまってから撮影。
なのですでに12個入ってません。


いくらかなぁ~と オンラインサイトで確認すると

「 ビターにおいしいチョコレートと、果汁をとじ込めたゼリー
この2つを組み合わせると、こんなにも可愛らしく、贅沢なゼリーになりました」

だからお値段もいいです。
12粒で1,470円!
ということは1粒100円以上なんだよ~
味わっていただかないとね。



虎屋の一口サイズの小形羊羹、これも頂き物
ネット検索で、一つ210円であることがわかりました。
これを箱に詰めてもらうと箱代別途かかります。


数千円以内のこじゃれた手土産、作るのも売るのも工夫されてますね。




カルボネール

2012-03-28 | 四季折々・色とりどり
スーパーの見切りワゴンセール、時々のぞいてみると思いがけない掘り出し物が見つかります。
昨日見つけたのは、スペインのオリーブオイル「カルボネール」

250mlの瓶入り、638円が310円とお買い得!
念のため、楽天市場で検索すると、498円と714円でした。

714円と高いほうのお店は、購入をそそる情報満載。

1866年に誕生した『カルボネール』はスペイン屈指の総合食品メーカー「ソス・グループ」のオリーブオイルブランド。
ラベルに描かれている「オリーブの枝を掴んでいるスペイン娘」は、1904年に図案化されたカルボネールの象徴で、100年以上に渡って世界中で親しまれています。

オリーブ栽培から採油、瓶詰までをEUの有機農産物規定に従って作られたアンダルシア州有機農業委員会(C.A.A.E)の認定品です。
低温抽出法でじっくり丁寧に搾油した、オリーブのフルーティーな香りとさっぱりした味わいが特徴です。

自然塩やバルサミコと一緒にフランスパンに塗ると、オリーブの実そのものの味わいを楽しめます。
その他、魚介のマリネやサラダ、ピッツァのトッピングにおすすめ!

ウンチク知ったのは今日で、画像撮影は昨夜です。
きっと温野菜に美味しいかもと、ブロッコリーを蒸し煮したのに、このオリーブオイルを垂らし「讃岐のも塩」少々。

画像一番手前の白い輪切りは、「うど」です。
生食のうどを「おたふく千枚漬の酢」に漬けたものです。
左上のセロリも同様の酢に瓶は別にして漬け置いてます。

黒豆はおせち料理とかの瓶詰め黒豆。
サラダのトッピングとしてもいけてますよ~

野中寺②金銅弥勒菩薩半跏思惟像

2012-03-27 | 古代史のミステリー
地蔵堂の左横に朝鮮石像が立っています。
拝観受付所で、この石像が10cm程度の高さのレプリカのペーパーウェイトとなり数個見かけました。

何かいわれあるのですかとお尋ねすると、それほど古いものではありませんとのこと。
想定外のそっけない答えに …。



拝観口からは若いお坊さんが方丈まで案内して下さいました。
その4畳半?のお部屋中央に台が置かれその上に厨子。
正面はもちろん左右の扉が開かれてます。
すぐ目の前で拝見できて、手が届く距離です。

30cmあまりの想像より小さい金銅像でした。

もちろん撮影禁止です。
触ったり、盗んだりしないよう、横でその若いお坊さんがお経を唱えてくださいます。

何のお経か分かりませんが、
弥勒菩薩のご真言の「おん まいたれいや そわか」が3回聞き取れました。

説明を受けていると、おそらくここの住職さんらしき方が来られました。
そしてまたお経を唱えて下さいました。
ありがたいことです。
今度は「おん まいたれいや そわか」はこっそり声をだして唱和させてもらいました。

少しお話を伺うことができました。
住職さんは若い頃堺市美原区の黒山女学校で教鞭をとられていたそうです。
まぁ~おばあちゃんの姉もそこで教えていたことがあります、なんてローカルな話題も。
その黒山女学校は登美丘高等学校の前身です。

きっと18日の開扉の際は、こうして直接お話が聞けるのだろうと思います。
今度チャンスがあれば、朝鮮石像のことも聞きたいと思います。



古代史フアンの間で野中寺(やちゅうじ)は金銅弥勒菩薩半跏思惟像を抜きにして語れません。
この菩薩像の台座丸框には61文字の造像銘が刻まれているのがミステリーをよんでいます。

丙寅年四月大旧八日癸卯開記
栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
請願之奉弥勒御像也
友等人数一百十八
是依六道四生人等此教可相之也


丙寅年(666)の四月 中宮天皇が病気になったとき
栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である

誰が製造したとは作者名はありませんが、
制作年「丙寅」の「弥勒御像」と明記されてあります。
美術史家は、仏像の様式から丙寅は天智天皇5年(666)であるとし、この仏像を白鳳美術の基準作品としてきたそうです。
国の重要文化財にも指定されています。

ところが、銘文中の用語や語法の不自然さ、文字が鍍金仕上げ以後に刻まれた可能性などが指摘され、銘文の評価については意見が分かれています。
古代彫刻史の論点の一つとなっていて、大正期の偽刻だという説もでるほど。

いろんなサイトでご確認いただけますが、とりあえず→こちらなんかどうでしょう。

さらに銘文に「中宮天皇」という文字が入っているのが不思議なところです。
この銘文が本当に天智5年の銘とすると、
天皇号成立時期の定説である天武・持統朝に先行するという問題もからんでいます。

簡単にこの時代の年表をみると
645年 蘇我入鹿が宮中で暗殺され蝦夷も自宅に火をはなち自害
654  孝徳天皇崩御、皇極が飛鳥板蓋宮で重祚して斉明天皇となる
660  唐・新羅の連合軍が攻め百済は滅亡に瀕し、日本に援軍を求める
661  斉明天皇が七月に崩御し朝倉山に鬼が現れ葬儀の様子を覗く
663  新羅に派兵するが白村江の戦いで大敗し半島への足掛りを失う
668  前年大津に遷都した天智天皇が正式に即位する
669  10月16日藤原鎌足が亡くなるも前日に大織冠を授かる


666年にご病気された中宮天皇って誰?


野中寺は「のなかでら」ではなく「やちゅうじ」という読み方をします。
聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えていて、
「上之太子」叡福寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに、三太子の一つに数えられます。

境内に残る礎石から、飛鳥時代~奈良時代前半には大規模な伽藍が存在したことは明らか。
「庚戌年正月…」とへら書きされた瓦が塔跡から出土し、瓦の文様の編年から650年と判断されています。
正倉院文書によれば、この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高いようです。


船氏は葛井寺と同じく辰斯王の王子、辰孫王の後裔で、欽明天皇の時に船舶の税金徴収を担当した事から、船史と任命されています。
船氏の始祖・王辰爾は、越の国に来た高句麗の使臣が持っていた烏の羽根に書かれていた上奏文を読んだ人と伝えられています。
…「烏羽の表(からすばのひょう)」の故事



我が国で発見されている最も古い墓誌「船氏王後墓誌」には「治天下天皇」の文字。
墓誌が船王後を改葬した668年に埋められたものならば、
「天皇」という君主号が使われるのは、飛鳥浄御原令(持統3年(689)制定)以後であるとする、史学会の通説よりさらに20年近く遡ることになります。


松原市のサイト、船氏と「舩」の墨書土器も興味深かったです。

2009年4月22日中宮寺の如意輪観音をみた時の日記は
弥勒菩薩と如意輪観音

野中寺①さざん花の精

2012-03-26 | おでかけ・近畿
羽曳野市誉田3丁目にある誉田(こんだ)八幡宮より
羽曳野市野々上5丁目の野中寺(やちゅうじ)まで
地図上でみたら2kmほどの距離を、時間にして30分以上歩いた。
見知らぬ道を雨の中歩くことは心身ともにダメージ与えます。

折りたたみの傘だったので濡れる部分も多くて、
なぜか左膝裏まで痛くなってきて … 。

府道31号線堺羽曳野線の広い車道を歩いていると、
だんだん不安になってきて、気持ちもめげる。
ひょっとして見過ごして通り過ぎたのではと思うほど。

クリックすると拡大します

10時20分頃道明寺駅で電車降りてから、ずっと歩いてるか立ちっぱなしで見学していた。
中降りの雨が途切れることなく、どこかで腰を下ろす場所がなかったのだった。

野中寺朱赤の赤い山門にたどり着いたのは正午頃になっていた。

門の左側前に「大界外相」と彫られた石碑は、律宗の結界の標石です。

門をくぐるとひろびろと壮大な境内が広がっていて正面本堂が遠い!
参道の左手に塔跡、右手に金堂跡の礎石が残ってますが、
もうそれをみるエネルギーが残ってなかった。
今回みのがしたものをまた見にいこうと思わせる寺院です。

このときは、早く中に入って弥勒半跏思惟像を拝ませてもらいたい。
そしたら座れる…しか頭になかった。


本堂左手にヒチンジョ池西古墳の石棺が置いてあり、突き当たりに地蔵堂。
さらに左に行くと野中寺墓地があり無縁塚や、歌舞伎や浄瑠璃で知られる「お染久松の墓」があるようですが、この日はパス。

本道裏を右手に行くと野中寺の僧坊があります。
かつて律宗本山野中寺道場と称していたときの時の遺構です。





幾多の僧が修行に励んだ比丘寮の正面に山茶花の木(最初の画像)
弱りだしだしたので土を入れ替えて治療中と書かれてありました。

それにしてもすごいパワーのある木です。
樹齢400年以上のさざん花
枝と枝が絡み合う珍しい山茶花で大阪府の天然記念物に指定されています。





この前栽の前で腰を下ろして、
途中で購入した桜餅を手にして、撮影する間ももどかしくあっという間に胃におさまりました。


さざん花が盛んなときは↓

2010年12月にここを訪れた方のブログより画像拝借しました。

続く

遅ればせながら宮参り

2012-03-25 | エソラ&ゆうり
2011年11月21日に誕生したゆうり、すでに4ヶ月をすぎて首もしっかりすわってます。
年末年始を避けて1月の後半に宮参り行く予定が、風邪ひいたり熱出したりで延期になってました。

100か日のお食い初めで使うお膳は、宮参りの祈祷で賜ります。
はやくお参り行かないと、この節目行事もできない…
ということで今日、疣水磯良神社へ行きました。

いぼみずいそら神社、なんともけったいな名前でしょう。
エソラもこのイソラ神社で宮参り祈祷してもらいました。
  →2009年8月9日 エソラとイソラへ





お賽銭箱の正面に巻貝が飾られてます。
神社の紋も巻貝です。

祭神の磯良大神は九州安曇氏の祖神、安曇磯良
神功皇后三韓への御征途に際し、水先案内をされて航海の安全に功があったと伝えられます。


桜のつぼみがだいぶ膨らんできてます。
昭和のはじめまでいぼ桜という銘木があったそうですが、今は枯れてありません。

疣のみならず穢れも洗い清めると言う霊泉 「玉の井」
御神水も賜わる人が次々とやってこられます。



神功皇后の疣水伝説→いぼ水と桜

疣水伝説でこんなの見つけた→いぼ水伝説とマグダラのマリア


もちろんちゃんとペットボトル持って行き 御神水も賜りました。

お昼ごはんは総持寺近くの貞寿庵で、鴨蕎麦きりをいただきました。


ルッコラの花が咲いてる

2012-03-24 | ケータイ・スマホから
今朝初めて花に気づいた!

ルッコラにも花が咲く… 種を買って植えたから当然か。。。

調べてみると
その株の状態や気候の関係で11月頃から咲き始め、翌4~6月に一斉に咲きます。

「貴婦人のスミレ」、
または夕方特に香りが強くなるところから「宵の明星の花」とも言われる。

古代ローマ時代には葉と種子の風味が尊ばれたようで、
現在でも種をマスタードの代わりに使うことができます。


梅の源平咲き

2012-03-22 | おでかけ・近畿
源氏と平家の旗の色にちなんで「源平咲き」
梅の源平咲きを初めてみました。
梅にもキメラあるのですねぇ~

見つけた場所は藤井寺市の誉田八幡宮境内です。

道明寺から東高野街道を南へ


右手に応神天皇陵(誉田山古墳)をみながらさらに歩くと誉田八幡宮。


クリックすると大きくなります

1kmはゆうに歩いたと思います。


画像左上あたりの道明寺から、↓ポイントの誉田八幡宮まで歩きました。




鳥居をくぐってすぐ左手に、梅の源平咲きがみられます。

想像以上に静謐で立派な神社でした。







誉田(こんだ)八幡宮

大阪府羽曳野市誉田(こんだ)に鎮座。
主神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、帯中彦命(たらしなかつひこのみこと)、住吉大神を配祀。
誉田、ほんだ を こんだ と称するのは、後世の転訛でしょうか。

欽明天皇の勅命による創建と伝えられ、
社地は応神天皇(誉田別命)の御陵のすぐ近くで、天皇居住の地という。
皇室、武家の崇敬が厚く、源頼朝は社殿を造営し社領などを寄進。
織田信長は社領を没収し衰運の傾向を示したが、
豊臣秀吉、ついで徳川家康が社領を寄進、ふたたび隆盛をみた。

例祭日9月15日の夜には神輿が応神天皇陵へ渡御する。






今でも例祭の日には、神輿が放生池にかかる太鼓橋をわたり、
誉田山古墳の後円部山頂の祭祀場までご神体を御坐するそうです。

拝殿から左の放生池へ行く途中に当宗(まさむね)神社が鎮座します。


当宗忌寸(まさむねのいみき)の祖神は、王仁博士と同時期に楽浪郡から渡来した山陽公といわれています。

山陽公とは、後漢の献帝のこと。
曹操のもとに落ち着いてからは、その娘を娶り皇后とすることで、皇帝の地位を保つことができましたが、曹操の死後、曹丕に位を禅譲させられた悲運の皇帝です。
ホンとかウソかわかりませんが、へぇ~ !? でしょう。


PTAの同窓会

2012-03-22 | ケータイ・スマホから
下の子供が小学校を卒業してすでに16年?
その長女がすでに28歳で2子の母ですから。
彼女が小学校の時PTAでご一緒したした仲間の集いがありました。
そのときの先生が今年定年で花束贈呈。

花束贈呈された先生は、来年度大阪市で再雇用されるそうです。
橋下市長のもとで頑張ってください!

当時、PTAはまだまだにぎやかな時代でした。
来年は温泉で夜通し宴会やぁ~と盛り上がりました。

桜餅と道明寺糒(どうみょうじほしい)

2012-03-20 | おでかけ・近畿
桜餅に関東風と関西風があるなんて知らんかった。

関西では、桜餅に使われるもち米は、正確には「道明寺または道明寺粉」といいます。
もち米を一度蒸して乾燥させたものを粗く砕いたもので、
道明寺粉の由来は大阪は藤井寺にある道明寺からきています。

一方、関東系は長命寺桜餅 
あんを包む餅は練った小麦粉を銅板でクレープ風に薄く焼かれてあります。


道明寺にはこの道明寺糒(どうみょうじほしい)が売られていました。
しかし自分で桜餅を作ることはないので見てただけ。

野中寺へと行く途中の和菓子店青木松風庵で、桜餅と鶯餅を1個づつ買い、
そして野中寺僧坊で前栽を眺めながらあっという間に完食。

「青木松風庵 桜餅 鶯餅」で検索したら見つかったのが最初の画像です。

道明寺糒(どうみょうじほしい)
紙紐で口が絞められた筒状の分厚い和紙のパッケージのラベルには
「大日本帝国、道明寺製造、登録商標」
「巴里大博覧会金牌受賞」
1900年のフランスで開催されたパリ万博へ出品して、金賞獲得!

「ほしいひ」の文字は豊臣秀吉の文字だそうです。 

道明寺糒(ほしい)の起源、道明寺ウェブサイトより引用
菅原道真公の伯母上が、この寺に住んで居られ、道真公が築紫に左遷された後、毎日、伯母の覚寿尼が九州に向ってお供へされたご飯のおさがりを、分かち与へたが、これをいただくと病気がなほるといふのが評判となり、希望者が多くなるにつれてあらかじめ乾燥、貯蔵するようになったのが糒のはじまりで、千年以上前の事です。
「ほしい」は純粋のもちごめを二日間水につけて、のち、むしあげ屋内で十日程乾燥し、のち二十日程天火で干してから石ウスにかけて仕上げます。
和紙の袋の上の「ほしいひ」の文字は豊臣秀吉の文字です。
江戸時代には金裡、将軍家に献納したのち、諸侯の求めに応じて少量づつわかつていたが明治以後は一般民間にも販売するようになりました。
寒中に作つてあり幾年をすごしても変質、変色せず、昔は軍糧にしたもので行軍、山登りなどには欠くことの出来ないものです。










道明寺は黎明期の大和朝廷の有力豪族、土師(はじ)氏の根拠地であり、
「糒」の備蓄に関わり大きな力を保持していたと言われています。

 像高98cm
国宝の木造十一面観音立像は、秘仏で18日には開扉されます。
平安時代初期、9世紀の菅原道真公作。
カヤ材の一木造で、彩色を施さない素地仕上げ


東日本大震災は、869年貞観地震の再来 といわれます。

菅原道真公は845年生まれで、貞観元年(859年)元服。
貞観12年(870)方略試(高等文官試験)に合格。
若き菅原道真が受験した貞観12年の高等文官試験には「地震を論ぜよ」という問題があったそうです。

貞観地震の9年後878年に関東南部で発生した大地震
菅原道真らが編纂 した『日本三代実録』にはこの地震の被害が記されています。
詳しくは→こちらでどうぞ

西日本では
貞観10年(868年)播磨地震(山崎断層を震源とする地震)
仁和3年(887年)仁和地震(南海地震、M 8.0~8.5)

暁や 鳥なき里の ほととぎす★一茶

2012-03-20 | おでかけ・近畿
近鉄南大阪線道明寺駅で降りて、5分も歩かないうちに道明寺天満宮に到着。
毎月25日は天神さんの日で骨董市が開催されるようですが、
その1週間前だというのに駐車場に入る車がずっと並んでます。
電車で来てよかったわ~


左側が超混んでるのに、右側鳥居がある参道の露店は閑散としていた。
なんで?
天神さんって、露店も変わってるなぁ~と眺めて歩いた。


どうやら手づくり市が開催されていたのでした。
神社らしからぬオーガニッククッキーとかパンとかほおばる若者が群がってました。
手づくりは食べ物もハンドメイド小物もけっこういいお値段しますので見てただけ。


ではお参りにご案内しましょう。







道明寺天満宮の御祭神は
菅原道真公(学問の神様)
天穂日命《あめのほひのみこと》(天照大神の御子様)
覚寿尼《かくじゅに》公(道真公のおば様)

菅原道真は大宰府に流される前、道明寺の尼僧であるおばさんにお別れに寄られました。
そして西海に赴かれる前にのこされた歌

鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もがな


この歌より道明寺に住む者は鶏を飼わないという信仰が続いています。

時代は下り江戸時代、この地を訪れた小林一茶が残した句

暁や 鳥なき里の ほととぎす
青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで


947(天暦元)年に道明寺天満宮が創建されるまで、土師社が本社でした。



垂仁天皇32年野見宿祢(のみのすくね)が勅問に答えて、初めて埴輪を創って殉死に代えました。
(大君が崩御され古墳に葬るとき、生贄から埴輪にかえることを提言)

その功により、土師の姓とこの付近一帯を所領地として賜わりました。

土師氏は代々この地に住み、天穂日命(あめのほひのみこと)とその御子天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)をその丘に祀り、毎年8月1日(新暦の9月1日)に盛大な祭礼を行いました。
これが現在でも毎年行われている八朔大祭です。

農家の節を祝う八朔祭と併せて、野見宿祢つながりで、小学生による奉納子供相撲大会が執り行なわれるそうです。




祭神は天夷鳥命・野見宿祢・大国主命の3柱です。

画像、左上の光、あまりに強烈で…


土師氏は古代の氏族で、埴輪を発明し古墳の造営にもかかわった。
仁徳天皇に土師連姓を賜っている。
土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれた。
道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地とした場所。
周辺には応神天皇陵、仲哀天皇陵、日本武尊白鳥陵、仲津媛陵、墓山古墳、三ツ塚古墳、誉田白鳥埴輪制作遺跡などの古墳や遺跡が集中している。


西国三十三カ所第5番札所・葛井寺

2012-03-18 | 西国33箇所
今日18日は観音さんの日で、秘仏が開扉されます。
お寺参りの参考にさせてもらっているhideponさんのブログで教えてもらいました。
土曜日は古寺を歩こう。

今年は18日が日曜になるのは、3月と11月の2回だけ。
多少の雨はやむをえません。

西国三十三カ所第5番札所・葛井寺は藤井寺市にあります。
葛井寺はふじいでらと読み、藤井寺の藤とで「葛藤」
なんかワケありの感じがしませんか。

せっかくなので、まぁまぁ近くの道明寺と野中寺3箇寺まわることにしました。



近鉄南大阪線の道明寺からスタートしましたが、
最後の葛井寺のレポートから始めます。





十一面千手千眼観音菩薩坐像は、国宝です。
撮影はできませんので検索により画像もらってきました。



内拝した折に、厨子裏でビデオが流されてたのを視聴できました。
実際は薄暗くてそれほどちゃんと見えません。

我が国最多の1043本の手をもち、それぞれの手のひらに目がかかれてあって
あまねく人々の煩悩を見抜き救ってくださるのだそうです。



この西門は、1601年に豊臣秀頼が南大門として寄進したもの


葛井寺は葛井氏の邸宅跡に立てられた寺です。
葛井連の姓は、戸籍などを形成して徭役や租税を決めた者として知られる白猪胆津をだした白猪氏に与えられた姓 (720)。
子孫は平城天皇妃(藤継子)として皇室と姻戚関係を結ぶほどの権勢を誇り、平城天皇の子に在原業平がいます。

ゴールデンウィークの頃には藤の花が咲き誇ります。

  これもいただいてきた画像です

向井理ナビのオランダ紀行ふたつ

2012-03-17 | 旅・オランダとベルギー
NHK世界遺産「時を刻む」のナビゲーター向井理さんのオランダの旅。
やっぱり行ったことがあるところは身を乗り出してみてしまうもんです。

実は1週間前にBSで同じシリーズ「堤~水を包み水と生きる~」を見ました。
同じかと思ったら3割ぐらい編集が違ってた。

どちらもそれなりに面白かったけど、BSのほうはご覧になられなかった方も多いかもしれないのでレポートしておきます。

NHKの番組解説によると
世界遺産 時を刻む「堤~水を包み水と生きる~」
【ナビゲーター】向井理
「こうやって水を押し上げるんだ」と向井理さんが感心した風車。
海面より低い土地を堤防で囲んで作られた干拓地を、冠水から防ぐ。
伝統を支えるのは風車守と住民の連携だ。
首都アムステルダムには、17世紀に世界一の港湾都市に発展した時に築かれた運河や町並みが健在。
「これは技術だ、技術は歴史だ!」と驚く運河の街の知恵と工夫。
それはモダンな住宅にも継承されている。
オランダの「人と水」を巡る向井さんの旅。




キンデルダイクの風車です。
とても風の強い所で、風車が役に立つのはよくわかりました。

そしてそのときは、自転車道がちゃんと別になってるのが印象に残った。
以前にもご紹介した画像↓


干拓により国土を拡大してきたオランダ
水深のそれほど深くない湾や入り江、湖泥に水の流れを締め切る堤防を築き、風車で内側の水を海へ排出していたのです。

レンブラントのお父さんも風車守だったとガイドさんから聞きました。

この干拓地で農地を持つ人は、水路の掃除が義務付けられてるそうです。
干拓地に住む自由を得るためには義務を果たさないと
ココが湿地帯に戻らないよう整備維持するのは当然だと、農夫が語る場面が映っていました。

この場面はサイクル紀行ではカットされてて残念に思いました。


現在は風車だけでなく、大掛かりな排出機械もありました。

あともう一つ、カットされてて印象に残ったものは、
アムステルダム運河の跳ね橋の管理をしている場面です。



大きな船が通るときは、跳ね橋が真ん中で二つに割れます。
これをコントロールしているおじさんたちを見て、
向井さんが「これは技術だ、技術は歴史だ!」とつぶやく様が実に良かった。

「自然がつくったものは自然が淘汰、片づけをしてくれるけど、
人間がつくったものは、人が維持メンテナンス、そして最後は人の手で片付けないと」
この一人言風につぶやいた向井さんの言葉、重いです。
原発にまで意識が飛びましたモン。


2013年アムステルダムの運河ができてから400年を迎えます。

17世紀のオランダは、冬は厳しく運河も干潟もお濠も一面凍ってしまうことがたびたびだったようです。
凍った運河の上でにぎやかに遊びに興じている人々を描いた絵

ヘンドリック・アーフェルカンプ(Hendrick Avercamp 1585~1634)
オランダの冬景色を色彩豊かに巧みに描写しています。





Waternetで検索していて見つけた記事によれば
2011年8月17日Amsterdams Stadsblad

アムステルダム運河Waternetの浮遊ごみの清掃員は、1年に約12千台の自転車を運河から引き揚げています。
つまり、1日に約33台の自転車が運河の底に沈んでいっていることになります。
清掃員が引き揚げているのは自転車だけではないようです。
他にも1年に約700台のショッピングワゴン、80千キロの木材、5千キロの自動車のタイヤが引き揚げられています。
そしてごくまれに1年に0~3台の自動車も運河から引き揚げられています。



やっぱり柵がないと落ちる可能性は高いですよね。

落ちるのも自己責任!
さすがオランダは日本とはエライ違いです。

堤を築き水を制御し干拓し、運河を造り海運業で栄えたオランダ。
そして今、水を楽しみ水とともに生きる暮らしをはぐくんでいる。
アムステルダムは都会だけれど、村のように住民が声掛け合って共に暮らす。
水辺の暮らしがとても自由で自然と共生できててうらやましく思われました。

犯罪白書

2012-03-15 | 保護観察
先週宅配便で郵便物が届いた。
法務省からでドキドキもので開けてみるとアンケート用紙が入っていた。

なんか設問と回答の選択肢などが、いまいち理解できない。
途中まで書いてもう出すのをやめようと思った。
調査の結果は「平成24年版犯罪白書」等において公表予定と書かれてあって、
適当に○をつけるのはよくないだろうと。

そして今週保護司会定例会がありました。
会長さんが、アンケート届いた人もあるでしょうが、ちゃんと返送しないとわかりますからよろしく、と言われました。

昨夜、しょうこと無しに無理やりアンケート答えることにした。




自分の保護司としての体験よりお答え下さいといわれてもね。
それぞれ人によって違ってたから一概に言えない。

いろいろ過去の事例を記録の引き出しから次々とだしてくる。
あの子はちゃんと働いてた、
あの人は家族が結束して面会行って支えてた、…

確かに自分にちょっと甘くて、日時の約束にルーズな人は多かったけど、これを指摘できるような質問はなかった。


ステレオタイプに、家族がむちゃくちゃだから犯罪に繋がるわけでもなく、
ご近所さんから鼻つまみになってるわけでもなく、
前科があるから就業できなかったり、職場で無視されてたりするわけでもなく。


誘導質問というか、回答選択肢に偏りがあったりして
なんかそういう風なシナリオがすでにできているのかと思わせるような
そのために支援としてこんな事業が必要なので、予算が。。。とか?

何ページにもわたる質問に、最後はもうわけ分からんようになってもとりあえず全部埋めて返送用封筒に入れました。


宛先郵便番号下に記載された098
これで誰か投函したかわかるようになってるんだろうか…

学士の卒業論文では大掛かりなアンケート調査を元に作成したし、
社会心理も少しは学んだし。
アンケートの仕組みわかる部分もあるんですけどね。