秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

曼珠沙華

2012-09-30 | 四季折々・色とりどり
昨日、信貴山を歩いてたら、ときどき曼珠沙華を見かけました。
帰りは信貴山門からバスで奈良側の信貴山山下駅へでて生駒経由に。

往路は鶴橋から近鉄大阪線信貴山口駅より高安山までケーブル利用で830円、
帰路は信貴山山下駅より生駒から近鉄奈良線鶴橋まで480円でした。
少し時間はかかるかもしれないけれど、値段ずいぶん違うもんですね。


生駒までは単線で、車中より見える奈良側の景色はとてものどかなものでした。
頭を垂れだした稲穂が色づいた田んぼ、
そのあぜ道に曼珠沙華の赤が映えてとてもきれいでした。


子供の頃「彼岸花」とよんでました。
根に毒があるから触ったらダメと言われてました。
お彼岸に咲くから「彼岸花」なんですね。

まんじゅしゃげ、どんな漢字だったっけと検索したら、
いろいろ興味深いこと分かったのでお知らせしておきます。

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
サンスクリット語 manjusaka
天界に咲く花という意味
おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から。

花のある時期には葉がなく、葉のある時期には花がないという特徴から「葉見ず花見ず(はみずはなみず)」
花の様子から、「天蓋花」「狐の松明」「狐のかんざし」「剃刀花」など、
全国にはたくさんの呼び名があるそうです。

根にアルカロイドという毒があるため、「毒花(どくばな)」「痺れ花」などとも呼ばれています。

その毒でモグラや野ネズミなどから土葬を守る意味もあって
墓地などによく植えられているため、
「死人花(しびとばな)」「地獄花」「幽霊花」とも。

毒は水にさらすと抜けるため、
昔は飢餓に苦しい時に毒を抜いて食用にすることもあったそうです。
田んぼの畦道に彼岸花が多いのは、その毒でモグラや野ネズミを防除するためだけではなく、飢饉に備えて植えたという説も。



キバナコスモス? も今を盛りと咲いてました。


キウイがたわわに実ってました。

今日は台風で朝からずっと雨でした。
信貴山ウォーキング、昨日でよかったわ。

空鉢護法・くうはつごほう

2012-09-30 | 古代史のミステリー
信貴山(しぎさん)の一部6kmほど歩いてきました。
P社の健康ウォーキングに参加させてもらいました。

朝9時信貴山口集合で、9;30発のケーブルで高安山駅へ
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信貴山生駒スカイラインは自動車専用道ですから、歩きは山道です。
高安山駅より少し歩いて気象レーダー横を通り、スカイラインを横切り、
30分あまりで信貴山城址に着いたのが10時半過ぎ。
けっこうな山道で息が上がりました。


信貴山は大和国と河内国を結ぶ要衝の地です。
天智天皇時代に山城が築かれた記録に始まり(高安山のほうだった)、
信貴山には戦国時代には松永秀久の支配により歴史の表舞台にも登場。
1577年( 天正5年)松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城の上、名器・平蜘蛛茶釜と共に爆死し落城、その後廃城となりました。



ここで朝護孫子寺境内図が配られ、11時半大トラ前集合まで自由散策でした。




伏見稲荷の千本鳥居のように空鉢堂(くうはつどう)まで鳥居が続きます。

信貴山観光協会の説明によれば、
空鉢護法(くうはつごほう) 約700mの山道に、500本といわれる朱塗りの鳥居の中を登ると、そこはあたかも天空の世界。
山頂からの眺望は最高です。近くには「信貴山城址」の碑も。


近づく台風のかげんで残念ながら少しけぶり見晴らしはイマイチだった。

山頂には空鉢護法堂(空鉢堂)と呼ばれるお堂がありました。







このお堂を中心にして、まわりに小さな鳥居と小さな祠がいっぱい。
神仏習合のなごりがここかしこに残っています。
ちょっと珍しい気にかかる不思議な聖域でした。







信貴山中興開山・命蓮(みょうれん)上人によって祠が造られ
毘沙門天王の分身で、巳の姿(竜神、難陀竜王)で出現される空鉢護法の神を祀っています。

難陀(なんだ)竜王は、今から千四百年前、毘沙門天王がこの地に出現した時に、劒鎧童子と共にお供をして現れました。
天王の福徳を授ける使者である八大竜神の中では最も優れた竜王で、信仰篤き者には一願成就必是のあらたかな神様、だそうです。


信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)


空鉢を飛ばして倉を飛び返らせ、
驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたという出来事由来により空鉢




家に帰り暦を確認すると、今日は巳の日だった。
しかし空鉢様は巳の姿で出現されることはなかった。



空鉢で検索すると、空鉢仙人がヒット。
法道仙人(ほうどうせんにん)ともいわれ、インド出身だということになっている。
6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされる。
播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。

鉄の宝鉢を持っていたことから、空鉢仙人とも呼ばれ、不思議な術を使う超能力の持ち主であった。
いろいろな寺の縁起などによると、推古天皇のころに日本へ渡ってきたとされるが、本当の事跡や没年、墓所などすべて不明。

彼が日本に渡るときに、共に渡ってきた「牛頭天王(ごずてんのう)」は、
姫路市の広峰神社に、その後、八坂神社中の座に祭られたとされている。


朝護孫子寺の本堂で牛王宝印を賜ってきました。



招福厄除 牛王宝印

牛王(ゴオウ、牛黄とも)とは牛玉とも言い、牛膽の中から得られるとされる最も貴い薬だと言われています。
元々は医薬であった牛王が仏教、特に密教と結びついて”牛黄加持”なる秘密法が生まれますが、それが後世において「牛王宝印」が生まれるに至ったものであると思われます。

牛王宝印とは、この牛黄を印色として護符の上に印するところから「宝印」と呼びます。

当山のものは「信貴山寺 宝印」と刷られ、その一字ずつに御本尊・毘沙門天王様を表す梵字”(ベイ、バイとも)”の御印形が押してあり、祈願主が身の守りとする護符となります。

信貴山では修正会の時に額にこの印を授けますが、この護符があれば家内安全・身体健全・無病息災・厄難消除等々、毘沙門天王様の庇護を得る事が出来ます。

 どうぞ御家庭の玄関にお貼り下さい。

               総本山 朝護孫子寺

鉄で発色した青いガラスの腕輪

2012-09-26 | 古代史のミステリー
日本で初めて完全な形で出土した青いガラスの腕輪
釧・くしろ というらしい。
なんと2000年近く前の弥生後期後半の大風呂南1号墳から出土しました。

ほぼ円形で、直径9.8/内径5.8/厚さ1.8cm、深い青色で中に気泡が見えます。
被葬者が左腕にはめていたそうです。

大風呂南1号墳は、天橋立や阿蘇海(あそのうみ)を見下ろす標高59,5mの尾根上に立地。

平成10年携帯電話受信基地を建設するための事前調査で、
弥生時代後期後半につくられた一号墓と、その北側に周溝を共有する形で同後期末の二号墓が発見されました。



京都府与謝郡岩滝町から大内峠を通り大宮町の小野小町温泉へ行ったことは先に記事にしました。
その高台にあった三坂神社を調べていて、三坂神社墳墓群を知り、
そのつながりで、この神秘的な青いガラス釧にたどりつきました。


文化庁:国指定文化財等データベースよると
大風呂南墳墓群の出土品総数は412点。
これらのうち、第一主体部から出土したガラス釧は透明度の高い青色の優品で、遺存状態も極めて良い。
ガラス釧は、本遺跡に近い京都府丹後大宮町で一点(半欠品)、
福岡県飯塚市から破片二箇分が出土しているのみであり、全形がうかがえるのは、本例を措いて他にない。



大風呂敷南1号墳の釧は、奈良国立文化財研究所が行った成分分析の結果から、
中国産のアルカリ珪酸塩ガラス(カリガラス)製である可能性が高い。
中国で原料となる鉱石を溶解した後日本に運び込まれ丹後で加工された?
青色のガラスは通常、銅かコバルトを使って発色するが、ガラス釧には鉄が使われていた。
鉄で着色したカリガラス製品は、奈良県・藤ノ木古墳で見つかった「なつめ玉」などわずかしか確認されていない。




三坂神社墳墓群出土品は京都府指定文化財の指定を受けています。

広報きょうたんご(2006年度/平成19年3月)で次のように紹介されています。

三坂神社墳墓群は、弥生時代後期初頭(約2000年前)につくられたお墓です。
大宮ふれあい工房や国民年金健康センター丹後おおみやが建つ、北部マスターズビレッジ造成に先立って、大宮町教育委員会が平成4年に発掘調査を行いました。
この墳墓群は、丘陵尾根線上の高い部分を削り出した六つの平坦面を墓域としています。
各平坦面には、有力者とその家族が合計39人埋葬されていました。
大半は、木の棺(木棺)に寝かせた状態で土葬されています。
しかし、乳幼児は、大きめの土器の中に葬られていたようです。

木棺を埋葬施設とするものは、遺体を埋葬し、棺にふたをしたときに、土器を意図的に割ってばらまく葬送儀礼を行っています。
これは「墓壙内破砕土器供献(ぼこうないはさいどききょうけん)」と呼ばれる儀式で、丹後・但馬・丹波北部を中心に弥生時代後期に行われているものです。

墳墓群の中で最も大きな3号墓第10主体部と呼んでいる埋葬施設(墓穴)には、
ガラス管玉でつくられた、ヘアーバンドやガラス勾玉・小玉と水晶玉の耳飾りで飾られた有力者が葬られていました。

この埋葬施設からは、朝鮮半島からもたらされた鉄製のやりがんなや、素環頭鉄刀(そかんとうてっとう)が出土しています。
このほかの埋葬施設にも、ガラス小玉のネックレスや手玉を装着した有力者とその家族が葬られていました。

墳墓群全体からは、墓壙内破砕土器供献された弥生土器63点のほか、当時はたいへん貴重であったガラスでつくられた勾玉・管玉・小玉が3000点あまりと、鉄製品が出土しました。
これらの資料からは、海を越えて交易を行っていた丹後地域の有力者の姿が浮かび上がります。

以上のように、三坂神社墳墓群出土品は、弥生時代後期の丹後地域における墓制の初源段階の資料であり、その特徴をよく示す資料であることから、
平成12年3月17日付けで京都府指定文化財(考古資料)に指定されています。
墳墓群自体は、その後、消滅しましたが、三号墓のあったあたりに説明看板を立てています。




全体の出土遺物にはガラス勾玉、ガラス管玉、ガラス小玉、碧玉管玉などの玉類、武器、農具などの鉄製品、土器などで、ガラス勾玉は鉛バリウムガラス。
ガラス小玉は総数2930個を数える。

弥栄町溝谷の奈具岡遺跡では、弥生時代中期約2000年前の玉作り工房跡が発見されました。
水晶の原石、玉製品の生産工程における各段階を示す未製品や、加工に使われた工具などが多数出土しています。
生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉。
原石から製品まで一貫した玉作りが行われており、国内でも有数の規模と年代を誇ります。
鉄製工具類なども大量に見つかり、九州北部よりも先に鉄加工の技術が伝来していた可能性を示すものとして注目されています。




三坂神社3号墓第10主体部がこの墳墓群の盟主の墓で、
素環頭鉄刀(そかんとうてっとう)、やりがんな、水晶玉16個など弥生時代後期の豪華な鉄製品の副葬は注目されています。

峠道で結ばれている岩滝町の大風呂南遺跡は、
ガラスの釧の他に、全国最多の11本の鉄剣が出土し「鉄」の遺跡としても非常に貴重な存在です。
その内9本は柄がなく最初から鉄製品を作るための素材だった可能性もあるそうだ。

大宮町の三坂神社・左坂両墳墓群(弥生後期)にも鉄刀が副葬されていて、
さらに北へ10kmほど行った弥栄町の奈具岡遺跡(弥生中期)や、
北西側の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡(弥生前期末)・途中が丘遺跡(弥生時代前期末~後期)等々鉄材や鉄器加工の痕跡が残されています。

邪馬台国の前の時代に、すでに丹後半島に鉄の文化ができあがってたのですね。

大阪で開催されたエキスポ70(1970年)の時、高2でした。
あの時代に習った日本史からすると、とんでもない展開にワクワクします。

小野小町温泉★丹後七姫伝説

2012-09-25 | おでかけ・近畿
伊根に出かけて田植えや稲刈りの体験した帰り、日帰り温泉に立寄るのが恒例となってます。

奥伊根リゾートの桜泉閣はすでに2年前には休業してたので、
今年はどこへ行こうかと事前調査で「たんご湯遊パス」で小野小町温泉を発見。

きっと美人の湯に違いない。
なんとなくキレイになれそうな気がするネーミングです。
伊根から1時間ほどかけて山道を走り丹後大宮にたどり着きました。

往路の高速道サービスエリアで「たんご湯遊パス」のチケット2枚つづり900円を購入しました。
ほんとなら500円のところが450円と少し安くなります。

ところが家に帰り、NEXCO 西日本の情報ガイド「ほっこり丹後ゆったり若狭路」見てたら
立ち寄り湯の特集ページに入浴料半額のクーポンついてた。


お湯はまぁまぁでした。
なんで小野小町か知りたい方は、
丹後七姫伝説の一人だそうで、詳しく紹介されたサイトがたくさんあります。





京丹後市が観光に力を入れてます。



この小野小町温泉があるセントラーレホテル京丹後は高台の上にありました。
(しかし露天風呂は塀に囲まれて外の景色が見れません)
数年前に「国民年金健康センター丹後おおみや」から名前変わってます。

坂を登る周回道路のすぐ脇に神社の鳥居と社が見えたので、裏から視察に立寄りました。



この撮影したすぐ後ろは急な階段で、ずっと下に鳥居が見えます。


足を踏み外さないよう緊張して撮影したため、右手の干塩稲荷神社が写ってなかった。
よそのサイトより画像いただいてきました。



境内の案内板を読んでびっくりした。
この階段下まで津波がきたんだって…。




三坂神社(旧三坂村 村社) 祭神 伊邪那美命 例祭 十月十日
古くから神楽・楽を奉納した。
創立年代は不詳であるが、古くから三坂の里の氏神として村人の崇敬を集めて来た神社である。
今も例祭はもちろん、春は祈念祭、秋は新嘗祭等村人により厳粛に祭の行事が行われている。
以前は村の南側の丘にまつられていたが、明治四十二年(一九〇九)この丘に遷座した。
平成六年(一九九四年)丹後マスターズヴィレッジの建設に伴い、上屋を現地に移転改築した。

干塩稲荷神社  祭神 倉稲魂命 例祭 七月二十日
古くからこの丘に鎮座する神社である。
創立は、文明年間(一四六九~一四八六年)ともいわれているが、定かではない。
「文明六年(一七八六年)に再建された」と記録されている。
本町内はもちろん、この地方では最も古い歴史を持つ稲荷神社である。
この神社の呼称の起源については、「大昔、大津波が押し寄せて来たが、この神社の手前でぴたりと止まった。
この後この神社の神威をたたえて、干塩億稲荷神社と呼ぶようになった。」と伝えられている。
古くからこの地方一帯の崇敬を集め、例祭には参拝の人波で参道は埋め尽くされるのが常であった。
今も、「五穀豊饒」「商売繁盛」「家内安全」「心願成就」を祈る多くの人々の信仰を集めている。
平成六年(一九九四年)丹後マスターズヴィレッジの建設に伴い、上屋を現地に移転改築した。


色移り

2012-09-24 | ケータイ・スマホから


こんなに見事な色移りは初めてかも。
白のTシャツやタオルが色ムラもなくまるでピンクに染めたかのようです。

先週土日特価で購入したユニクロのイージーパンツ。
色は赤紫、ストレッチが効いてスグレモノでした。
しかし、洗濯する時は気をつけてください。


伊根の海★冠島と沓島

2012-09-24 | おでかけ・近畿
丹後半島、伊根町新井千枚田稲刈りに行ってきました。


道の駅 舟屋の里にある伊根湾の地図







伊根の舟屋は重要伝統的建造物群保存地区
海面ギリギリに約230軒が建ち並びます。



徐福 渡来伝説の地でもあります。




最初の画像同様、かすかに見える島は冠島と沓島。

丹後風土記残欠に記録に残された二つの島です。
大宝元年の大地震で沈み、島の高い山だけが海上に残った、そうです。

モミジアオイ?

2012-09-22 | 四季折々・色とりどり


守口郵便局近くの民家壁にそって、ここ1週間次々と立派な花をつけてます。
草花にしては背か高く、かなり上のほうでたくさん花ありましたが
2mを越えてて撮影できなかった。

なんとなく『あおい』かなと思われたので、
「あおい 赤い花」で検索したら、モミジアオイの画像がそっくりでした。

あとで全景撮ってきて画像追加することにします。

「よつのおだいっさん」そして「十三夜坂」

2012-09-20 | おでかけ・近畿
こどものころ、親戚は地名でよんでて、
河内長野のよつは、與通だったことをこの年になって知りました。

808年(大同3年)弘法大師が修行のために槇尾山に向かう途中、昼食を摂った場所に建立された盛松寺。
大師は「冬至に柚子味噌をつくって食すると疫病ならない」と伝えたという伝承があります。

大師が立っていた所から樟が生え4本に枝分かれしたので、
四鉤樟(よつるくすのき)が訛って→「よつくぬぎ」→「四つくの木」→「四通」(よつう)→「四樟」(よつ)→「与通」→「與通」

『與通大師盛松寺』親しみをこめて「與通のお大師さん」と呼びます。


17日、河内長野にある盛松寺を訪れた話をエントリーしたら
また親戚のおっちゃんからメールもらいました。

写真を見て判った事は以前は本堂の真正面に門が有って参道が続いていたが、今はお寺の下を全部学校にして門も横の方に建替え参道も付け替えられたようですね。(寺から眼下東方は殆んど田畑で遥かに高野線の電車が見えました)


Wikiでみると、1950年に当時住職であった高橋道雄師が千代田学園を創立させています。
おっちゃんが子供の頃ヨシばあさんに連れられて盛松寺に月参りしてたのは戦前。

その頃は学園が設立されてなかったので、本堂正面に門があったのですね。

冒頭の地図に、中央の千代田高の左下が盛松寺、
右手クロスマーク地点の画像をネット検索にて拝借してきました。


おそらく戦後、千代田学園が設立されるまで、盛松寺の参道が始まる地点だったのかもしれない。
ちょうどそこは、西高野街道と中高野街道の合流する地点でもありました。






高野詣のために高野山へ歩いて行く「高野参拝道」のうち、
港町として発展した堺を起点とする西高野街道は、高野参詣の本道として「高野道」と呼ばれ多くの人が往来しました。
旧街道はほぼ現在の国道310号線に沿っています。
現在でも高野山女人堂への町石(十三里石から一里石)が先の高野街道と共に
当時のまますべて現存しています。

子供の頃はもとより、成人してからも何度も310号線は通行してますが、
関心ないということは恐ろしいものです。

17日は初めて狭山池東側の府道198号線を走り、あまりに狭い村道で驚きました。
この道が中高野街道だったのです。

中高野街道起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚とされていますが、
守口市の京街道から十三夜坂を下っていく平野までの道のりも中高野街道と呼ばれています。
(守口から平野までは時代によって「放出街道」と呼ばれた)
平野から大和川を高野大橋で渡ると屯倉神社・菅生神社など由緒ある神社が続き、南海電車高野線千代田駅手前で西高野街道と合流します。


なんと守口が基点でもあるんだって 
    知らんかった… 

「京街道から十三夜坂を下っていく道が中高野街道」

どこを十三夜坂と呼ぶんだろうと調べてみたら、
なんとおなじみキラクの昔の場所の前の坂、
現在キラクはその坂を上がったところに移転したのでした。



平安時代末期になって熊野詣がすたると共に高野詣でが京都の天皇公家を中心に盛んになり、この風習は後武士、庶民にまで広がった。
京都方面より大阪を通り高野山に行くには、淀川を舟で下って大阪で上陸、
その後四つのルートの高野道が伝わっている。
その内、四天王寺に参りそのまま南下する路、下高野街道と
南東の平野郷を通り南下する路、上高野街道の総称を、西、東高野街道に対して中高野街道と地元では呼ばれた。
しかし、一般にはこの上高野街道の路を中高野街道という。


ミラクルフルーツ★プルーン

2012-09-19 | 日々是好日


生のプルーン大好きです。
今回買ったプルーンにはプルーンの説明書きが付いてました。
何気なしにみてたら、こんなにプルーンには種類があったのか、
そしてカリウムの含有量が多いのが意外でした。



100gあたりの含有量、
たんぱく質0.9g・繊維質0.3g・鉄0.9mg・カルシウム0.4mg・カリウム175mg・ビタミンC 0.5mg・ビタミンA(βカロチン)45ug・ビタミンB1 0.02mg ・ビタミンB2 0.02mg・リンゴ酸0.87g

ドライフルーツの栄養成分表示は、100gあたり
エネルギー235kcal・たんぱく質2.5g・脂質0.2g・糖質55.2g・食物繊維7.2g・ナトリウム1mg・カリウム480mg・鉄1.0mg


<カリウム>は、体内の細胞に含まれ、細胞外液(細胞の外にある液体で血漿と間質液がおもです)に多いナトリウムとバランスをとって、細胞が正常に働くようにしています。
ナトリウムがふえると、カリウムがナトリウムの尿への排泄を促しています。
腎臓の機能の障害がなければ尿に排泄され、むくみの解消につながります。
カリウムの多い食品は、ジャガイモなどもイモ類、カボチャ、春菊、サヤインゲン、枝豆、大豆食品、アボガド、バナナ、柿、海藻類など。



カリウムが他のミネラルと連動して働き、いくら体にいいと言っても
またアホほど食べたら高カリウム血症というのもあるらしい。
何事もほどほどにね、と自分に言い聞かせてます(^^;)




プルーンはバラ科のスモモの一種で、和名はセイヨウスモモ。
スモモと一口に言っても大きく分けけてセイヨウスモモとニホンスモモの2種類があります。
日本では、カスピ海と黒海に挟まれた西アジアにあるコーカサス地方が原産と言われているセイヨウスモモはプルーン、
もう一つのニホンスモモはプラムと呼ばれています。

プルーンの歴史は2,000年ほど、4,000年の歴史を持つリンゴなどに比べてまだ歴史が浅い果物。
日本に入ってきたのは明治の初期で当初は梅雨がある日本の気候に合わず普及しなかったそうです。
品種改良などを重ね、雨の少ない長野県や北海道に定着しました。
ミネラルが豊富で貧血予防や疲労回復に効果があるため「ミラクルフルーツ」と呼ばれています。

美肌に効果
ビタミンEとビタミンAが豊富。ほかにもネオクロロゲン、ルチン、フラボノールなどの抗酸化物質が含まれています。
良質のタンパク質と一緒に取ると、抗酸化佐用を高めることができます。

便秘を改善
食物繊維が豊富、ペクチンのような水溶性の食物繊維が含まれています。
しかも、プルーンにはソルビトールが含まれ、緩下作用があります。

高脂血症を改
ペクチンはコレステロールから作られる胆汁酸の排泄を促進してコレステロールや中性脂肪を下げる作用があります。

貧血改善を作用
鉄分は果物の中でもトップ10にはいる程、鉄分豊富。
ビタミンCと一緒に取ると、鉄分の吸収がよい



寒さ暑さも彼岸まで?

2012-09-17 | おでかけ・近畿
昔は、9月15日が敬老の日だったけど、今年は17日が敬老の日。
国民の休日が連休にするため動くようになってから、あまり日にちを認識しなくなって久しい。

ちなみに週末土曜日22日が秋分の日。
この秋分の日も、ながらく23日だったのが、今年33年ぶりに動くといわれてもピンとこないかもしれない。

9月23日でなくなるのは昭和54年(1979) 9月24日以来33年ぶり、
9月22日になるのは明治29年(1896)以来116年ぶりの出来事だそうだ。


寒さ暑さも彼岸までといはよく言われますが、今日は4時現在で33℃
この暑さ、関東など水不足がかなり危険水域にきてるようですね。

今日訪れた、河内長野にある盛松寺のハスもぐったりしてました。




先日ブログで『よつのおだいっさん』をフィールド調査行くと予告しました
2012年9月5日クロモジ

これを見て下った親戚のおっちゃんから激励メールもらいました。

「お彼岸には盛松寺へお参りとか、幼年期毎月お参りに連れて行かれた所なのでなつかしく十年若くて事情が許せばご一緒したい所です
往時は千代田駅は無くて滝谷駅から歩いて行きました 
…中略…
私の当時の記憶では門長屋の位置に広い作業場が有り主に家具を造っておられた。昭和20年に私が堺中へ入った時に勉強机をお願いしオモヤからリヤカーを借りて歩いて取りに行きました」



行きたいと思ってた盛松寺を地図で見てると、高校時代からの友人が現在すぐ近所で暮らしてる場所だった。
そこで彼女に連絡を取り案内してもらうようお願いしました。
時間やりくりして暑い中おつきあいくださってありがとう。

今日は朝10時に守口を出発し、まず母を見舞った。

西高野街道が現在の310号線になるのでしょうか。
しかし310号線は混むので狭山池の東側を通る198号線を走ることにした。
おっちゃんがリヤカーでこの道を通ったかもしれないと思いをはせて。

村中をぬうように走る細い198号線は、車が行きかうスペースなくても両面通行。
路肩が用水路になって超恐ろしい道でしたが、古代からの道のように見えました。

千代田駅で友人をピックアップして、小高いところへ上っていきます。






樟が植わってましたが、これが四釣樟(よつるくすのき)ではなさそう。





本堂のひさし?に彫り込まれた龍が河童みたいに上にお皿をのせた感じ。
立派な彫り物でした。



面白いね~、右側のは口をあけて、左は閉じて「あうん」になってると
左を撮影したのが最初の画像。
ギラギラ太陽がまぶしくて、ちゃんと写りませんでした。



いろいろ聞きたいことあったけど、暑くて誰も居なくて実地検証終了!

友人おススメの「蕎麦博」さんで 天ざるとかやくごはん


蕎麦通がたくさん押しかけて超満員でした。
爪楊枝は、やっぱり黒文字でした(写真撮り忘れた)

リー・ミンウェイ展に友人の作品が

2012-09-16 | 日々是好日
★最近スマホからgooアプリを使って投稿すること増えてます。
今日ちょっと手順を間違えて、このエントリー記事を削除してしまった。
元に戻そうと努力しても、何度やってもサーバーエラー。
わたしの手にはおえないのがわかりましたので、あらためて再投稿します。
お寄せいただいたコメント、消えてしまい申し訳ありません m(- -)m

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NHK-Eテレビの美術展紹介を撮影しました。

リー・ミンウェイ展 澄・微
2012年8月28日(火)–10月21日(日)
資生堂ギャラリー
http://group.shiseido.co.jp/gallery/
開廊日時:火–日 11:00-19:00(ただし、日曜祝日は18時まで)

子ども時代から残る手作りの布製品を一般から集め、
思い出を綴ったテキストとともに収めた箱を来場者が自由に開いて鑑賞する「Fabric of Memory」を展示



友人のルーマニアレースの作品が展示されてて、TV画面に映りました。

彼女に手ほどきを受けたるルーマニアレースのコースター


コサージュのようにして15日のパーティにつけていきました。
今度はもう少し大きな作品にチャレンジしてみたいです。

アゴーラ・ホスピタリティ

2012-09-15 | 世情雑感




午後6時から瑞宝双光章を受けられた方の祝賀会がありました。
受付を手伝うため午後4時にスタンバイ。
終了後たくさんいただかれた花束の一つを頂戴しました。



京阪守口駅前にプリンスホテルができたのは1985年なので、もう30年近くなる。
その後、ホテルの名前はロイヤルパインズとか変わりましたが、
この夏にアゴーラになりました。
アゴーラになってはじめての利用です。

台湾だとか香港だとか、ウワサは飛び交ってましたが、
先ほど調べたら香港系でした。

「アゴーラ」とは、ポルトガル語の「今」、ギリシャ語の「人が集う場所」の意味らしい。

こちらのホテルのコンセプトは

お客様に“とびっきりの今”を提供し続けると共に、“人が集う場所”であり続けたいという願いを込めたホテル

しかし




オマール海老の黄金焼きオーロラソース
小エビが二つ入ってて、おぉま~るい小海老 だった。
こんなオマール海老初めて食しました。



まだまだ教育が行き届かないようで、サービスするスタッフは宴会場との仕切り戸を開けっ放しにしたまま。
閉めなさいと何人かが注意されてました。


ネット検索したら、
2012年8月リニューアルオープン!☆じゃらん限定プラン☆販売中
宿泊価格帯 3,001~4,000円(大人1人あたり)

めっちゃ 安い!!
ここはビジネスホテル以下だったのか?

アゴーラ・ホスピタリティは
2007/09 ホテルの再生コンサルティング・企画開発コンサルティングを主要業務として、浅生亜也により株式会社アゴーラ・ホスピタリティーズを起業。「野尻湖プリンスホテル」の再生業務を手がける。

2009/03 「奥志賀高原ホテル」の運営業務を受託

2012/07/24 ブリヂストン・リーガからリーガロイヤルホテル堺を譲受る

2012/08 ホテル・アゴーラ大阪守口及びアゴーラ・プレイス浅草を同時リニューアルオープン

なんか地方都市の小さなホテル、どんどん買収されてるんですね。

尖閣諸島だけではなかったんだ …。