秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

スムージーの効果

2013-05-30 | 日々是好日
ダイエットのためにスムージー飲まれてるYoshieさん
健康家族のために毎朝工夫したスムージー作られてるくるみのママさん
ご近所でもスムージー飲んでる方よくおられます。

私もバナナをスライスして凍らせたのを混ぜたりもしました。
しかし材料次第で味も違うし、いろいろ準備するのも結構面倒なもの。

ちなみに、スムージー(Smoothie)とは、
凍らせた果物又は野菜等を使ったシャーベット状の飲み物のこと。


先だって、ドラッグストアでスムージーの粉末を見つけました。

4袋入りトライアルセット980円を購入。
1杯あたり250円近くはちょっと割高だとは思えましたが…。

冷たい水、牛乳、そして炭酸水と3種類で割り試してみました。
牛乳割りは水割よりもドロドロ感がまします。
炭酸水で割ると、大塚製薬のファイブミニみたいな甘さでいけてます。
これなら続けれそう。

コラーゲンの効果はわからないけれど、食物繊維が多くてお通じにいいのは体感できました。


今日はイオンの20日30日5%OFFだったので、大袋1980円を買ってきました。
これなら付属のスプーンで、水100ml、200mlに対応した量が量れて自分流に調節できるから。

野菜とフルーツが34種類。
最近のフリーズドドライ製法はすごいし、大手の会社が工夫して作られたものだしね。
何の宣伝料ももらってないけど…



大阪質屋協同組合の総代会

2013-05-29 | シチの目


第63回の総代会に初めて出席しました。
昭和33年に、大阪で1786あった質屋は
今春261店までに激変しました。

この先の展望はいかに?

懇親会でたまたま隣合わせた、業界大手の長老は
生き残ったということを心にとめて
頑張るしかないやろ、今さらやめられへん。

なんともポジティブシンキングなせいかオーラたってた。
とても後期高齢者にはみえないダンディでした。
気おくれしてコッソリ撮影もできなかった。

巣作り、いろいろ

2013-05-28 | 世情雑感
まだ6月に入ってないのに、今日大阪は梅雨入りしたそうです。

ツバメはたぶん晩春の季語だと思いますが、
5月18日のウォーキングでは奈良の上つ道でツバメの巣を何度か見かけました。

初瀬街道を歩いている時に見かけたのが上の画像。
とあるお家の玄関先に、キラキラビニール紐の先に洗濯ばさみが多数ぶら下がってました。

ツバメに巣を作って欲しくないためかとお見受けしました。
確かに玄関先に糞いっぱい落とされるのもつらいかも。


わりなしや燕巣つくる塔の前  蕪村
というのもありますね。


去年暮れ、NHKの ダーウィンが来たという番組でミサゴの子育てを見ました。


2012年春、島根県松江市の鉄塔の上にミサゴのつがいが巣を作り始めた。
運よく、NHKロボットカメラ(災害などに備えて高所に取り付けられた無人カメラ)のまん前。
巣とカメラの距離2mで奇跡的なシチュエーションを活かし、NHK松江放送局がミサゴに完全密着。




「タカの仲間の鳥・ミサゴ。2012年の春。
巣作りからヒナの巣立ちまでをカメラで追い続けました。
卵からヒナが生まれ出る瞬間や、オスが捕まえてきた魚をメスがヒナたちに与える様子など、至近距離だからこそ撮影できたお宝映像が目白押し」

詳しくは→こちら


出雲ムラの十二柱神社

2013-05-26 | 古代史のミステリー
狛犬を4人の力士が支えているのが特徴だから必見ですよ~
とガイドさんから説明受けたので、聞いたら誰も見たくなる。
だからなかなか撮影するチャンスがやってこない。







桜井市出雲650
いまでも地名に出雲と残されていて、古代、この地に出雲人が暮らしたことから付いた地名です。




垂仁天皇の時代に、出雲の野見宿禰は、当麻蹴速と我が国初の天覧相撲を取り勝者に。
穴師の相撲神社とならぶ相撲発祥の地です。

野見宿禰は土師氏の祖でもあり、
出雲の国から工人を連れ埴輪を作らせたことがこの地の始まりです。
明治初期までこの出雲ムラは、ムラをあげて土人形「出雲人形」を作っていたそうです。




窯元10軒あったという残骸の一つでしょうか。






神様の数えるときの数詞は、柱なので
十二柱とは12の神様を祀ることからつけられた名前です。

よって祭神は
天神七代の神(国常立神、國狹槌神、豐斟渟神、泥土煮・沙土煮神、大戸之道・大苫辺神、伊弉諾・伊弉册神、面足・惶根神)
地神五代の神(天照大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、彦波瀲武葺不合尊)

古代は神殿が無く磐座を祀る出雲地域の産土神社
三輪山東方1700mの峰の上にあった「ダンノダイラ」
明治の初め頃まで、年に一度全村民が「ダンノダイラ」へ登って、出雲の先祖を祀り偲んだそうです。

他にも見所ありました。






武烈天皇社


武烈天皇の壇場(たかきみくら)を設けた泊瀬列城宮跡ともされていますが、創建は不詳。
第25代武烈天皇(489~507、在位:498~506)は、小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)尊ともよばれます。

祖父に当たる第21代雄略天皇は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)

泊瀬は初瀬、この辺りの地名で、大と小、ふ~ん、何かイワクありげ…。

古事記では在位8年で子を残さず程度のサラッとした記述らしい。
しかし、日本書紀では
「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」と暴虐の限りを尽くした非常に悪劣なる天皇として描かれています。
雄略天皇も大悪天皇であり、有徳天皇でもあったようです。

万葉集の最初の歌は雄略天皇で、
日本霊異記の冒頭にも雄略天皇が掲げられているらしい。

ヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的意義を持つ天皇として認識されてたのでしょうか。
その血縁が同じく長谷=初瀬=泊瀬の地に宮をおいた武烈天皇で終了したと。


次に継体天皇へと繋がるまでにいろいろあったんだなと
思いをはせながら十二柱神社をあとにして、最終地長谷寺へ向かいました。




ギズモ偵察にくる

2013-05-24 | ケータイ・スマホから

フラワープレゼント届きました(*^_^*)

何々? 早速、ギズモやってきた!


ダリア ダリーナマキシという名札ついてます。

ちょうど今さきほど、朝のワイドショーで
サラリーマン川柳の10位が
「何かをね 忘れたことは 覚えてる」

このダリーナマキシという名前もいつまで覚えていることやら。
この川柳とセットで記憶したことだけ、覚えていることでしょう。

仏教伝来の地・海柘榴市は椿市

2013-05-23 | 伊勢参宮本街道
5月18日は リコーCX4で撮影しました。
ランチの時に撮影モードダイヤルがうっかりずれてしまってたようで、
これからしばらくアスペクト比1:1が続きます。

最初の画像は、1:1の画像下部分をトリミングしました。
「仏教伝来の地」石碑を歩きながらの撮影で、下に大きくお顔が写ってたので。

大神神社から長谷寺までのウォークは12時半にスタートしました。

すぐ近くに三輪恵比須神社がありました。



三輪山の南側、山裾を縫うように大和川支流の初瀬川は南へ上り、大きく東に曲がる地点が海柘榴市です。

海石榴市 何と読むかわかります?

石榴は、“ざくろ”
海 の 石榴 って何?



万葉集 読人不知
三諸(みもろ)は人の守(も)る山 
本辺(もとべ)は馬酔木花開き 末辺(すえべ)は椿花開く 
 うらくはし山そ 泣く子守る山

三諸(神の山・三輪山か)は人が大切に守る山で、
馬酔木が麓の方に花を咲かせ、山の頂の方には椿が花を咲かせ、
まことに麗しい山である

古代から三輪付近には椿の木が多く生えていたようです。

清少納言 枕草子14段
椿市(つばいち)は、大和にあまたある中に、長谷寺に詣づる人の
 必ずそこに止まりければ、観音のご縁あるにやと、心ことなるなり
 

椿市という名は、当時の市は露天であったので、
木陰を確保するために椿の街路樹が植えられていたことに由来するらしい。 





「欽明天皇13年(552)冬10月、百済の聖明王、またの名は聖王、西部姫氏達率・怒悧斯致契(ぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る」
日本書紀は552年と伝えている。

しかし、学校で習った「仏教伝来ごさんぱい538年
これは帝説や元興寺縁起によるもので、仏教公伝を欽明天皇7年(538)

当時、欽明天皇の磯城島金刺宮は海柘榴市のすぐ近くにありました。

この地は、百済の使節が難波から大和川を船で遡行して上陸し、
我国に初めて釈迦仏と経典をもたらした仏教伝来の地です。


遣隋使の出立の場所でもありました。
607年に出立した小野妹子一団は、翌年4月裴世清を団長とする12人の使節団を伴って筑紫に帰着。
ようやく8月になって飾り馬75頭を仕立てて海柘榴市に迎えた。
河川敷にコンクリートの馬の置物が多数並んで置かれていて、
なんでかなと話しながら歩いてましたが、これに由来してたのでした。


↓ 画像もらってきました
 

海柘榴市は椿市で、つばいちと読むのはわかったけれど、
なんで、海の石榴になるのか…
検索に検索をかさね、やっと見つけました!

「椿」は『万葉集』に初めて用いられた表記で、
春に花を咲かせる木の意によって用いられた国訓で知られる。
中国の「椿」とは全く関係なく、我が国で発想され作られた国字であるとも言われている。
「海石榴」は我が国のツバキが中国に渡り、
中国では渡来品に海の字をつける慣習があるので
ツバキにも海をつけ、石榴に似た木という意によってこの名に。
これが逆に我が国にもたらされたものであると言われる。

箸墓古墳、そして三輪へ

2013-05-22 | 伊勢参宮本街道
オクラホマの竜巻、すさまじい壊滅的な被害でほんとお気の毒です。
あっという間に巨大な竜巻にのみこまれるのは津波と同じですね。

ノーテンキに伊勢ウォークのレポート書くのもちょと気がひけますが…。


5回目はまた少し参加者減って155名だそうです。
歩くのが目的だし、周りに大勢の人が歩いておられます。
なかなかばっちりのシャッターチャンスには恵まれません。
待ってたら皆に置いて行かれます。


今まで箸墓古墳のことを紹介したことありませんでした。
マスコミが卑弥呼の墓だと決め付けんばかりにいうけど、
卑弥呼は九州だと、ひそかに思っているのです。

そして、いつも三輪明神はお参りする時は車です。
ちょうど道がカーブを描き、さらに線路を高架でまたぎます。
運転しながら箸墓古墳をじっくり見がたい場所にあるのです。
今回はその際を歩いてきましたので、間近で撮影できたので記録に残しておきます。


天理の黒塚古墳からスタートし、田園風景の中を歩きました。

やはり野におけれんげそう、ですね。

池の中央、赤い部分は金魚の群れです。




さすが奈良、鳥居があちこちで見られ、参道を道が横切っているところもありました。


40分ほど歩いて、いよいよ陸橋を渡れば箸墓古墳です。



ちょうど立て札の前に次々立つ人あらわれ、ばっちしのシャッターチャンスはなかった。



ここから30分ほど歩いて、大神神社に到着!



虎渓三笑 

2013-05-20 | 世情雑感
昨日、ボストン美術館展で見た作品の中で、印象に残ったもの
というか、見ただけでつられて笑ってしまったものがあります。


虎渓三笑図屏風 こけいさんしょうずびょうぶ
曽我蕭白筆


2曲1隻 紙本墨画 / 縦150.3 横175.4
江戸時代・18世紀後半

廬山に隠棲した東晋の僧慧遠のもとを訪れた陶淵明と陸修静。
話に夢中になった慧遠が、俗世に通ずるとして渡らぬと決めた橋を越えたことに気付いて3人で大笑した場面が描かれる。
蕭白にはめずらしく穏やかな画風がうかがえる楽しげな作品。




虎渓三笑 
意気投合して談笑するのを楽しむことわざです。

話が佳境に入り夢中で話し込んでいると、
思わず時の経つのも忘れ、自分たちのいる場所もわからなくなってしまうことがありますよね。

出典は「盧山記」
儒、仏、道の三賢者が一同に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、すっかり夢中になってしまったという故事です。

中国での浄土教の開祖である慧遠法師は来客を送る際、精舎の下の虎渓という谷川のところで足をとめ、そこを渡ることをしない戒律を守っていました。
ところが詩人の陶淵明と動家の大家である陸修静が来訪して、
三者でそれぞれの専門分野について話し合ったとき、さすがに興が乗じて、
慧遠法師は思わず「安呉禁足の掟」に従わず、虎渓を越えてしまい、虎のほえる声を開いて、初めてそれに気づいて、三人とも大笑い!
この三人の談笑して歩く姿と谷川の水の流れは、古い中国の掛け軸の画題として大変よく使われています。



ところで、右下に蕭白の落款の字が見えるでしょうか。
他の蕭白の作品も絵は迫力あるのに、字はへたくそだなぁ~と思ってみてました。


調べてみると、こんなことがわかりました。

曾我蕭白は18世紀の京都の画家。
この頃の京都の画壇には、蕭白のほかに、応挙、若冲、蕪村、大雅などもいた。

応挙や蕪村は「知識人」、若冲は「ブルジョア」だったけれども、
蕭白はそんなに育ちが良かったわけではないらしい。
出自には相当なコンプレックスがあったらしく
落款に、明王朝太祖の子孫だとか藤原鎌足の子孫だとか出鱈目を平気で書いたとか。

ボストン美術展、迫力ありました!(◎_◎;)

2013-05-19 | ケータイ・スマホから


珍しく自腹で正規料金\1500支払って見てきました。

朝10:30天王寺待ち合わせがグットタイムだったようで
全く並ばずに入館できましたが、なかは満員でした。

ボストン美術館日本美術の至宝 
大阪市立美術館 6月16日(日)まで

ポスターやチケット、入口エントランスにある曽我蕭白の「雲龍図」はもちろん迫力ありました。
長谷川等伯の「龍虎図」もよかったです。

吉備大臣入唐絵巻のストリーもこんな面白かったのかと興味深く見ました。


どれもこれもほとんどが、元は日本のどこにあったのかは明記されてませんでした。
明治維新の神仏習合廃止や廃仏毀釈で多くの仏像や画が太平洋を渡りました。
大仙古墳から出土した、古代のガラスコップもボストンにあると聞いてます。
これは今回の展示にはありませんでしたが。

略奪ではないにしても、おそらく二束三文で国宝のような数々が日本を離れました。

文明開化という名目のもと、日本の精神と文化が解体していったのか…
と思うと、なんか、悲しくなります。



帰路、例のベルリンの壁を案内。


laぐうというレストランでランチして、
阿倍野再開発ぶりをざっと見学するも
ひたすらおしゃべりに没頭してました。

年を重ねて、ほんま欲しいもんなくなるなぁ~って。


★「吉備大臣入唐絵巻」が海外に渡った経緯 Wikiページより

大正12年(1923年)酒井家の遺産分与のため東京美術倶楽部の売立に出され、大阪の古美術商18万8900円で落札。
直ぐに再び売りに出そうとしたが、関東大震災による不景気で買い手がつかず、古美術を広く海外に売っていた山中商会に斡旋を依頼する。
昭和7年(1932年)ボストン美術館東洋部長を務める富田幸次郎が来日して購入、ボストン美術館に所蔵されるに至った。
『吉備大臣入唐絵巻』の海外流出は、日本国民の憤激を買い、富田は「国賊」呼ばわりされた。
しかし、富田は正規の商取引を行ったに過ぎず、富田自身はこれに憤慨している。
問題だったは、国宝クラスの美術品の海外流出を食い止める事が出来なかった法整備の不備で、流出の翌年4月1日「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が作られ、美術品の国外流出を防ぐ処置が取られるようになった。


伊勢までの道、五回め

2013-05-18 | ケータイ・スマホから


ここまですでに一万 歩

先月の終点だった天理の黒塚古墳から、箸墓古墳を通り、大神神社まで。
参拝を済ませてから駐車場にてお弁当でした。
バスは大神神社駐車場まで回送されてて、お弁当を持って歩かずにすみました。



今回は155名の参加でした。
12時20分出発が3名揃わず10分遅れでスタート。



2時半ごろ今回の終点長谷寺に到着しましたが、その20分ほど手前の地点
十二柱神社については、また後日詳しくレポートします。

靴下の選択失敗で、靴の中で滑りやすかったため足に負担かかりました。
そのため1時間半ほどの自由時間ありますが、長谷寺参拝はやめました。

長谷寺まで駐車場から片道25分の距離で、さらに境内も広いのです。
もうとても歩けない。


ゆっくりわらび餅を頂いて休憩しました。

今回の歩行距離、梅田バス乗り場から
23,426歩 15,461km

歴史はつながる、ひびきあう

2013-05-14 | 日々是好日
5月9日の記事「法然上人二十五霊場」の続きです。
調べたことを忘れないうちにレポートしておきます。

学校で習う日本史では、先生はちゃんと説明されてたのかもしれない。
が惜しいことに、そうした言葉や内容は頭の上を飛び越えて
ただただ、断片的に固有名詞程度しか記憶にない。

それがひょんなことで繋がったという話です。




「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ … 」
NHK大河ドラマ「平清盛」のオープニング曲でも使われてました。

平安時代末期、京都の庶民を中心に流行した「今様」という歌謡を集めた『梁塵秘抄
後白河法皇が当時巷で歌われていた雑芸の歌を集めて編集したものです。



あの大河ドラマでは後白河法皇を松田翔太さんが演じていました。
去年TVではチラチラとしか視聴しなかったので、どのように描かれていたかよく知りません。

ネット検索によれば、後白河法皇は
南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、
仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。
和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。

天台教学に関心が深かったので、日吉や熊野にまつわる今様を多く撰歌しているが、
法華経もの、大日如来を謳った真言もの、浄土ものも少なくないそうです。


そのなかに、聖(ひじり)のこと歌ったものがあるようです。

聖の住所(すみか)は何処(どこ)何処ぞ、
箕面勝尾(かちう)よ、播磨なる書写(そさ)の山、
出雲の鰐渕(わにぶち)や日の御崎、南は熊野の那智とかや


聖(ひじり)とは、Wikiページでは

日本では諸国を回遊した仏教僧のこと。

元来「日知り」を意味し、太陽の司祭者・呪術者を指したとされる。
仏教伝来後は聖の字があてられ、学徳の高い僧を聖と呼ぶようになった。

平安時代中期に至り末法思想が広まると、それに伴って浄土教信仰を庶民に普及する僧たちが現れた。
彼らは念仏聖と呼ばれ、寺院に定住せず深山の草庵に住んだり遍歴しながら修行する半僧半俗の存在だった。
平安中期の有名な聖に「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた空也がいる。

聖は、寺院において、学徒(学僧)に相対し、寺院経済を支える禅徒の立場にあった。
聖たちは、寺院から離れて別所と呼ばれる場所に集住し、活動の拠点としていた。
名高い別所の一つが高野山にある高野別所であり、ここに住む念仏聖を高野聖と呼んだ。

平安後期の源空も延暦寺黒谷別所の念仏聖であり、その弟子の親鸞と併せて、聖人(しょうにん)と呼ばれた。
鎌倉時代中期の一遍は諸国を遊行しながら念仏を広め、「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた。


特に念仏行者には「聖」となるものが多かった。
諸国を遊行する念仏僧たちが、しばしば足を留めて滞在する諸国の寺の中に、
箕面の勝尾寺と瀧安寺(当時は箕面寺と呼ばれた)があると、先の『梁塵秘抄』で歌われているのです。



浄土思想の系譜
・証如(~866)が初めて浄土信仰を唱える
・空也(903~972)が民間に浄土信仰を広める
・源信(942~1017)が往生要集を著す
・良忍(1073~1132)が融通念仏を唱える
・法然(1133~1212)が浄土宗を開く
・親鸞(1173~1262)が浄土真宗を開く
・一遍(1239~1289)が時宗を開く



初めて浄土信仰を唱える証如さんって全く存じませんでした。
勝尾寺第四代座主です。
証如が念仏信仰を初めて確立したゆかりにより
勝尾寺が念仏行者の聖たちの集う山として早くから知られていたのです。

法然は、43才の時浄土宗を開創し、この教えは忽ち庶民に浸透するも既存の諸宗派から圧迫を受ける。
建永元年(1206)、興福寺の訴えにより専修念仏停止が宣下され、
彼が75才の時、女官たちを出家させたことが後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、
4人の弟子は死罪、彼も土佐(実際は讃岐)に流罪に。
9ヶ月後には赦免になるも京都に入ることは許されず、勝尾寺の二階堂に3年10ヶ月間逗留した。



空也像は京都の六波羅蜜寺で見ました。

良忍さんは、実家の宗教である融通念仏宗の開祖です。
どちらも法然さんより先の時代、平安時代半ばだったのですね。
GW に万部ひねりという行事で、
♪融通念仏なんまいだぁ~♪と鉦を叩きながら唱えているのを見ました。


法然上人が滞在された二階堂はじめ勝尾寺は、源平合戦で源氏方に燃やされます。
やがて鎌倉幕府の源頼朝は、熊谷直美に命じ勝尾寺を復興させます。

その熊谷直美は、その後法然さんのもとで出家します。
京都は岡崎にある、くろ谷金戒光明寺には、熊谷直美鎧かけの松がありました。


くろ谷金戒光明寺は、浄土宗の総本山です。
去年秋、何も知らずに訪れたくろたにさんは、
幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなりました。
そのゆかりで、会津藩士のお墓があったのですね。
今年の大河ドラマ八重の桜の舞台にもなります。


だんじり祭り 

2013-05-12 | 日々是好日


今日は五月晴れ、晴天にめぐまれ、かなり日焼けしました。 
出雲大社60年ぶり遷宮にお出かけ予定だったのに、
ツアー成立せず守口にいました (-"-)



開会宣言の大阪締めのあとクラッカー、シャッターチャンス微妙にずれた。



今年はいろんな事情で参加地車数は8台でした。
あるだんじりの披露のとき、
上に載った3人のうちお一人の姿突然見えなくなったが、大事には至りませんでした。

今日初めて気づいたけれど、大枝神社の提灯の後ろ側とか
地車隊員の白のTシャツにバックプリントがあり花の絵がある。
これは何と尋ねたら、橘と教えてもらいました。
知らんかった…

今年は大枝神社が一番最後のお披露目。





一通りのお披露目が終わったら、
寺方の提灯踊り、河内音頭の提灯を持ったバージョンみたいな感じ。
守口の無形民俗文化財第1号、踊り子さんもかなり年季はいってます。


天乃神社の太鼓、勇壮でした。


寺方のうぶすな神社も天の神社も天神さんなので、どちらも梅紋です。


最後に、龍踊り。
踊りこさんはギャルがほとんどなのに驚きました。



神社に帰って宴会。
体重見事に増えてました(-"-;A ...