秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

えべっさんは耳が遠いらしい

2013-01-31 | 古代史のミステリー
津嶋女大神に逢いに行った日、佐太神社にも参詣しました。
境内摂社の戎社で、裏に廻ってもお参り下さいという案内がありました。
今宮戎では裏に廻りドラを叩きますが、こちらは木槌が設置されてました。

佐太神社について書く前に、津嶋部神社からレポートしておきます。
先の記事で金龍寺さんの津嶋女大神(つしまめのおおかみ)について書きました。
金龍寺さんは今なお残る神宮寺の一つで、津嶋部神社に隣接しています。



津嶋部(つしまべ)神社
大阪府守口市金田町6-15-6
御祭神 津嶋女大神 素盞鳴尊 菅原道真公

立派な大木もありましたが、見事に刈り込まれスカスカ。


市街地で電線とかの邪魔になったり、落ち葉の始末も大変なんでしょうけど…。




鳩が水浴びするから柵がもうけられた手水舎。
こちらの宮司さんはものすんごくキレイ好きでらっしゃるのでしょう。
しかし、鬱蒼とした鎮守の森が大好きな神社フリークとしては
なんだかなぁ~


金龍寺さんのマダムの散歩コースでもある、佐太神社へ案内してもらいました。
国道1号線は中央環状線の大日から府道京都守口線と名づけられています。
R1は突然北上し、淀川すぐそばのバイバスに。

大日イオンから京都へ繋がる13号線の、守口と寝屋川の境界あたりを渡ります。
淀川の佐太の渡しを目指して歩くと、



佐太神社南側の門です。

やはり一の鳥居から入ろうということになり、
国道1号線バイパスに面して「一の鳥居」


淀川に船着場佐太の渡しがあり、年貢米の積み出し場だったらしい。
そこからまっすぐに参道が伸びていたのでしょう。

佐太(さた)神社 別称:佐太天神宮
守口市佐太中町7-16-25
本社には、菅原道真公が祀られています。
道真が左遷で太宰府へ流される途中、荘園であった当地に滞在され自作の木像や自画像を残されたと伝えられます。


今年の巳さんの絵馬が掲げられています。
もちろん毎年干支によって変わるわけで、裏に廻ると


なんと、守口保護司会の大先輩のお名前が。
すでに75歳定年により引退されてますが、お元気でこうして絵馬を毎年奉納されてらしたのですね。

境内は広く池もありましたし、蕪村の句碑もありました。


窓の灯の 佐太は未だ寝ぬ 時雨かな

丹波から故郷毛馬に帰る途次、時雨降る淀川の夜舟から見た佐太の灯りを見て詠まれた句だそうです。


そして、戎社に話は戻ります。

本社   菅原道真公
戎社   戎大神、告文天満宮、火乃迦具土神
白太夫社 白太夫之命
稲荷社  宇迦之御魂大神
愛宕社  火産霊神



今宮戎の本殿裏でドラを叩くのは、船場とかミナミの中心地から今宮戎にお参りすると神社裏に着く。
そのため最初に「お参りきましたで~」って挨拶がてらに叩くんだと。

それが佐太神社の佐太戎でも同じく裏に廻り、木槌で叩く。
耳が遠いというのには、なにかワケがあるに違いないと思われました。

えびすで調べていくと、10月の神無月に出雲に神々が参集されますが、
その時地元の留守を預かる神様にえびすさまが多いらしい。
他には大黒さんやら、金比羅さんやら、荒神さんなど。
庶民がさんづけで親しみをこめてお呼びする神々が地元で留守神としてお役目はたされるんですね。

出雲に行かないのは、足が悪いとか、耳が遠いとか、口がきけないとか、蛇神だとか、なんかいわれがあるようで。
そしてそうした神々は各屋敷の高いところではなくて、
台所など低いところ、暗いところで身近な場所に祀られてます。


出雲に赴かない「留守神」とされた
えびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)や
かまど神を祀り1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する。

これがえびす祭やえべっさんとなり、えびす講として発展し市となる。
えべっさんが不具であったということは、
佐太神社の戎社祭神に「火乃迦具土神」とあることからも伺えます。
なんか日本の歴史には深~いワケアリそうで…。
これ以上深入りすると手に負えないので、ここで突然終わりにします。


以前庚申の日に寝ずに起きていなくてはならない庚申待ちのことを書きました。
「光秀は、酒の席で信長から諸将の前で激しい侮辱を受けたために、光秀の心に謀反の渦が巻き始めたと言われている。
酒の席というのはこの庚申待の席だったようだ。」
詳しくお知りになりたい方は
お猿加持とこんにゃく 2012年4月29日

日本の風習ってこの100年でうんと変わってしまったのですね。

津嶋女大神の懸仏@金龍寺

2013-01-29 | 古代史のミステリー


2年前にネット検索してて、金龍寺さんに津嶋女大神の御霊代が祀られていることを知りました。
金龍寺の奥様とは親しくさせていただいてるので、拝ませてくださいとお願いしてました。
なかなか伺うチャンスなく、あっという間に2年近くの年月が過ぎていた。

今年になって守口の神社を全部挨拶廻ろうと決めて、
残すところ、佐太天神社と津嶋部神社の2社となりました。
昨日の日曜日に唐突にそのチャンスがめぐってきたのでした。



金龍寺(曹洞宗)さんは、津嶋部神社に隣接していて
今なお唯一残る津嶋部神社のかつての神宮寺の一つです。


中央のお地蔵さんの周りに壊れた石仏がいっぱいの祠もあります。
お寺近辺にころがっていたのを拾い集め祀られてるとお聞きしました。


お庭にはおもしろい鬼瓦もありました。
えべっさんです。
木の向こうは大黒さんでした。
あとで撮影するつもりが長々おしゃべりして暗くなってしまった。


本堂の奥に案内してもらい、津嶋女大神にご対面。

奥様は鍋の蓋みたいとおっしゃってましたが、
確かに裏側に鍋の蓋の取っ手のように四角い棒木が横に打ちつけられています。

どうやら、こういうのを懸仏(かけぼとけ)というらしい。

円形の木版に銅の押出仏が貼られてます。
中央の団扇と念珠を持つ女神像は弁財天とされています。
この弁財天は津嶋女大神であり、
玄界灘の沖の島に鎮座する女神、瀬戸内海の船舶を守る厳島の女神、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)ともされました。

手にとってはいませんが、裏側には墨書があるようです。
「奉納大宮御神前、寛徳2年(1045)乙酉2月吉日、三井村中」

お話では寝屋川の「ともろぎ」からココに流れ着いたという伝承があるとか。

寝屋川市には、ともろぎ神社は二つあり、友呂岐と鞆呂岐、漢字も異なります。
香里本通町にある友呂岐神社(ともろぎじんじゃ)のお弓神事は美井(三井)に残る伝統行事と書かれてました。
ということは友呂岐神社から流れてきたのでしょうか。

金龍寺さんの母屋の北と南では土壌が違うらしい。
北側は砂地で南側は泥というか堅いそうだ。

かって淀川は現在よりやや南を流れ、その中洲のような所が津島と呼ばれた。
船着場であったことから津島江といわれ、神社と同名を憚って同音の対馬江に変えたといわれている。

津嶋部神社は、津島朝臣・津島直の一族が祖神を奉斎して創祀したといわれています。
津嶋氏は対馬を根拠地としながら、大阪湾に通じる河内湖の北の出口付近に居留地を設けたのでしょう。
5世紀には、その居留地に対馬を通じて多くの渡来民が訪れ、草香江の農地整備事業や茨田堤(まんだのつつみ)の建設事業に携わったようです。

神宮寺として金龍寺、豊蔵寺、大竜寺あったのが、現在金龍寺さんだけが残っています。

金のなる木もらった(*^^)v

2013-01-27 | 日々是好日
もうすぐ花の咲きそうな蕾いっぱいの立派な金のなる木。
金龍寺さんの母屋の玄関先で見ました。
すご~いと感心したら、この木の鉢分けしたものをもらいました。

すでにかなり大きくて蕾もあって楽しみです→


金のなる木は今までに2回枯らしてます。
どうやら水のやりすぎで根腐れさせてしまったようです。
今度こそお金に縁がでますように、
心はかけてもあんまりお水やらんと捨て育てしてみます。

なんで金のなる木 というんだろうと調べてみました。



本来はカゲツ(花月)という名前
新芽に五円玉を入れて茎の間に5円玉を挟むと木にお金がなってるように見える
品種にもよるが5年以上経って大きくなると花が咲く




お抹茶と若草という春らしい名前のお菓子もいただいて、
さらにうれしいことに、津嶋女大神の御霊代(みたましろ)にお目にかかれました。
2年前からお願いしてて、やっとその日がめぐってきました。

若狭姫神社の千年杉

2013-01-27 | 旅・関東&中部&北陸地方
若狭の国一の宮・上社である若狭彦神社から遠敷川沿いに1kmほど下ると下社の若狭姫神社がありました。
こちらの方が町の賑わいがありますが、とても気持ちのいい神社でした。
両社ともに静謐でした。
古代や中世には日本海に開けた表玄関であった小浜も、近代ではつい最近まではちょっと不便。
それが幸いして、俗されていない清らかな空間を現代にそのまま残すことができたのでしょう。

若狭姫神社は、元正天皇養老5年(721)2月10日、上社より分祀し若狭姫大神(豊玉姫命)とされました。
現在、神事もほとんどは下社で行われていますが、室町以前の祭祀の中心は上社でした。

それでは上社の記事同様、バーチャルお参りしていだきましょう。


道路に沿って小川の清い流れがあり小さな橋を渡って境内に入ります。



すぐ左手に上社と白石神社の遥拝所があります。



両社共に、本殿・神門・随神門の3つが一直線に配置されています。
上社祭神の若狭彦大神同様、降臨の姿は唐人のいでたちで、
白馬に乗り、白雲に居て、白石の上への垂迹であったと伝わる。
随身門には、それを象徴するがごとく眷属が八人づつ所狭しとつ詰め込まれていました。
あとで知った情報なので画像残してません、残念。






本殿を囲む瑞垣(透塀)内には千年杉で有名な神樹がそびえます。
垣の左前に、千年杉を見上げる場所があります。
上を見上げて、健康長寿・子孫繁栄を祈ります。

境内左手にイチョウ大木があり乳が垂れたようになっていて乳神様というそうだ。
乳の木と、横に建つ乳神様の社の画像もありません。

さらに子種石と呼ばれる陰陽石、社殿を左側に曲がると御神井がありました。




神紋は「宝珠に波」



姫神社の祭神トヨタマヒメの妹タマヨリヒメを祀る中宮神社の由緒書き
海(わた)の神の娘であるトヨタマヒメ、その妹であるタマヨリヒメ。
タマヨリヒメは「乳母・安産の女神」です。
ゆわたおび=斎海帯の意から安産祈念の岩田帯になったと。
海(わた)はまた海(うみ)とよみ、産(うみ)に通じる、
なるほど~

帰るとき、境内入口の鳥居は左手に「見返り鳥居」の説明版


参拝を終え帰路につく時に、ここで振り返りこの千年杉に別れを告げます。





若狭姫神社で調べていて、神奈備サイト
で興味深いこと記載されてましたので、そのまま引用させてもらいます。

両神は小浜市下根来(ねごり)の白石の里に降臨したと伝わり、白石神社が鎮座している。
降臨地より少し下った清流の屈曲する深淵を鵜ノ瀬といい、東大寺二月堂の若狭井の水源とされるお水送り神事が行われている。
謂われは、二月堂の修二会では神名帳を読んで諸神を勧請したが、当社の遠敷明神は漁を行っており、これに忙しく、はせ参じるのが遅れたと云う。
遠敷明神はお詫びとして、二月堂十一面観音にお供の閼伽水を送ると約束したと云う。

神々の参集での遅刻の話は、和歌山の日高の笑い祀りで有名な川辺町江川の丹生神社にも伝わっている。
丹生津比女命が出雲へ旅立つ朝、寝すごしてしまい、あわてふためいて着物を木にひっかけて破り、土産を持って行くのを忘れたので、村人たちは大笑いしたという。
他愛もない昔話だが、「ニュウ」の共通があり、面白い。
東大寺の大仏建立には金が必要で、それを得る為には水銀に金を溶解して大仏に塗布し、熱で水銀を蒸発して金メッキを施すのであるが、その水銀が当地でとれたのかもしれない。
小浜でなかっての若狭国には丹生郡があり、その一宮として遠敷明神と称えられたのかもしれない。

白雲は白雲別神を思わせ、これは吉野首の祖で、井光神の父神の名であり、神武天皇説話の井氷鹿との関連も水銀の丹生を強く思わせる。
丹生都比売神の流れも、江南からなのか、また半島からなのか、議論のある所ではあるが、小浜の秦氏や丹生氏の存在は、当神社とは無関係ではなさそうである。
当社の社家は笠氏で、祖神は吉備津彦系統の鴨別命とされ、こんな所にも吉備国の影響が見られるのも興味深い。

フォトスクール

2013-01-26 | 日々是好日


花火の撮影の仕方を教わって、それをスマホで記録しました。



動きのあるもの、花火の軌跡などシャッター速度を遅くすることで撮影できます。



これは動くジャズ奏者たちの人形です。
コントラバスを弾く手が動いているのが微妙にわかるでしょうか。

同じ角度から、ボケ・コントロールで撮影すると


強調したいところに焦点を合わせ、それ以外はボケて写ります。
焦点の合わせ方がイマイチだと ↓




デジカメ本体で画像処理する仕方も教わりました。



わずか10名の内2名欠席でわずか8人の受講者に3名のスタッフがおられて親切丁寧。
しかし、今日教わったことを完全マスターは程遠い。
ほんの一部でも使いこなせたらいいな。

10-12時のフォトスクール終えて、
すぐ近くの船場自由軒で日替わりランチ食べて帰りました。



また近いうちにフォトスクール参加したいと思いました。
そして次の帰りには自由軒のインデアンカレーを食べよう・・・。

松葉かにフルコースと豊岡のこうのとり

2013-01-24 | おでかけ・近畿


香住には漁港が二つあるそうで、まず柴山港へ。
バスツアーご一行様のカニのお土産の買いっぷりはすさまじかった。
私は自分のおなかに入れて帰るので充分、見てただけ。

柴山のゴールドタグついた立派なカニとかを見せてもらってた。


かつては民宿経営だったしばやま荘の新しい別館「山水苑」


カニの足は縦に包丁が入れてあるので、それを取ってしゃぶしゃぶすると
カニのみがぱっと広がり、半生で美味しくいただけます。

カニ刺し、焼いたの蒸したの、そしてしゃぶしゃぶとカニ鍋。
甲羅焼きに天ぷら、おなかいっぱいになっても雑炊は別腹。
カニやフグは肉と違って、満腹なってもムネヤケしないのがいいですね。

やっぱり現地で食べるカニは一味違います。
香住は丹後半島の間人よりお安いけど味は上々。
大満足です。


帰路、豊岡のこうのとり公園へ寄りました。
三時半ごろになってたので、撒き餌の時間は終了してたので、
コウノトリも満腹な様子でまったりくつろいでた。

飛び立つ様を撮影できなかったので、珍しい郵便ポストをパチリ。



伊勢参宮本街道

2013-01-22 | 伊勢参宮本街道
サンケイ旅行社の「平成のお伊勢参りウォーキング」に参加して、
一番驚いたのは、皆さんとても健脚だったことです。

ネット検索で数年前の企画実施時に何台ものバス連ねてとあったので、
大勢参加されるだろうとは予測してました。
しかしあらためて今年第1回の参加人数が280名と聞くと、すごいの一言です。
それがまた 皆さん、歩くの早い!

途中で同行の友人がリタイアして、一人で黙々と歩いてはいたのですが、
小気味よいリズムで歩かれるある男性のペースを参考にしました。

集合して出発まで待っている時に、たまたま隣に居られた男性と諸々の情報交換してました。
Nさんは、なんと姫路の向こうから朝早く来られたそうです。
全部踏破するつもりですでに3回目まで申し込み入金済みだと話されてました。

この方の歩きっぷりが同じリズムですばらしい。
毎晩1時間ご近所ウォーキングで鍛えられてるようです。

そのNさんが目に留まったのでペース目標に歩きました。
昼食時の公園で写真撮られた中に写ってますと画像送信してくださいました。

このウォーキングツアーの申し込み時に、要不要を聞かれた冊子です。
1冊500円だったので申し込みました。

伊勢参宮本街道・行程図
 発行 玉造稲荷神社
 

昼食時の画像の一番右端のベンチに座られた男性、
この方は尼崎からの参加だそうです。
お一人参加の中高年おっちゃんが多かったのでした。

最初に購入できるこの行程図を入手するため参加されたそうです。
あとは自分の都合のいい日、体調や健康状態を考慮し一人で歩く予定だと。
今までにも、このようにして熊野古道や琵琶湖周遊を全部歩き通された話を伺いました。



これだけの地図があれば一人でも歩けるとは思うのですが、
暗峠は暗くて怖そうなので、みんなで渡れば怖くないと
2回目ウォーキングを申し込むことにしました。

第1回目は玉造稲荷神社で旅の安全を祈祷して出立し東大阪の松原宿まで。
すぐ近くの花園ラグビー場が解散地で12km歩きました。
2回目はバスで花園まで行き、そこから歩いて峠を越え奈良側生駒でバスに乗り帰着します。



そういえば、ブログを始めるきっかけになった 
草津の百姓さんは中山道を歩かれてましたわ。
退職後脳梗塞を発症されリハビリ中だと思います。
残念ながら今はブログ更新を中断されてます。

若狭の国 一の宮 上社

2013-01-21 | 古代史のミステリー
若狭一の宮は上社と下社の総称です
上社は、若狭彦神社、下社は、若狭姫神社と呼ばれます。

祭神は、彦神社は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと・山幸彦)
姫神社は豊玉姫命(とよたまひめみこと・乙姫)

今回のツアー参加者全員が初めての神社です。
それほど遠くはない大阪からでもこのデータ。
おそらく今後もめったに訪れることはなさそうなので
ネットでバーチャルお参りしていただきましょう。

*去年夏に舞鶴若狭道が小浜までつながったので行きやすくなりました。
現在、小浜-敦賀間は工事中で全線開通ももうすぐ。




まずは上社の若狭彦神社から
























本殿右手の若宮神社にはウガヤフキアエズが祀られていました。


神紋は「宝珠に波」
祭神の彦火火出見尊(山幸彦)が龍宮から帰るときに賜った潮を自在に操る玉



彦神社は和銅7年(714)遠敷郡下根来村白石に創られました。
東大寺の開祖である良弁僧正(ろうべん 689-773)の生誕地です。
霊亀元年(715)現在の地に遷社したとされています。

若狭彦大神は、白石の上に始めて垂迹し、その姿は唐人のようであったといわれる。
その白石の下にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、東大寺二月堂の閼加井に通じているのだとか。
現在、その地には白石神社が祀られています。


奈良時代以降、若狭湾に面し海の幸に恵まれた若狭一帯は、
天皇家の食料である 御贄(みにえ)を送る御食国(みけつくに)として重要な役割を果たしてきました。

平安時代に入ると海上交通の要地となり、
海を隔てて向き合う大陸や朝鮮半島をはじめ、日本各地から多くの文物が流入し小浜と京の都を結びました。

室町時代足利義満の時代には、象とダチョウがこの小浜から初めて日本上陸したとか。

出雲の国や越の国と繋がり、緒戦半島、さらにはインドの象までやってきた小浜。

良弁僧正は若狭神宮寺の資料によれば、
秦氏の出で、秦常満という長者の一子であったそう。
神童の呼び声が高かったため、神宮寺開祖の和赤麿が大和へ連れて行き、
当時第一の名僧であった法相宗の義淵僧正に預け弟子にしてもらったらしい。

先の御食国のところでも触れましたが、安曇氏と関係深いとか秦氏とか、ふ~ん…

若狭彦若狭姫はこの地の開拓の上として、
上社で火を、下社で水を司るのだそうで、両社参りでご利益あると。

なんでしかし、この若狭の地に
海幸彦山幸彦の神話に出てくる神様が祀られているのでしょう。

彦火々出見尊 ひこほほでみのみこと →以下ホホデミと略す
豊玉毘売命 とよたまひめのみこと→トヨタマヒメ
鵜葺草葺不合命 うがやふきあえずのみこと→ウガヤフキアエズ

火遠理命(山幸彦)ホホデミが、兄である火照命(海幸彦)ホデリの釣針をなくして海神宮を訪れた。
そこで結婚したのが、海神の娘であるトヨタマヒメ。
鯛の喉にかかっている釣針がやっと見つかったし、三年も過ぎてるし、
ホホデミは帰還することになり、塩満玉・塩乾玉という二つの玉を授けられた。
トヨタマヒメは天神の子を宿したことを知り、海辺の渚に鵜の羽を茅葺きの材料として産屋を作り出産する。
ホホデミは禁止されていたにもかかわらず産屋を覗き見ると、トヨタマヒメの姿は八尋和迩(鰐)となっていた。
姿を見られたことを恥じたヒメはウガヤフキアエズを出産後、海神の国との境界を閉じて海神宮へ帰ってしまった。

トヨタマヒメにに代わって、 その妹であるタマヨリヒメに育てられたウガヤフキアエズ。
後にタマヨリヒメと結ばれ、神武天皇の父となる。


御食国(みけつくに)小浜でのご馳走

2013-01-20 | 旅・関東&中部&北陸地方
想像以上に立派な昼食で皆さん大満足。

すぐ目の前にきれいな砂浜が広がり海水浴場のようでした。

大きな松の右手ガラスの建物が、昼食をいただいた「いたや」さんです。

海のものが新鮮で美味しかった。
焼き鯖のお寿司も名物で、いわゆる鯖街道に沿って、
今日お参りした若狭の国一の宮 
若狭彦神社(上社)・若狭姫神社(下社)がありました。




御食国とは、超簡単に言えば、天皇の食料を献上する国のこと。
万葉集にもでてきますし、
藤原京跡や平城京跡より出土した多量の木簡から、
若狭国・志摩国・淡路国などが御食国と推定されています。

以下のような特徴があるそうです。

これらの国が田畑の少なさにもかかわらず一国として成立していた
海産物が豊富にとれ、中央政府のあった畿内に地理的に近い
膳氏(高橋氏)や阿曇氏(安曇氏)との関わりが深い

かつて御食国だった地域では、「御食国」という言葉を一種のブランドとして観光振興に役立てています。

88観光の88ナンバー

2013-01-20 | ケータイ・スマホから


地域の公民館主催初詣日帰りバスツアーで、
若狭の国と敦賀の国の一の宮を参詣してきました。

集合場所でど派手なピンクのバス見てちょっとびっくりして、
ナンバープレート88とバス会社88観光でさらに驚いた。

2008年8月8日→こちら
出雲大社本殿もうすぐ中に入れます、と携帯からブログ投稿。

その同じ時間帯、同じく出雲大社の境内におられたいやさかの木さん。
ネット検索でブログたどり着いたときはへぇ~、でした。
神々が動いている→こちら

あれから88事象に取り込まれ…
すっかり神社フリークになってしまったのだった。




伊勢神宮まで170km、歩ける、かな?

2013-01-19 | 伊勢参宮本街道

大阪城公園南東角に、9時集合。
280名位の参加者だそうです。

玉造稲荷神社で祈祷うけてから出発、




一緒に参加した連れが一時間歩いてリタイヤ。
この辺りで半分、6kmは歩いた頃が一番しんどかった(ーー;)

あちこちの旧跡などで、皆さん撮影されます。
江戸時代、街道を通る大名の休憩場所として使われた旧家。


千円の会費で、予想以上のお弁当を
荒本西公園でいただき、12:45出発。



今日のゴールは花園ラグビー場。
また、来月続きを歩きます(^-^)/


八坂瓊(やさかに) & 八雲(やくも)

2013-01-17 | ケータイ・スマホから


単に歩くだけよりは、自分が暮らす町の全部の神社に挨拶まわろうと
元旦早々のナイスな思いつきは着実にこなしています。

残すはあと4社、ほぼ淀川沿いにあり我が家からは少し距離がある。

八雲神社…守口市八雲北町2-15-1
八坂瓊神社…守口市大庭町2-93
津島部神社…守口市金田(きんだ)町6-15-6
佐太神社…守口市佐太中町7-16-25

いかにもという名前のそうそうたる神社です。
名前からして前々から気になってたものの足を運ぶまでには至らず数年経過してました。


13(日)淀川堤ウォーキングで目指した神社は八雲神社と八坂瓊神社。
手っ取り早く行くなら堤防下の町中の道ですが
土曜夜TMさんのブログ見て、堤防を歩こうと思い立ちました。
土手の高くなった堤防からは景色がよく見えて気持ちよく歩けました。

江戸時代の古地図、7番の地に八坂瓊神社があります。
かつて大庭7番は、現在住所 大庭町2-93 になっています。

←クリックで拡大します

最初の画像、鳥居右下に大庭7番の石柱が立ってます。

2007年の暑かった夏のある日、
地域の有力者であられる木村さんに八雲地区を案内してもらいました。
途中でこの神社境内で休憩したことをありありと思い出します。
その木村隆義氏は来月叙勲の栄誉に輝かれお祝いの会を催されます。
出欠の返事出さないといけないのに、
大阪市内で夜の宴、なんとなく敷居が高く返事をためらっていました。



庭窪レストセンターから堤を降りて八坂瓊神社に到着。


奉賛会の皆さんが5,6人で掃除されてました。
宮司さんが在住の神社ではないので、たまたまこの13(日)午前中にとんど焼きが行なわれていたそうです。
ちょうどその集団の中に木村先生がおられ、ばったり遭遇。





本殿の扉が開いていて、こちら祭神のスサノオに招かれたかなと気分上々。
右手の神輿は1640年のものだとお聞きしました。

1615年(元和元年)大坂夏の陣の兵火に遭って焼失
1623年(元和9年)に藤原朝臣・赤楚藤兵衛が社殿を造営
1663年(寛文3年)銘の石燈篭と、1723年(享保8年)銘の鳥居


神社の由緒
「創立の年代は詳かせないが、畴昔より鎮座されていた京都祇園の八坂神社の御祭神を勧請したと伝えられている。
文化十四年(一八一七)九月二十日より、京都葉室殿の御祈願所となり、
毎年例祭には葉室殿より高張提灯御杖附二張、御膳一膳、青銅一貫匁を供進せられた。
中略
境内地は一、一二二平方米を有し、境内末社に稲荷神社、開墾神社を祀っている。
開墾神社は由緒書(社蔵文書)に「往昔より鎮座あり、河内国川流の後葭草の処、村人二十四名相互に土地を開墾し、五穀を蒔付くるに、繁茂成熟して種実を得るに至る。
彼此境界無く殆んど分界し難し依って磅爾を設け立て名を道祖神と仰ぎ奉祀す」

葉室殿って、だれ?
八坂瓊(やさかに)って、三種の神器の中で唯一皇居に実物がある八尺瓊勾玉と関係あるの?

興味はつきません。



八雲神社





元は、旧八番村・北十番村・下島村・南十番村の氏神さん。
祭神を牛頭天王(すさのおの尊)・八幡宮(応神天皇)・天満宮(菅原道真)の三神としていることから三社権現と呼ばれた


とうとうと流れる淀川、実は

2013-01-14 | 古代史のミステリー
1797年(寛政九年)の河繪圖の一部です。
江戸時代の淀川の鳥飼大橋あたりが描かれています。

淀川は大きな河川なので、なんとなくまっすぐ滔々と流れてるような気がしてた。

今まで何度も淀川河川敷でバーベキューしたり子供駅伝とかで利用しました。
その都度ある一部の河川敷利用で、堤防を長い距離歩いたことなかった。

ところが昨日歩いた豊里大橋と鳥飼大橋の間で、
カッキ~ンと90度近く曲がってるって、初めて気づいた。
知らんかったのは私だけか…。

この記事、カテゴリーは古代史ミステリーに入れました。
ミステリーではなくて事実なんでしょうが、
現代人は知らない人が多いかもしれないと思ってのことです。


古代の大阪平野は現在からは想像もつきません。
なんで大阪より内陸部の奈良に都ができたのか子供の頃より不思議だった。
この謎が古代の地形図を見て納得したので、
このブログでも何度かこうした地図はご紹介してきました。

そして今回はさらに淀川の流れがどのように変化したかを知り愕然。

大阪府の、治水の歩みというページより古地図もらってきました。
古代


江戸時代


現在



淀川と国道1号線と京阪鉄道は守口近辺では平行して走っています。
R1と京阪の中間に文禄堤があり、これは豊臣秀吉が整備した京街道です。
淀川の堤防だったといわれ、守口市役所すぐ近くには船着場が残っています。

土居にある守居神社は、淀川流域の守護神として土居を築き社殿を構えてお祀りされたのがはじまり。
1544年(天文13年)7月9日に前代未聞の大洪水があり、大門鳥居流失し社殿失損宝殿流損。
そして同じく京阪電車の土居駅の南側にある高瀬神社は
古くより交通の要所で淀川舟運の拠点として開けてきたと由緒に書かれてありました。

淀川はどのように流れていたんだろうとずっと気になってました。
国道1号線よりも現在、淀川に近い下島や八雲地区ってかつては川や中洲だったんだろうか?
しかし淀川左岸の八雲地区には縄文時代から近世にいたる大規模遺跡があり多数の遺物が出土している。
いったいどうなってるのか調べてみようと、
思い立ったが吉日。

江戸時代の地図の守口→七番、約2.5kmを歩いてきました。

ネット検索で、邪馬台国と大和朝廷を推理するというサイトがヒットしました。
「茨田の堤」というタイトルで章立てされてますので詳しくは→こちら
流離の神社、行基の堀川、仁徳朝の悲願

地形図から読み解く、水利事業から見えてくる歴史。
学校では教えてくれない大阪の歴史がよくわかりました。

   
クリックで拡大します。

仁徳天皇時代に河川の大々的な工事がなされ、
その形跡が「難波の堀江」や、「茨田の堤」など遺されています。
江戸時代に大和川の付け替え工事がなされ洪水がなくなったのは、河村瑞賢のおかげとか、
かすかに日本史で習ったような気がします。

この5年間、日本の古代史に興味をもつようになり、
四天王寺さん近くの谷町筋で凹んだ部分があるのは、
和気清麻呂が上町台地に掘り川を作ろうと掘削失敗した跡だと知り、へぇ~!!

和気清麻呂は淀川の流れを変えるためにもいろいろ工夫してたんですね。
実はその前に、行基が淀川の水利事業で努力したことを知りもっと驚きました。
行基の堀川」よりそのまま引用させてもらいます。

「守口市の北部では淀川が大きく湾曲し、淀川水運における難所として知られていました。
淀川流域では、冬はもちろんのこと年間を通じて西風の吹く日が多いような気がします。
淀川をさかのぼる船はこの風を利用しました。
ところが守口の湾曲部では西風が逆風になって、船の進行を妨げました。
特に冬は逆風がきつかったと思います。
そこで、湾曲部の横に、直線的なバイパス堀川を掘りました。
それが大庭の堀川です。
もし大庭の堀川が完成していれば、守口の難所は解消したはずでした。
残念ながら今、大庭に堀川が残っていません。
いかなる事情があったのかはわかりませんが、工事は完成しなかったと思われます。

吹田の堀川は、守口から都島区毛馬に至る川だと思います。
これは今の淀川にほぼ重なります。
ここでは堀川が淀川本流になってそのまま残ったのです。
次田は誤字でしょう。今の吹田市のこととされています。
この堀川によって、南の蒲生方面へ大きく蛇行していた淀川の流れを短く直線化することができました。
さらに、守口から蒲生に至る古い川を埋めれば、淀川と大和川を分離することになったはずです。
おそらく古い川は、この時埋められたのです。」




行基の堀川には三つの目的がありました。
一つは淀川と大和川を遠ざけることです。
二つ目は淀川の流れを直線的にして、すみやかに海に流すことでした。
さらに、水運の利便性を高めることも考えられていました。
行基のアイデアは、完全には実現しませんでした。
ようやく明治時代になって、オランダ人のヨハネス・デレーケ淀川放水路を作ったときに、そのアイデアが引き継がれ、ほぼ完全に実現しました。
ヨハネス・デレーケは行基のアイデアを全く知らなかったと思いますが、
淀川と人々のかかわりを理解したからこそ、同じ結論を得たのでしょう。」




堺市の百舌鳥八幡にある家原寺は行基(668~749)菩薩生誕の寺。
智恵の文殊さんを祀られてるので、受験の時はいつもお参りに行った懐かしいお寺です。

さすが知恵の文殊さん、行基さん、すごいわぁ


仁徳天皇(313-399)第16代天皇
行基(668~749)奈良時代の僧 溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所
和気清麻呂(733~799)奈良時代末期から平安時代初期の貴族