五月晴れリストラ転職窓の外

1999年05月31日 | 会社・仕事関係

まいっちゃいました。
嗤っちゃいます。
こんなもんです、おれの人生。

…………………………………………………………………………………………………………

5月の九想話
5/9  竹皮包み梅干
5/12 筍の皮おしゃぶり
5/12 まったく
5/16 神田祭
5/17 神田から浅草
5/18 デジカメ
5/19 ドナーカード
5/20 私を死なせて下さい
5/21 最後の演奏会
5/23 国際バラとガーデニングショー
5/31 五月晴れリストラ転職窓の外

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国際バラとガーデニングショー

1999年05月23日 | 出歩き

 今日、女房の友人夫婦と4人で、国際バラとガーデニングショーに行ってき
た。会場は、西武ドームです。
 すごい人でした。バラを見る環境ではなかった。
 最初は4人で意気込んで見て回った。でも、最後の頃、私は一人ビールを飲
み、観客席でドームを眺めていた。
 疲れたけど、それなりに気分転換はできました。

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最後の演奏会

1999年05月21日 | テレビ

 今夜9時半から、NHKの「ドキュメントにっぽん」を観た。
 西六郷少年少女合唱団を育てた鎌田典三郎という人と、合唱団にいた人たち
の交流を描いていた。
 眠いので細かいこと書けませんが、私は、いつものことですが泣いてしまい
ました。
 昔、私が小学生の頃、NHKのみんなの歌で流れていた「ぼくらの街は川っ
ぷち」という歌が好きだった。鎌田さんが亡くなり、合唱団が解散する。その
最後のコンサートのラストに、現役とOBが一緒になってそれを歌った。

 ♪ぼくらの街は川っぷち
  煙突だらけの街なんだ

 歌ってるOBは泣いてるし、私も涙があふれてとまらなかった。
 私の場合は、子どもの頃を想い出させてくれたので涙が出たんでしょう。
 鎌田典三郎という人は、素晴らしい人ですね。

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私を死なせて下さい

1999年05月20日 | テレビ

 今夜10時、NHKの教育TVのETV特集「私を死なせて下さい」を観た。
 原因不明の病気にかかり、全身不随になったMRという女性の2年間の記録
だった。
 子どもの頃から成績優秀で、何度か飛び級をして大学を出て、大学の講師を
していたが、24歳で病気になり7年間メルボルンの病院暮らしをしている。
 毎日痛みが襲い、身体はだるく15時間以上寝ないとだめだという。
 この女性は、安楽死を希望していたが、安楽死を認める法案が否決された。
 こういう人の、死にたい希望はかなえてもいいのではないか。
 この女性のベットの脇にパソコンがある(マックだった)。インターネット
は、彼女が自由に社会を行き来できる道具だ。入力は音声と、わずかに動かせ
る指でマウスを使っていた。
 最近は、許可をもらって大学の聴講生になっている。電動車椅子で大学に行
っている。今、その勉強をすることを、生きる目標にしているようだ。
 私は、誕生日の今日、酒を呑みながら「おれもがんばらなくちゃな」と思い
ながら一人で観ていた。酒を呑みながら何がんばるのか、いいかげんな男です。

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ドナーカード

1999年05月19日 | 健康・病気

 臓器提供意思表示カード、が目の前にある。
 こころは決まってるけど、いざ、サインをするとなると、けっこう重いもの
があります。
 3.私は、臓器を提供しません。
 という意思表示のしかたもあるのですが…。

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デジカメ

1999年05月18日 | Weblog

 デジカメのことよく分からないです。
 去年買って、酔っぱらって紛失したものは、キャノンのPowerShot350という
デジカメで35万画素でした。今度買ったのは、Kodak DC210AZoom というもの
です。CCD画素数は、109万画素です。
 秋葉原には、35万画素で2万円ぐらい(中古だったら1万円以下のがあった)
でありましたが、新しく買うのだから、少しいいものを買いたかった。しかし、
印刷しないで、通信で送ったり、パソコンで見るのならそれほど沢山の画素数
はいらないとなにかの本で読んでいたので、それほど多い画素数はいらないと
思っていた。でも、買えるものなら画素数の多いデジカメが欲しかった。
 150、200万画素のものがあったが、私の予算外の値段なのであきらめた。
 私の希望は、35万画素以上でズームができる。そして、電池はそのへんです
ぐ買えるもの(たとえば単3電池)を電源とするデジカメで、メモリーカード
は8MB。そしてこれが一番の望みですが、価格ができるだけ安いということで
す。いちおう私は、5万円以内と決めていた。
 女房に許可をもらい、銀行のカードを借りてきて、買うものを決めたときに
銀行でお金を出した。しかしなぜ、私の名義のカードなのに、女房に“借り”
なければならないのだ。このカード、いつも女房が持っているんです。
 話がそれましたが、デジカメのズームには2種類あるんですね。デジタルズ
ームと光学ズームです。デジタルズームは、撮ってから写真を大きくするんだ
そうです。光学ズームは、撮るときにカメラで、望遠か広角を選んで撮る。当
然、光学のほうが画質はいい。そんなこと知らなかったので、展示してあるカ
メラの説明カードに「ズーム」と書いてあるものを買おうと考えてたのですが、
そうある店の店員に聞いてからよく見ると、なるほど「デジタルズーム」とか
「光学ズーム」と書いてあった。デジタルズームのほうが安かった。最初の頃、
そっちのほうを買おうと思っていた。
 私のKodak DC210AZoom は、光学ズームです。価格は、パソコン接続キット
付きで、39,800円だった。これどこの店でも同じだった。家に帰って目の前の
ラオックスでも同じプライスがついていた。これに、ACアダプターをつけて、
消費税込みで45,000円ということで買った。ケースは、100円ショップで買った
ものです。
 これなかなか気に入ってます。電源は、息子たちが使わなくなったミニ四駆
のニッカドの充電器と電池を使っている。
 このカメラ、酔ってなくさないようにしなくっちゃ。

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神田から浅草

1999年05月17日 | 出歩き

 私が、昨日のMESをディスプレーに立ち上げて、読み直し、これから続き
を書こうとしていたら、フラメンコの練習から帰ってきた女房が、
「過去にこだわらない、というのはおかしい。私はこだわらないんじゃなくて、
過去を覚えてないの。正確に書いてよね」
 という。私の背中でなにしてるのかな、と思ってたら、しっかりディスプレ
ーを見ていた。
 そうなんだな。この人は、記憶力というものをまったく持ち合わせていない。
そのくせ、どうでもいいことを覚えている。
 まァ、そんなことはどうでもいいのですが…。
 神田明神の境内に入る。すごい人だ。
 それから境内の横に入り、出店を覗いて大通りに出た。さっきまでそこには
御輿がいたが、今は通行人しかいなかった。少し行くと、人だかりがあった。
その中心に、普段着で独楽を回してるおじさんがいた。そういうパフォーマン
スで飯を食ってる人かな、と思ったが、そうではないらしい。独楽を高く舞上
げてはそれを紐で受け、また放り投げる。はじめ、しけたじじいが目立ちたく
て神田祭の人出を狙ってやっているのかな、と考えてたが、なかなか高度なテ
クニックで、要所ようしょで、見物人が拍手喝采をする。そうすると、おじさ
んはなお一所懸命になる。私も子どもの頃、独楽を回し遊んだ。回した独楽を
掌に乗せることなんか朝飯前だった。しかし、あのおじさんの芸はすごかった。
 終わって、何人かがお捻りを投げたら、
「こんなものはいらないよ。受け付けるんだったら1万円以上だ」
 といって、ニコニコしていた。このおじさん、普段は何してんだろう。
 神田明神を後にして、私たち2人は坂を下った。その先には秋葉原があるは
ずだ。昔の記憶が蘇る。なにしろこの辺を、自転車で集金していた私なのだ。
女房はただ私の後をついてくるだけだ。7、8分歩くと、ラオックスのコンピ
ュータ館が見えた。4月30日、このあたりを私はデジカメ探してうろついて
いた。
 道路の真ん中を歩けるのはいい。女房と互いに写真を撮り合った。秋葉原の
電気街を御輿が通る。考えればここも神田なんだ。
 末広町から地下鉄に乗る。そして浅草へ。
 浅草。ああ…、松屋デパートで私は、鮭を1週間売っていたことがあります。
「いらっしゃい、いらっしゃい、紅鮭3切れで500円。奥さん奥さん、安い
よ、ご利用ご利用」なんて、だみ声張り上げていたっけ。あ、これはいつか
「転びすぎ」でくわしく書きます。
 雷門をくぐって、仲見世を行く。身体が常に他人の身体に接触しているとい
う窮屈な状態だ。激辛せんべい80円、上げ饅頭100円を買い、2人で分け
合って食べた。けちくさい夫婦です。高校1年生のとき、圭が狐のお面が欲し
い、といったときがあり、それを女房は浅草まで買いに来た。
「この店かな、こっちかな」
 と、過去を覚えることを拒否する女房が、一所懸命思い出の記憶をたどって
る。なぜか、息子のことになると生きる姿勢が180度変わる。
 浅草寺の本堂に上がる。人混みの中、10円玉を放り投げ、願い事を心でと
なえる。女房はいくら入れたのか、ちょっと見たら白いものを投げていた。
 本堂の隣に、比べるとずいぶん小さな浅草神社というのがあった。パンフレ
ットを読むと、ここが「三社様」らしい。昔、2人の漁師が観音様を拾って、
ここにつれてきた、とかなんとか書いてあった。この文章を書くにあたって参
考にしようと思い、女房に「あのパンフレット見せて」というと、「持ってる
わけないじゃない。昨日捨てちゃったわよ」と得意げにいう。訊く相手が悪か
った。
 本堂を抜けて行こうとしたら、本堂の人たちが、みな同じ方向を見ている。
へんだなと思ったら、今まさに、御神輿が本堂に来ようとしていた。今日の写
真はそのときのものです。このときもすごい人だった。
 五重塔を過ぎたあたりに、飴細工の人がいた。なかなか手際よく、割り箸に
丸めた飴の塊を、握り鋏で切っていろいろな動物をこしらえていた。
 そのあとなぜか、合羽橋のほうをぶらぶらし、ファミリーレストランで休憩
して、3時過ぎ浅草を後にした。
 しかし、祭は、見るもんではなく、参加するものですね。

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神田祭

1999年05月16日 | 出歩き

 今日は、女房と神田祭と三社祭に行ってきました。
 前からこのお祭りには行きたかった。でも、なんかこれまで行けなかった。
別に理由はなかったけど、なぜか行かなかった。しかし、今日は息子たちが昨
日から外泊していていない。そんな気軽さからか、女房とお祭りデートとなっ
た。
 家を9時過ぎに出た。朝から曇り空で、今にも雨が降ってきそうだった。い
ちおう念のために、折り畳み傘をそれぞれ持った。
 池袋に行き、地下鉄丸の内線でお茶の水まで行く。池袋の次の新大塚駅は、
女房が暮らしていたところだ。
「新大塚だよ。懐かしくないの」
「ぜんぜん。なんにも覚えてないもん」
 あっけらかんと、彼女はいう。私とちがって、いい意味で過去にこだわらな
い人なんです。20年前、私と出会う9月頃、親の反対を押し切って家を出て、
新大塚のアパートで一人暮らしを始めた。11月に、私の住む駒込のアパート
に転がり込んでしまったので3ヶ月もいなかった。それで愛着も少ないのだろ
う。
「東京ドームが見えるわよ」
 女房の声で、私は文庫本から目を離す。後楽園駅だ。この辺には私の思い出
が転がっている。次が本郷三丁目駅。ここに私が19歳で勤めた会社がある。
 お茶の水駅で下車。ここも懐かしい。恥ずかしながら、私は、お茶の水の夜
間の予備校に行ってました。秋まで。
 駅を出て聖橋のほうに歩き、左の階段を登る頃、笛や太鼓の囃子の音が聞こ
えてきた。階段を登りきると、すごい人混みだった。目の前の道路に、御輿を
かつぐ人たちがいた。私はウキウキした。なんてったってお祭りが好きなんで
す。女房も、笑顔で大きな声だしてはしゃいでいる。
 人混みの中を、神田明神のほうに歩いて行く。さっそくデジカメを出して撮
る。
 この辺も、私が本郷三丁目の試薬会社に勤めてた頃、15日と月末に集金の
ためにうろついたところだ。後楽園、神田、秋葉原などを、会社の作業服を着
て、自転車で取引先を回っていた。
(毎週月曜日は、6時45分までに行かなければならないので、寝ます。明日
続きを書きます)

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まったく

1999年05月12日 | 家族

 今、Uが帰ってきた。居酒屋にいたみたいだ。
「呑んできたの?」
「あまり」
「ワリカン」
「ううん」
「おごってもらったの?」
「いいや…」
 いったいどうしたっていうんだ。はっきりしろ、とおれはいいたい。
 Uはこうなんだな。おれにいうとき、あいまいにいう。いや、はっきりもの
いう男だとは確信している。おれはそういうふうに育ててきた。
 しかし、おれに話すとき、こうなんだなァ。
 昨日、Kはまだ帰っていなく、女房とUと3人で晩飯を食べたとき、Uがこ
れまでにはなく、食べ終わってからも食卓に坐っていて、いろいろ話してくれ
た。
 おれも女房も、息子たちの行動を知りたくてしょうがない。しかし、あいつ
らは話してくれない。女房は、けっこうまめにいろいろ訊いてるが、おれはな
んとなく訊きづらく、話しかけない。なのに、女房に息子たちこと根ほり葉ほ
り質問している自分がいじましい。
 Kは今日、明日、友人のアパートに泊まる。昨日そういってた。
 今週末、Uはクラブの合宿だそうだ。あいつはなにを考えてんのか、グリー
クラブなんかに入った。あの歌の下手な奴が。漫画研究会に行ったら、「みん
な、オタクみたいな奴らなので入らなかった」といってた。じゃなぜ、グリー
クラブなんだ。おそらく、酒を呑ませられて誘惑されたんだ。ああ…、酒好き
なおれと、同じじゃないか。
 Kは、軽音楽部に入ったようだ。もう、エレキベースは学校に持っていって
家にはない。
 2人とも、学校が面白くて面白くてしょうがないという。
 ああ…、うらやましい。

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筍の皮おしゃぶり

1999年05月12日 | 暮らし

 あれは、確かにむいたばかりの筍の皮でした。
 父が、筍を掘ると必ず私が皮をむき、それであれを作りました。
 私が思うに、先日私は失敗したと思ったのですが、実は、子どもの頃に作っ
たものもあんなもんだったろう、と今は思っています。
 思い出の中の「筍の皮おしゃぶり」を、私は30数年心の中で暖めていて、
懐かしさのあまりに美化してしまったと思うのです。
(しかし、この文章はだめですね。「思う」ばかりがでてくる。岩波新書「日
本語練習帳」大野晋著を読んで、「思う」「思ってる」ばかりをよく使う自分
の文章がいやになる)
 作ったそれを舐めてみると、昔の懐かしい味がしました。しかし、どんなに
持ち上げてみても、ただ素朴にしょっぱいだけの味で、これだけおいしいもの
があふれてる現在、なにもあんなものを作って舐めることはない。
 ある意味で、あれほど大切に舐めていた昔がよかったのかな、なんて思う。
豊かになることで失うものがあることを、実感しました。
 思い出したんですが、「筍の皮おしゃぶり」は、梅干しの代わりに味噌を入
れたこともありました。味噌だと、筍の皮が紫色になるんですよね。
 来年、筍の皮を手に入れて、もっと丁寧に作ってみよう。
 今回作ったものを、デジカメに撮ってかしの木亭にUPしようと思ったので
すが、あまりの粗末さにその元気をなくしました。
 この前、ラジオを聴いてたら、料理の本を書いてる人が、今の若い人は、筍
の皮をむかないで茹でる、と嘆いていた。最近の料理の本にそう書いてあるそ
うです。で、その人は、
「筍は、皮をむいて茹でたほうがいい。そうしなかったら、筍の皮で梅干しを
包んで舐めるなんてことできないじゃないですか」
 ああ…、この人も昔そんなことしたんだ、と思い、親近感がわきました。

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