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おやじのせなか

2000年11月28日 | 家族

 私は、朝日新聞の月曜日のこの記事を興味深く読んでいる。
 11月27日は、山田太一だった。
 読みながら、(へぇー、山田太一のお父さんはそんな人だったんだ)と、ち
ょっと意外な感想を抱いた。私の想像としては、かなりの教育者か、それなり
の会社で、それなりに出世した人ではないのか、という思いを勝手にしていた。
 私は、「シナリオライターで誰が一番好きか?」と訊かれたら、「山田太一
です」と答えます。小説はイマイチですが、シナリオはピカイチです。
 それはそうとして、私のおやじのことを書いちゃいます。

 私の親父は、茨城の百姓です。
 あまり熱心な百姓ではなかった(トオモウ)。
 二十歳の頃、東京の浅草あたりのタクシーの運転手をしていたらしい。たし
か親父は明治の最後の年に生まれたと記憶している。情けない話だが、今でも
父がいくつで死んだか知らない。誕生日も知らない。たしか…、2月…、分か
りません。
 よく、吉原の女性を乗せた、と聞いたことがある。
 あるとき、事故を起こして、それで逃げるようにして田舎に帰ってきた、と
これも誰かに聞いた。
 親父にそんなことを、酒を飲みながらゆっくり訊こうと思っているうちに10
年前に死なれちゃった。
 歌が好きな人だった。夏のの盆踊りには、いつもやぐらの上で唄をうた
っていた。

 踊りおーどるな~らー、しなよ~く、こりゃ、踊れよー
 しなのーよ~いこーはー、あれさなー、嫁にーとるよ~

 これは、「日光和楽音頭」という唄の歌詞です。節は、北海盆唄に似ていま
す。
 無学な親父は、私に生き方について何もいっていない。どうこうしろなんて
なにもいわれなかった。
 私にとってこの唄が、私に対する親父の気持ちのような気がしている。

 踊るなら品(シナ)よく踊れ父の唄

 これは、轟亭さんの句会に8月に投句した句です。
 生きるなら、しなよく、生きろ
 そう、親父は私にいっている、と思って、私は生きてます。

…………………………………………………………………………………………………………………………

11月の九想話

11/1  元気づけられたテレビ
11/3  ひだまりの家2
11/8  ねつ造
11/10 ある女性たちの会話
11/11 女房のわがまま
11/13 落ち込み中年の自慢話
11/22 Uの涙
11/28 親父の背中

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Uの涙

2000年11月22日 | 家族

 昨日、Uのグリークラブの男性定期演奏会があった。
 女房は仕事の関係でどうしても行けなくて、私ひとりで行った。
 私も5時まで仕事をして行ったので、会場の新宿文化センターに着いたのが
7時だった。
 ロビーには沢山の人がいた。曲の途中では入れないからだ。1部の第1ステ
ージが終わり、私は客席に入った。
 第1ステージは、皆川達夫さんの指揮です(Missa Mater Patris)。
 昨年もそうだった。これを聴けなかったのは残念です。
 前の方が空いてたので前から5列目の左の通路脇の椅子に坐った。
 第2ステージが始まった。薄暗いステージにグリークラブの学生が入場する
のを、私は目を凝らして見ていた。Uの姿を見つけた。うちにいるときと同じ
姿勢で歩いてる。あたりまえか。
 ステージのライトがついた。Uは、私の真っ直ぐ前10メートル先にいた。
Uと目が合ったような気がした。ちょっとテレくさい。なるべく正面は見ない
ようにした。しかし、どうしてもUに目がいく。
 一所懸命歌っていた。
 第2ステージは、トスティ歌曲集だった。中学のときな音楽の時間に習った
トスティのセレナーデに私の胸は熱くなった。
 休憩をはさんで2部の第3ステージは、川崎洋の詩による五つの男性合唱曲
「やさしい魚」。第4ステージは、北原白秋作詞の男声合唱組曲「柳河風俗詩」
というふうにプログラムは進んだ。
 もう眠たくなったので話を飛ばします。
 アンコールの最後の曲を歌いながら、Uが泣いているんです。前列の子は、
アンコールの曲になってから泣いていた。向かって左から2番目の胸にバラを
つけた4年生も号泣といってもおかしくないくらいな状態で泣いてた。
 Uのそういう状態を見て、私も目頭が熱くなった。
 歌を聴いているとき、Uの赤ちゃんのときの頃、幼稚園、小学生、それ以降
のことをいろいろ思った。あんなちっちゃかったUが、いっちょまえにグリー
クラブだ。
 私が高校生のときのブラスバンドの定期演奏会に、親父が来てくれたっけ。
あのときの親父も私と同じようなことを思ってたのかな、なんて考えた。
 さっき、Uが帰ってきたので、
「なんで泣いたんだ。金髪の子も4年生もひとり泣いてたな」
 と訊くと、
「4年生と2年生は仲がよくて、いろいろ世話になったんだ」
 という。
「定演で最後だから、感極まって泣いたのか」
 アンコールの2曲目が泣かせたらしい。
 昨日は、徹夜で大学の近くの飲み屋で打ち上げをしたという。
 Uは、まずまずの大学生活を送っているようだ。

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落ち込み中年の自慢話

2000年11月13日 | Weblog

 絵は好きでしたね。
 小学5年のとき、学校の代表に選ばれて郡展(西茨城郡だったイナカダナ)に絵
をだしたこともありました。
 中学のとき、美術はいつも5でした。
 高校では、音楽クラスだったので絵とは縁のない生活だった。
 上京して住んだ駒込のアパートに、美大を受験して落ちた人がいた。その人
は、週に1度山谷で日雇いの仕事をして、あとは油絵を描いていた。その人か
ら、いろんな絵に関する話を聞き影響された。現在、台湾に行っている友人で
す。
 そのアパートの彼の部屋には、彼の高校時代の友人で武蔵野美術大の学生、
マンガ家志望で背中まで髪を伸ばし、いつも着流しで一本歯の下駄を履いた人
とか、デザインを勉強している人とか、が来ていた。彼の恋人(現在の奥さん)
も、冬日雇いの仕事が少なくて、キャバレーにバイトにいったとき知り合いに
なったホステスとか、なんだか分からない女性も来ていた。
 私の友人は、建築を勉強している奴、ボクサーを目指してプロテストに合格
した者、小説を書くんだと息巻いてた早稲田大学の学生、こっちも負けずに雑
多な人間が訪ねてきた。
 毎日、入れ替わり立ち替わり人が来て酒を飲んでいた。文学、美術、映画、
その他世の中のあらゆることを酔っぱらって話した。どうやって、あのときは
会社に行っていたんだろう。
 そのアパートのことは、いつか小説に書こうと思っています。いや、15、
6年前書いて、初めて文學界新人賞に応募して一次予選に通ったことがあった。
 なぜか、21歳のとき、原宿のデザイン学校に入ったことがありました。昼
間バイトして夜行ってたのですが、お金がなくて半年でやめてしまった。笑っ
ちゃいますが、私は学生委員長なんかに選ばれたのに、半年で学校から消えて
しまった。あのあと、どうなったんだろう?
 こうして過去を振り返ってみると、いい加減な生き方していたな、としみじ
み反省し、また、落ち込みそうです。

 一番好きな画家は、ルオーです。

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女房のわがまま

2000年11月11日 | 家族

 11月から女房が、本社から営業所に移った。
 つれあいの会社は、そば屋さんなどに食材や酒などを売っている。
 11月から会社の受注システムが大幅に変わり、こんどはパソコンを使うこ
とになり、営業所にはパソコンを知ってる人がいないので彼女に行けというこ
とらしい。
 あいつは以前の会社では、パソコンの仕事を主にしていた。エクセル、ワー
ドを使うのはなかなかのものです。
 女房は、本社の人間関係がイヤだったので、営業所に行くことについては、
こころの底から喜んでいる。
 一番喜んでいることは、本社では、休日が水曜と日曜だったのが、営業所は
土曜日曜になったことです。連休がいいという。
 こんど私が土曜日休みだったら、どこかに行けるね、という。近くの温泉に
1泊してもいいね、なんていう。
 しかし、私は年内、土曜日が休めそうもない。
 今日私が会社から帰ると、
「以前は、土曜日が終わると1週間が終わった、とうれしかったが、今日は、
休みが1日終わってしまった、と落ち込むのよね」
 と、彼女は暗い顔をしていた。

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ある女性たちの会話

2000年11月10日 | Weblog

 今日、今週はじめて定時で帰ってきた。
 ずーっと腰が痛くても、整形外科に行けなかったので、行った。
 ここには去年の7月から行っている。
 最初に、2階に上がり電気でマッサージをしてもらう。赤外線となんとかの
治療だが、これが気持ちいい。腰に4つのゴムのパットを当て、それが振動し
ていいんだなァ。
 10分間やるのだが、それでいつも熟睡してしまう。
 その後は、1階で人間のマッサージ。これも10分間。
 これで、健康保険のお陰で230円。毎日行きたいのですが、7時で診療が
終わるのでなかなか行けない。
 今日、そこで楽しい会話を聞きました。

 私に治療器具をセットする女性(50は過ぎている)と、余所のベットにい
る女性(声から想像するに、この方は60前後か?)が大きな声で楽しそうに
話している。
「紅葉見に行きたいんだけど、なかなかね」
「そうですね」
「私は、電車は嫌いですよ。なにしろ、駅の待ち時間なんかが無駄でね」
「そうですね。車のほうがいいわよね」
(車だって渋滞があるじゃないか)
「でも、道が混むでしょう」
(そうそう)
「そうですね。観光バスなんかどうですか」
(乗ってればいいんだもんな)
「あれは、行きたくないとこなんかがコースになってるからイヤなんですよ」
(わがままな)
「せっかくの1日、行きたくないところなんか行きたくないですもんね」
(そりゃそうだ)
「しかし、混雑してるとこなんて、行きたくないですよ」
「そうですね。まるで人を見に行くようですからね」
「といって、あまり人がいないのも困っちゃうんですね」
「そうですね。さびしいですもんね」
「さびしいより、襲われたりしたら怖いですよ。先日、沖縄で女性が襲われた
でしょ。私怖いわ」
(ありゃ、若い(確か26歳)女性が襲われたんじゃないか。あんたらは襲わ
れないよ)
「怖いですね。気をつけないといけませんね」
(………)
 ワタシハ、ネテシマイマシタ。

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ねつ造

2000年11月08日 | Weblog

 東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長のことを考える。
 彼は、なんで、あんな、こと、したんだろう。私と2歳ちがいだ。
「藤村が歩けば、そこに旧石器がある」
「神の手を持つ」
 そういわれるほどの実績を残した人が、そういわれ続けたいと願ったから捏
造をしたのか?
 そんなことをしていて、心は安らかだったのだろうか?
 もし、捏造がばれないであの世に行けたとしても、彼はそれで「いい人生だ
った」と思って死ねただろうか?
 藤村さんのこころの中を想うと、私は、哀しくなります。
 彼は、高校を卒業後、考古学を独学し、これまで180ヶ所以上の旧石器時
代の遺跡発掘にかかわり、石器の年代を次々と塗り替えてきた、という。
 私も高卒なので、なんか、彼のこころの奥底が分かるような気がする。
 ただ私は、これまでなんの栄光もなかったから(ハズカシイ)、なにをも“ねつ造”
する必要がない。これからもないだろう。すっぴんのおれで生きていく。
 それにしても「ねつ造」という表現は、だれが捏造したんだ。

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ひだまりの家 2

2000年11月03日 | 家族

 翌日(10/29)、友人と別れて、また「ひだまりの家」に行った。
 ハンドルを握りながら行こうか行くまいか迷った。昨日のような母なら、会
いたくないというのが本音だった。
 国道50号線を真っ直ぐ下館方面に行ってしまえば、あんな母を見ることも
ない。しかし、前日兄に行ってくれるようにと、いわれていた。それに、所沢
からそう頻繁に来られそうにないことを考えれば、ちょっとでも顔を見ていく
べきだ、と覚悟を決め、大和村への矢印の書いてある看板の小さな交差点を左
折した。
 前日もそうだったが、15台は置ける駐車場には1台も車は停まっていなか
った。時間は午前10時前だった。午後にでも来る家族はいるのかどうか…。
 自動ドアをゆっくり力を込めて開け、中に入った。受付のカウンターの上に
置いてあるノートに名前その他を記入した。
 トイレがあったので入った。私は、朝必ずトイレにじっくり坐らないと一日
が落ち着かない体だ。友人宅で朝食を食べ、トイレに入ることは入ったが、そ
の日も仕事があるという友をあまり待たせるわけにもいかず、急いで切り上げ
た。そのため、まだ私の体は不満足だった。そのトイレは、洗浄器付だった。
坐りながら目の前の説明文を読むと、「立ち上がると、水が流れます」と書い
てあった。すべてが終わり私が立ち上がると、水が流れた。当たり前のことな
のだろうが、そのとうりになったことに軽いショックがあった。歳を取ると用
をすませたあと、流さないでトイレをあとにする人がいるんだな、としみじみ
思った。自分もいつかそのようになるのか…、と考えると、やるせない気持ち
になった。
 食堂兼娯楽室のテーブルに向かって、5、6人の老人がいた。男性は1人だ
った。
 母はと探すと、テレビの前に坐っている5人の中にいた。母は、椅子の背も
たれに寄りかかり、首をかしげ眠っていた。小さかった。
 そっと母の肩に手を乗せ、
「かあちゃん、かあちゃん」
 と揺り動かした。
 目が覚め振り向いた母が、
「ひさし…、来たのが…」
 とうれしそうな笑顔になった。
「いまがら、所沢に帰んだ」
「そうが…。そんなに急がねで、ここで昼ごはん食べでげな…」
「そうもしてられねぇんだ」
「あっちに行くべ」
 と、母はテーブルを指さす。母は立ち上がり、ゆっくり歩き出した。私は、
椅子を持って、母のネームプレートの貼ってある前に椅子を置いて母を坐らせた。
「そごに坐ったらいがっぺな」
 と、母は、隣の椅子を指す。そこには別な人のネームプレートがあった。
「いいよ、そこの人が戻ってくっかもわがんねがら」
 そういって、私は中腰になり、母の背中にいた。
「あんちゃんは、どごにいんだ」
「今日は、ねえちゃんたちと旅行に行ったんだ」
「ほうがァ。UとKは元気なのが…、Eちゃんは?」
「みんな、元気だよ」
「かあちゃん、こごにはいれでいがったよ。みんないるし、寂しぐねぇよ」
 ほんとに母がそう思ってくれているなら、うれしかった。
 それにしても、昨日の母と今日の母、どっちがほんとうの母なのだろう、と
思った。
 まわりに目をやると、介護をしている若い女の子が、ホワイトボードの前に
老人たちを集めていた。半円形に椅子や車椅子が置かれ、そこに老人たちが坐
っていた。
 ホワイトボードには「10月の誕生会」と書かれていた。
 こんなコとお酒でも一緒に飲めたらいいな、と思ってしまうような可愛い介
護士の女の子の話を聞くと、月の最後の日曜日に毎月「誕生会」をやってるよ
うだ。といっても、ケーキが出るわけではなかった。その月に生まれた人の名
前をホワイトボードに書き、みんなで「おめでとうございます」というだけの
ようだ。
「かあちゃん、あっちに行ってみっぺ」
 家族が来ているので気を使ってくれたのか、介護の女の子は、母には声をか
けなかったのだ。
 私は、半円の列の一番端に椅子を持っていき、母を坐らせた。
 介護の女の子が、
「それでは、これから体操をしましょう」
 といった。
 誕生会は終わりになり、体操の時間になったようだ。
「みなさん、両手を上げて、開いて下さい」
 といって、両手を上げて手のひらを広げた。
「こんどは、グーにして下さい」
 といい、それを繰り返した。老人たちは、めいめい好き勝手に手を上げて、
握ったり開いたりした。真上に上げられない人がいる。開きっぱなしの人もい
る。わけがわからなく、手も上げないでまわりをキョロキョロ見ている人もい
る。
「かあちゃんも手を上げて」
 と、私は後ろから母の両手を掴んで上に上げた。
「こんなごど、まいんちやってんだ」
 と、母はうれしそうに私を見る。
 そんなことをしながら、私は、ホワイトボードの裏のドアの開いた部屋の中
に視線を移した。そこには、おじいちゃんがいた。携帯の便器に用をたそうと
していた。ズボンを下げようとしているが、思うように下げられないようだっ
た。ふらふらしていて、立っているのがやっとという感じなのだ。
「こんどは、みなさん、私とジャンケンをしましょう。私が出したものに勝つ
ものを出して下さい」
 介護の女の子は、グーにした右手を高く上げた。それを見て老人たちは、パ
ーを出したり、女の子と同じグーを出したりしていた。母は、わかっているの
かいないのか、パーを出していた。そのあと、女の子がチョキを出しても、パ
ーを出しても、母は、パーを出していた。長い間百姓をしてきて曲がった指の
パーを出していた。
 あのおじいちゃんは、やっとズボンを下げられた。しわしわのお尻が見えた。
おしっこが、うまく便器に命中したかどうかはわからない。自分の何十年後か
を見ているようで、哀しくなってきた。
 体操が終わって、お茶の時間だ。それぞれが、自分のネームプレートの前に
坐った。
 母の前にお茶が来た。
「ひさしも、もらったらいがっぺな」
 と、いうと、お茶を運んでいた男性の介護士が笑っていた。
「いいよ。かあちゃん、おれ帰っから」
「そうが、帰っちゃうのが…」
「まだ、来っから。かあちゃん、元気でな」
 母の背中を軽く叩いて、私はそこから離れた。母の顔を見るのが辛かったか
ら、振り向かなかった。
「ひだまりの家」を出てから、携帯電話で兄に電話した。長岡でバスに乗り換
えるところだといった。
「今日は、かあちゃん機嫌よかったよ」
 というと、
「ひさし、ありがとう」
 と、兄がいった。
 ケータイって便利だなと思った。

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元気づけられたテレビ

2000年11月01日 | テレビ

 そのとき歴史が動いた「伊能忠敬56歳からの挑戦」(NHK総合9:15)を
観た。
 どっちかというと、若くて成功した人のことばかりテレビなどで知らされて、
その歳の頃に(今も)ただの人であった私にとって、ありがたい番組だった。
 51歳で息子に家督を譲り隠居し、江戸に出た。
 32歳の高橋至時(よしとき)に弟子入りし、子供の頃から憧れていた天文
学を勉強するためだった。
 地球の大きさを知りたい、という想いから、高橋至時にすすめられて蝦夷を
測量しに行く。それから亡くなる74歳まで日本全国を測量した。
 あらためて、私も「やらなくちゃ」と思いました。

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