010.2/9 644回
三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(59)
夕霧がご冗談めかしておっしゃってきますので、雲井の雁は、
「何事言ふぞ。おいらかに死に給ひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬無し。見棄てて死なむはうしろめたし」
――何ですって。おとなしく死んでおしまいなさい。私も死にますから。見れば憎らしいし、声を聞けば気分が悪いし、そうかといって見棄てて死ぬのは気がかりですもの――
雲井の雁がどんどんおっしゃる様子が、なかなか可愛らしくお美しいので、夕霧はついにお笑いになって、
「近くてこそは見給はざらめ、余所にはなにか聞き給はざらむ。さても契り深かなる瀬を知らせむの御心なり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契り聞こえしか」
――(そうはおっしゃるが)生きている限りは目の前にご覧にならなくても、噂にはどうして聞かれぬ訳があろう。私に死ねとおっしゃるのは、二人の縁の深さを知らせているお積りですね。一人が死んだら、すぐもう一人は跡を追うと、そんな約束をしましたっけね――
と、さりげない風を装って、何やかやと雲井の雁をおなだめになりますと、雲井の雁は、もともと素直で可愛らしいご性格の方ですので、こんなことは一時の気休めに過ぎない事とお分かりになっていながらも、御機嫌が直っていかれるのでした。
夕霧は雲井の雁を気の毒だとはお思いになりますものの、
「心は空にて、かれもいとわが心をたてて、強うものものしき人のけはひには見え給はねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなり給ひなば、をこがましうもあべいかな」
――心は空に漂うようで、落葉宮も決して我を張って意地を通す方のようにも見えないものの、自分に連れ添うお心がなくて、やはり尼などになってしまわれたら、まったくこの私は馬鹿を見るというものだ――
と、それならばなお、ここしばらくは毎夜通わねばと、心あわただしくて、ああそれにしても、宮からのお返事は今日も無いことよ、と、ひどく物思いに沈んでいらっしゃる。
◆あべいかな=あるべきかな
ではまた。
三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(59)
夕霧がご冗談めかしておっしゃってきますので、雲井の雁は、
「何事言ふぞ。おいらかに死に給ひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬無し。見棄てて死なむはうしろめたし」
――何ですって。おとなしく死んでおしまいなさい。私も死にますから。見れば憎らしいし、声を聞けば気分が悪いし、そうかといって見棄てて死ぬのは気がかりですもの――
雲井の雁がどんどんおっしゃる様子が、なかなか可愛らしくお美しいので、夕霧はついにお笑いになって、
「近くてこそは見給はざらめ、余所にはなにか聞き給はざらむ。さても契り深かなる瀬を知らせむの御心なり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契り聞こえしか」
――(そうはおっしゃるが)生きている限りは目の前にご覧にならなくても、噂にはどうして聞かれぬ訳があろう。私に死ねとおっしゃるのは、二人の縁の深さを知らせているお積りですね。一人が死んだら、すぐもう一人は跡を追うと、そんな約束をしましたっけね――
と、さりげない風を装って、何やかやと雲井の雁をおなだめになりますと、雲井の雁は、もともと素直で可愛らしいご性格の方ですので、こんなことは一時の気休めに過ぎない事とお分かりになっていながらも、御機嫌が直っていかれるのでした。
夕霧は雲井の雁を気の毒だとはお思いになりますものの、
「心は空にて、かれもいとわが心をたてて、強うものものしき人のけはひには見え給はねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなり給ひなば、をこがましうもあべいかな」
――心は空に漂うようで、落葉宮も決して我を張って意地を通す方のようにも見えないものの、自分に連れ添うお心がなくて、やはり尼などになってしまわれたら、まったくこの私は馬鹿を見るというものだ――
と、それならばなお、ここしばらくは毎夜通わねばと、心あわただしくて、ああそれにしても、宮からのお返事は今日も無いことよ、と、ひどく物思いに沈んでいらっしゃる。
◆あべいかな=あるべきかな
ではまた。