2010.6/4 755回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(16)
「されど、さる方を思ひ離るる願ひに、山深く尋ね聞こえたる本意なく、すきずきしきなほざり事をうち出で、あざればまむも、ことに違ひてや」
――(薫は)しかし、そうした俗世めいた方面を思い棄てたいとの希望で、山深く八の宮をお尋ねしましたのに、その気持ちに反して、好色めいた冗談口を利いて戯れますのも、筋が通らないこと――
と、思い返して、宮の道心に心して、それからは度々教えを請うてお出でになります。八の宮は、
「優婆塞ながら行ふ山の深き心、法文など、わざとさかしげにはあらで、いとよく宣ひ知らす」
――優婆塞(うばそく)の御身で、山深く勤行なさる仏道の本旨や、経文のことなどを、知ったふりはなさらず、十分にご教示になります――
「聖だつ人、才ある法師などは、世に多かれど、あまりこはごはしう、気遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすぐにて、物の心を問ひあらはさむも、ことどとしく覚え給ふ」
――聖人めいて学問を修めた法師は世間に多いけれど、あまりに堅苦しく近づきにくい僧都、僧正の御身分では、世事に忙しく素っ気ないことが度々で、仏道の真意を伺おうにも大層な感じがします――
「またその人ならぬ仏の御弟子の、忌む事を保つばかりの尊さはあれど、けはひ卑しく言葉だみて、こちなげにもの馴れたる、いとものしくて」
――また一方では、身分の低い僧で、戒律を守るだけの尊さはあっても、人柄が卑しく言葉が訛っていて、無骨で厚かましいのはいかにも不愉快でならない――
八の宮は高貴な方で、痛々しいほどのご様子で、御教示なさるお言葉も、お教えも、分かり易い譬えを用いて説かれますので、薫は次第にこの方に惹かれて、山荘にお出かけになれぬ日は物足りなく思えるのでした。
薫から八の宮のお噂をお聞きになって、冷泉院も度々お見舞いを申され、薫もいろいろとご援助、お世話をされて三年ほどが経ちました。
◆なほざり事=等閑事(なおざりごと)=いい加減にすること。
◆あざればまむ=戯ればむ(あざればむ)=ふざけているように見える。
◆優婆塞(うばそく)=俗体のまま仏門に帰依した男子の称。
ではまた。
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(16)
「されど、さる方を思ひ離るる願ひに、山深く尋ね聞こえたる本意なく、すきずきしきなほざり事をうち出で、あざればまむも、ことに違ひてや」
――(薫は)しかし、そうした俗世めいた方面を思い棄てたいとの希望で、山深く八の宮をお尋ねしましたのに、その気持ちに反して、好色めいた冗談口を利いて戯れますのも、筋が通らないこと――
と、思い返して、宮の道心に心して、それからは度々教えを請うてお出でになります。八の宮は、
「優婆塞ながら行ふ山の深き心、法文など、わざとさかしげにはあらで、いとよく宣ひ知らす」
――優婆塞(うばそく)の御身で、山深く勤行なさる仏道の本旨や、経文のことなどを、知ったふりはなさらず、十分にご教示になります――
「聖だつ人、才ある法師などは、世に多かれど、あまりこはごはしう、気遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすぐにて、物の心を問ひあらはさむも、ことどとしく覚え給ふ」
――聖人めいて学問を修めた法師は世間に多いけれど、あまりに堅苦しく近づきにくい僧都、僧正の御身分では、世事に忙しく素っ気ないことが度々で、仏道の真意を伺おうにも大層な感じがします――
「またその人ならぬ仏の御弟子の、忌む事を保つばかりの尊さはあれど、けはひ卑しく言葉だみて、こちなげにもの馴れたる、いとものしくて」
――また一方では、身分の低い僧で、戒律を守るだけの尊さはあっても、人柄が卑しく言葉が訛っていて、無骨で厚かましいのはいかにも不愉快でならない――
八の宮は高貴な方で、痛々しいほどのご様子で、御教示なさるお言葉も、お教えも、分かり易い譬えを用いて説かれますので、薫は次第にこの方に惹かれて、山荘にお出かけになれぬ日は物足りなく思えるのでした。
薫から八の宮のお噂をお聞きになって、冷泉院も度々お見舞いを申され、薫もいろいろとご援助、お世話をされて三年ほどが経ちました。
◆なほざり事=等閑事(なおざりごと)=いい加減にすること。
◆あざればまむ=戯ればむ(あざればむ)=ふざけているように見える。
◆優婆塞(うばそく)=俗体のまま仏門に帰依した男子の称。
ではまた。