2010.6/11 762回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(23)
応対の若い女房たちが、消え入るばかりに恥ずかしそうにそわそわしておりますのも体裁が悪く、そうかといって奥の方にもう寝んでいる年輩の女房を起こしますのも時間がかかりますので、大君(おおいぎみ)が自ら、
「何事も思ひ知らぬありさまにて、知り顔にもいかばかりかは聞こゆべく」
――何事も存じません私どもですから、分け知り顔にお答えなど、どうして申し上げられましょう――
と、まことに深みがあって上品なお声で、奥に引き入りながら小さくおっしゃいます。
薫はそうはさせまいと、
「かつ知りながら、憂きを知らず顔なるも、世のさがと思う給へ知るを、一所しも、あまりおぼめかせ給へらむこそ、口惜しかるべけれ。あり難うよろづを思ひすましたる御住ひなどに、類ひ聞こえさせ給ふ御心の中は、何事も涼しくおしはかられ侍れば、なほかく忍びあまり侍る深さ浅さの程も、わかせ給はむこそかひは侍らめ」
――本当はお分かりになっていらっしゃるのに、人の心の辛さを知らぬ風なお顔をなさるのも、世の習いとは存じますが、ほかならぬ貴女があまり空々しくなさいますのこそ残念でなりません。世にも珍しいほど何事にも悟りをお持ちの八の宮のお傍でお暮しになっていて、その御心を見習っておいでの貴女でありましょうから、何事もお見通しの筈でございましょう。私の忍びがたい胸の思いの深さ浅さのほどもお汲みとりになってくださってこそ、お悟りになられた甲斐もあるというものです――
さらに、
「世の常のすきずきしき筋には、思召し放つべくや。さやうの方は、わざとすすむる人侍りとも、なびくべうもあらぬ心強さになむ。おのづから聞し召し合するやうも侍りなむ。(……)」
――私の心持は世間並みな浮気ごころとは切り離してお考えくださるべきでしょう。私は、そうした浮気の方面を強いて勧める人がありましても、従いそうにない強気の性分でしてね。そんな噂も自然とお耳になさることがありましょう。(世間と離れてお住いの貴女方の退屈しのぎにでもお近づきできますならば、どんなに嬉しいことでしょう)――
と、薫は次から次へとお言葉を並べておっしゃいますので、大君はただただ恥ずかしく、何ともお返事しにくく困っていらっしゃる時に、やっと奥から老女がきましたので、その後をお任せになります。
◆写真:宇治川近くに立つ紫式部像
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(23)
応対の若い女房たちが、消え入るばかりに恥ずかしそうにそわそわしておりますのも体裁が悪く、そうかといって奥の方にもう寝んでいる年輩の女房を起こしますのも時間がかかりますので、大君(おおいぎみ)が自ら、
「何事も思ひ知らぬありさまにて、知り顔にもいかばかりかは聞こゆべく」
――何事も存じません私どもですから、分け知り顔にお答えなど、どうして申し上げられましょう――
と、まことに深みがあって上品なお声で、奥に引き入りながら小さくおっしゃいます。
薫はそうはさせまいと、
「かつ知りながら、憂きを知らず顔なるも、世のさがと思う給へ知るを、一所しも、あまりおぼめかせ給へらむこそ、口惜しかるべけれ。あり難うよろづを思ひすましたる御住ひなどに、類ひ聞こえさせ給ふ御心の中は、何事も涼しくおしはかられ侍れば、なほかく忍びあまり侍る深さ浅さの程も、わかせ給はむこそかひは侍らめ」
――本当はお分かりになっていらっしゃるのに、人の心の辛さを知らぬ風なお顔をなさるのも、世の習いとは存じますが、ほかならぬ貴女があまり空々しくなさいますのこそ残念でなりません。世にも珍しいほど何事にも悟りをお持ちの八の宮のお傍でお暮しになっていて、その御心を見習っておいでの貴女でありましょうから、何事もお見通しの筈でございましょう。私の忍びがたい胸の思いの深さ浅さのほどもお汲みとりになってくださってこそ、お悟りになられた甲斐もあるというものです――
さらに、
「世の常のすきずきしき筋には、思召し放つべくや。さやうの方は、わざとすすむる人侍りとも、なびくべうもあらぬ心強さになむ。おのづから聞し召し合するやうも侍りなむ。(……)」
――私の心持は世間並みな浮気ごころとは切り離してお考えくださるべきでしょう。私は、そうした浮気の方面を強いて勧める人がありましても、従いそうにない強気の性分でしてね。そんな噂も自然とお耳になさることがありましょう。(世間と離れてお住いの貴女方の退屈しのぎにでもお近づきできますならば、どんなに嬉しいことでしょう)――
と、薫は次から次へとお言葉を並べておっしゃいますので、大君はただただ恥ずかしく、何ともお返事しにくく困っていらっしゃる時に、やっと奥から老女がきましたので、その後をお任せになります。
◆写真:宇治川近くに立つ紫式部像