2010.6/8 759回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(20)
「あなたの通ふべかめる透垣の戸を、すこし押しあけて見給へば、月をかしきほどに霧渡れるをながめて、簾を短く巻き上げて、人々居たり。簀子に、いと寒げに、身細くなえばめる童一人、同じさまなる大人など居たり」
――姫君の御居間の方に通じるらしい透垣の戸を、薫が少し押し開けてご覧になりますと、月が趣深く眺められるほどに狭霧の立ち迷っている空を眺めながら、簾(すだれ)を高く巻き上げて、侍女たちが座っております。簀子(すのこ)には、たいそう寒そうに薄着の、それも着古してみすぼらしい衣裳の女童が一人と、同じような姿の女房などが控えております――
「内なる人、ひとり、柱に少し居隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつ居たるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、『扇ならで、これしても、月はまねきつべかりけり』とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに、にほひやかなるべし」
――御簾の中の姫君のお一人は、柱の陰になるように座って、琵琶を前に置いて撥(ばち)を手まさぐっておられましたが、雲に隠れていた月が急に鮮やかな光をさして出てきましたのをご覧になって、「扇でなくて、撥ででも月を招けるのですわ」と、ちょっと首をかしげて外を覗いていらっしゃるそのお顔が、たいそう可憐で匂いやかでいらっしゃる――
もう一人の姫君は、琴の上に身をもたせるようにして、
「『入る日をかへす撥こそありけれ、さま異にも思ひ及び給ふ御心かな』とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり」
――「落日を撥で呼び返した話は聞いていますが、月を招くとは風変わりなことを思いつく方ですこと」とおっしゃって、微笑んでいらっしゃるご様子は、ひときわ重々しく、たしなみ深くお見えになります――
先の方が、妹の中の君で、この方が姉の大君のようです。中の君が「招くとまではいかなくても、琵琶の撥を納めるところを陰月(いんげつ)と言いますもの。まんざら月と縁がないことでもございませんわ」などと他愛のないことに興じていらっしゃるご様子は、田舎びたところにおいでの姫君など大したことはないであろうと想像していましたのとはまるで違って、薫は、たいそう心に沁みてうっとりなさっておいでになります。。
◆にほひやか=つやがあって美しいさま
◆「扇で月を招く」=この故事は未詳。
◆源氏物語絵巻「橋姫」復元模写
ではまた。
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(20)
「あなたの通ふべかめる透垣の戸を、すこし押しあけて見給へば、月をかしきほどに霧渡れるをながめて、簾を短く巻き上げて、人々居たり。簀子に、いと寒げに、身細くなえばめる童一人、同じさまなる大人など居たり」
――姫君の御居間の方に通じるらしい透垣の戸を、薫が少し押し開けてご覧になりますと、月が趣深く眺められるほどに狭霧の立ち迷っている空を眺めながら、簾(すだれ)を高く巻き上げて、侍女たちが座っております。簀子(すのこ)には、たいそう寒そうに薄着の、それも着古してみすぼらしい衣裳の女童が一人と、同じような姿の女房などが控えております――
「内なる人、ひとり、柱に少し居隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつ居たるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、『扇ならで、これしても、月はまねきつべかりけり』とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに、にほひやかなるべし」
――御簾の中の姫君のお一人は、柱の陰になるように座って、琵琶を前に置いて撥(ばち)を手まさぐっておられましたが、雲に隠れていた月が急に鮮やかな光をさして出てきましたのをご覧になって、「扇でなくて、撥ででも月を招けるのですわ」と、ちょっと首をかしげて外を覗いていらっしゃるそのお顔が、たいそう可憐で匂いやかでいらっしゃる――
もう一人の姫君は、琴の上に身をもたせるようにして、
「『入る日をかへす撥こそありけれ、さま異にも思ひ及び給ふ御心かな』とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり」
――「落日を撥で呼び返した話は聞いていますが、月を招くとは風変わりなことを思いつく方ですこと」とおっしゃって、微笑んでいらっしゃるご様子は、ひときわ重々しく、たしなみ深くお見えになります――
先の方が、妹の中の君で、この方が姉の大君のようです。中の君が「招くとまではいかなくても、琵琶の撥を納めるところを陰月(いんげつ)と言いますもの。まんざら月と縁がないことでもございませんわ」などと他愛のないことに興じていらっしゃるご様子は、田舎びたところにおいでの姫君など大したことはないであろうと想像していましたのとはまるで違って、薫は、たいそう心に沁みてうっとりなさっておいでになります。。
◆にほひやか=つやがあって美しいさま
◆「扇で月を招く」=この故事は未詳。
◆源氏物語絵巻「橋姫」復元模写
ではまた。