2010.6/10 761回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(22)
薫が宿直人に、
「折悪しく参り侍りにけれど、なかなかうれしく、思ふことすこしなぐさめてなむ。かくさぶらふ由聞こえよ。いたう濡れにたるかごとも聞こえさせむかし」
――運悪く八の宮のお留守中に参上したが、姫君達の合奏を聞くことができて、却ってうれしく、思いも少し晴れた気持ちがする。ところで私がこうして参上していることを、姫君に申し上げてほしいのだが。お陰様でひどく夜露にぬれてしまった愚痴のひとつもお耳に入れたいものだ――
と、申しつけられて、宿直人は畏まってあちらへ伺い、事の次第を姫君に申し上げます。
「かく見えやしらむとは思しもよらで、うちとけたりつる事どもを、聞きやし給ひつらむ、と、いといみじくはづかし。あやしく、かうばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひがけぬ程なれば、おどろかざりける心おそさよ、と、心も惑ひてはぢおはさうず」
――(姫君たちは)こうして薫に見られていようとは全く思いもよらず、くつろいで
弾いていました琵琶や筝の琴の調べを、もしやお聞きになったのではないかしらと、たいそう恥ずかしく思っていらっしゃる。そういえば、妙に香り高く匂う風が吹いてきていましたのに、夜という思いがけない時刻でしたので、特に注意もせず、迂闊な事とすっかり狼狽して恥ずかしがっていらっしゃいます――
「御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、おりからにこそよろづのことも、と思いて、まだ霧の紛れなれば、ありつる御簾の前に歩み出でて、つい居給ふ」
――お取り次ぎをする女房も、いかにも不慣れな様子なので、薫は何事もその折と場合に応じて振る舞うべきだと思われて、まだ霧が深い為に姿もあらわでないことを良いことに、先刻の御簾の前に歩いて行って簀子(すのこ)にひざまづいております。――
田舎びた若い女房たちは、何とお答えしてよいものか分からず、御しとね(円座)を差し出す物越しもたどたどしいばかりです。薫は、
「この御簾の前には、はしたなく侍りけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参るまじき、山のかけ路に思う給ふるを、さま異にこそ。かく露けき旅を重ねてば、さりとも、御らんじ知るらむ、となむ、たのもしう侍る」
――こうした御簾の御前では極まり悪く存じます。思いつきだけの気持ちでこのような険しい山道をお尋ね申すでしょうか。これではひどいお扱いと思います。こうして露に濡れながら何回かお訪ねしますならば、いくら何でも私の誠意をお汲みとりくださるでしょうと頼もしくは存じますが――
と、真面目に申し上げるのでした。
◆写真:宇治の平等院 丈六の阿弥陀如来座像 (平等院HPより)
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(22)
薫が宿直人に、
「折悪しく参り侍りにけれど、なかなかうれしく、思ふことすこしなぐさめてなむ。かくさぶらふ由聞こえよ。いたう濡れにたるかごとも聞こえさせむかし」
――運悪く八の宮のお留守中に参上したが、姫君達の合奏を聞くことができて、却ってうれしく、思いも少し晴れた気持ちがする。ところで私がこうして参上していることを、姫君に申し上げてほしいのだが。お陰様でひどく夜露にぬれてしまった愚痴のひとつもお耳に入れたいものだ――
と、申しつけられて、宿直人は畏まってあちらへ伺い、事の次第を姫君に申し上げます。
「かく見えやしらむとは思しもよらで、うちとけたりつる事どもを、聞きやし給ひつらむ、と、いといみじくはづかし。あやしく、かうばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひがけぬ程なれば、おどろかざりける心おそさよ、と、心も惑ひてはぢおはさうず」
――(姫君たちは)こうして薫に見られていようとは全く思いもよらず、くつろいで
弾いていました琵琶や筝の琴の調べを、もしやお聞きになったのではないかしらと、たいそう恥ずかしく思っていらっしゃる。そういえば、妙に香り高く匂う風が吹いてきていましたのに、夜という思いがけない時刻でしたので、特に注意もせず、迂闊な事とすっかり狼狽して恥ずかしがっていらっしゃいます――
「御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、おりからにこそよろづのことも、と思いて、まだ霧の紛れなれば、ありつる御簾の前に歩み出でて、つい居給ふ」
――お取り次ぎをする女房も、いかにも不慣れな様子なので、薫は何事もその折と場合に応じて振る舞うべきだと思われて、まだ霧が深い為に姿もあらわでないことを良いことに、先刻の御簾の前に歩いて行って簀子(すのこ)にひざまづいております。――
田舎びた若い女房たちは、何とお答えしてよいものか分からず、御しとね(円座)を差し出す物越しもたどたどしいばかりです。薫は、
「この御簾の前には、はしたなく侍りけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参るまじき、山のかけ路に思う給ふるを、さま異にこそ。かく露けき旅を重ねてば、さりとも、御らんじ知るらむ、となむ、たのもしう侍る」
――こうした御簾の御前では極まり悪く存じます。思いつきだけの気持ちでこのような険しい山道をお尋ね申すでしょうか。これではひどいお扱いと思います。こうして露に濡れながら何回かお訪ねしますならば、いくら何でも私の誠意をお汲みとりくださるでしょうと頼もしくは存じますが――
と、真面目に申し上げるのでした。
◆写真:宇治の平等院 丈六の阿弥陀如来座像 (平等院HPより)