2010.6/22 773回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(34)
薫は簡素な網代車で、ご衣裳もお忍びの出で立ちでご出発なさったのでした。八の宮は喜んでお迎えし、山里らしい御馳走でおもてなしなさいます。夜になりますと、燈火のもとで、前々から読みかけておられた経典類の深い意味などを、阿闇梨も山からお呼び寄せになって解釈などをおさせになります。この夜は、
「うちもまどろまず、河風のいと荒ましきに、木の葉の散り交ふ音、水のひびきなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり」
――少しも眠れぬほどに、宇治川を吹きわたる風の音の荒々しく、木の葉が散る音や川音のすさまじさに、風情どころか恐ろしく心細いこの辺りの様子です――
ようやく明けようとする朝になって、薫は、あの暁の事(姫君たちを垣間見した)が思い出され、琴の音の身に沁むという話をきっかけにして、八の宮に、
「先の度の霧にまどはされ侍りし曙に、いとめづらしきものの音、ひと声承りし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思う給へらるる」
――先日の霧に迷わされました明け方に、実に結構な楽の音を少しだけ伺いましたが、その後には却って余計に伺いたい気持ちで、物足りない思いでおります――
薫のお言葉に八の宮は、
「色をも香おも思ひ棄ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ。いとつきなくなりにたるや。しるべする物の音につけてなむ、思ひ出らるべかりにける」
――この世の風流ごとは皆断念しました後は、昔覚えた琴の弾き方も忘れてしまいましたよ。琴を弾くには不似合いになりまして、合奏して下さる音にどうにか思い出して弾くというような具合でして――
と、侍女に琴を持って来させ、琵琶を薫に差し出されて合奏をお勧めになります。
「さらに仄かに聞き侍りし同じものとも、思う給へられざりけり。御琴のひびきがらにやとこそ思ひ給へしか」
――あの時の姫君達がお弾きになるのを一寸伺った同じ音だとはとても思われません。楽器の響きのよいせいかと思いましたが(やはり弾く人によるのでしょう)――
と、薫は弾こうとなさらない。
◆写真:正面からの網代車
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(34)
薫は簡素な網代車で、ご衣裳もお忍びの出で立ちでご出発なさったのでした。八の宮は喜んでお迎えし、山里らしい御馳走でおもてなしなさいます。夜になりますと、燈火のもとで、前々から読みかけておられた経典類の深い意味などを、阿闇梨も山からお呼び寄せになって解釈などをおさせになります。この夜は、
「うちもまどろまず、河風のいと荒ましきに、木の葉の散り交ふ音、水のひびきなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり」
――少しも眠れぬほどに、宇治川を吹きわたる風の音の荒々しく、木の葉が散る音や川音のすさまじさに、風情どころか恐ろしく心細いこの辺りの様子です――
ようやく明けようとする朝になって、薫は、あの暁の事(姫君たちを垣間見した)が思い出され、琴の音の身に沁むという話をきっかけにして、八の宮に、
「先の度の霧にまどはされ侍りし曙に、いとめづらしきものの音、ひと声承りし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思う給へらるる」
――先日の霧に迷わされました明け方に、実に結構な楽の音を少しだけ伺いましたが、その後には却って余計に伺いたい気持ちで、物足りない思いでおります――
薫のお言葉に八の宮は、
「色をも香おも思ひ棄ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ。いとつきなくなりにたるや。しるべする物の音につけてなむ、思ひ出らるべかりにける」
――この世の風流ごとは皆断念しました後は、昔覚えた琴の弾き方も忘れてしまいましたよ。琴を弾くには不似合いになりまして、合奏して下さる音にどうにか思い出して弾くというような具合でして――
と、侍女に琴を持って来させ、琵琶を薫に差し出されて合奏をお勧めになります。
「さらに仄かに聞き侍りし同じものとも、思う給へられざりけり。御琴のひびきがらにやとこそ思ひ給へしか」
――あの時の姫君達がお弾きになるのを一寸伺った同じ音だとはとても思われません。楽器の響きのよいせいかと思いましたが(やはり弾く人によるのでしょう)――
と、薫は弾こうとなさらない。
◆写真:正面からの網代車