永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(822)

2010年09月17日 | Weblog
2010.9/17  822

四十六帖 【椎本(しひがもと)の巻】 その(41)

「ここもとに几帳を添へ立てたる、あな口惜し、と思ひて、ひき帰る折しも、風の簾をいたう吹きあぐべかめれば、『あらはにもこそあれ。その御几帳おし出でてこそ』といふ人あり」
――丁度そこには隔ての几帳が立ててあるのでした。薫は、ああ残念だ、とお思いになって引き返そうとなさった折も折、一陣の風が御簾を荒々しくふきあげました時に、「外から丸見えですよ。その几帳を外のほうに立ててください」という侍女がいます――

 薫は、愚かな事を言うものだと思いながらも、これぞ幸いと覗いていらっしゃると、

「高きも短きも、几帳を二間の簾におし寄せて、この障子に向かひて、あきたる障子より、あなたに通らむとなりけり」
――高い几帳も低い几帳も、(廂の間に二柱間を区切って設けた一つが)仏間の御簾のところに押しつけて、薫の所の襖に向かって開いている襖から、あちらへ通ろうとしているのでした――

「まづ一人たち出でて、几帳よりさしのぞきて、この御供の人々の、とかう行きちがひ、涼みあへるを見給ふなりけり。濃き鈍色のひとへに、萱草の袴のもてはやしたる、なかなかさまかはりてはなやかなりと見ゆるは、着なし給へる人柄なめり」
――先ず一人のお方(中の君)が立ち出でて、几帳の透き間から外に目をやり、薫のお供たちがあちこち往き来して涼んでいるのを眺めておられます。濃い鈍色の単衣に萱草色(かんぞういろ)の袴がふさわしく引き立ち、却って風変わりで華やかに見えますのは、着ていらっしゃる方のお人柄にもよるのでしょう――

「帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持給へり。いとそびやかに、様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足らぬ程ならむと見えて、末まで塵のまよひなく、艶々とこちたううつくしげなり」
――帯を形ばかりに結んで、数珠を隠し持っていらっしゃる。背丈がすらりと高く姿の美しい人で、髪は袿にすこし足りない位で、先の方まで塵ほどの乱れもなく艶々と梳き流され、多すぎるほど見事でいらっしゃる――

「かたはらめなど、あならうたげと見えて、にほひやかに、やはらかに、おほどきたるけはひ、女一の宮も、かうざまにぞおはすべき、と、ほの見奉りしも思ひ比べられて、うち歎かる」
――横顔なども、実に愛らし人に見えて、肌えは艶やかに、しなやかで大様な物腰など、恐らく帝の女一の宮もこのようでいらっしゃるに違いあるまいと、昔ちらっと垣間見たお姿に思い比べられて、薫は思わず溜息をお洩らしになるのでした――

◆萱草(かんぞう)の袴=紅の黄ばんだ色の袴

◆こちたう=言痛し・事痛し=大げさ、沢山、仰山

◆かたはらめ=傍ら目=横から見た姿、横顔

◆女一の宮(おんないちのみや)=今上帝と明石中宮腹の第一皇女。

◆屏 風(びょうぶ)
 室内に立てて物の隔(へだて)として使われた。室内装飾と しての役割も高く、表面に は山水(せんずい)などの絵が描かれ、色紙形という空白部に詩歌 が書かれることもあった。 使用しない時は畳み寄せたり、袋に入れて保管した。

では9/19に。


源氏物語を読んできて(大和絵)

2010年09月17日 | Weblog
◆平安時代の大和絵(やまとえ)

 アジア一帯に強力な政治的・文化的影響を及ぼした唐は、9世紀末には国力が衰え、10世紀初頭には崩壊した。アジア諸地域ではこの頃から中国の影響を離れ、文化の地方化が進んだといわれている。

 日本においては894年に遣唐使が中止され、10世紀には唐の影響を脱した、いわゆる国風文化が栄えるようになった。漢字をもとに仮名が考案され、和歌や物語文学が興隆し、和様書道が成立したことなどがその具体的な現れであり、大和絵の出現もこの頃と推量される。
 
 唐絵に対する「やまと絵」の語の初出は、藤原行成の日記「権記」の長保元年(999年)10月30日条とされ、そこには「倭絵四尺屏風」に、当時能書として評判の高かった行成が文字を書き入れたことが記録されている。同じ頃(10世紀末 - 11世紀初)の成立である『源氏物語』「絵合」の巻には『竹取物語』『宇津保物語』『伊勢物語』などの物語絵が登場する。むろん『源氏』はフィクションであるが、当時の宮廷や貴族社会において日本の物語を題材にした絵画が享受されていたことが『源氏』にも反映されていると見てよいであろう。  
 
 現存する平安時代の大和絵の遺品としてまず挙げられるのは絵巻物である。四大絵巻と称される『源氏物語絵巻』『伴大納言絵詞』『信貴山縁起』『鳥獣人物戯画』はいずれも平安時代末期12世紀の制作とされている(ただし『鳥獣人物戯画』4巻のうち2巻は鎌倉時代制作)。小画面の絵巻のほかに屏風、障子などの大画面の大和絵も多数作られたことは記録からは明らかだが、現存する遺品は非常に少ない。

◆写真:平等院 中品上生 東扉