ニャンコになってみないと、ニャンコの生きている気持ちがわからないのは当然だが、何となくわかるようなところもある。
二十年近く前、冷たい海沿いの町の古い集落に住んでいたころのこと。そこには野良のニャンコがたくさん住んでいて、彼らの大半は、ヒトと持ちつ持たれつの関係を上手に作っていた。その証拠に、名前のついたニャンコたちがかなりいた。
ある年の冬の終わりころ、一階の窓が完全に隠れるほどの大雪が降った。三日目にはヒトの行き来はできるようになったが、野良たちのうち数匹がなかなか姿を現さない。そのとき思ったことは、どんなに親しくても、野良の住処がどこにあるか、正確な位置をヒトは知らないということだった。なので行方不明の野良たちの探索は難航し、一匹たりと見つけ出すことはできなかった。
ニャンコ同士は住処を知っていても不自然なことはない。しかし、決して彼らは仲間の住処に遊びに行って尻尾を捕まえられたりしないし、もちろんどんなに親しいヒトをも自分の住処に案内したりしない。そんなことをしたら、仲間から総スカンを食らうのだ。
彼らは、自分の住処がヒトに見つかりそうになったら、ただちにそれを放棄する。別の町にいたころのこと。そこにも多くの野良ニャンコの姿があった。あるとき、家の土台の空気抜きの穴の縁に、動物の細く短い毛がいっぱい付いていることに気がついた。しばらく監視を続けたのだが、動物がそこを通過して床下に出入りする気配を一度もかぎ取ることができなかった。ニャンコは、優しげなヒトに甘え、ひっくり返って腹を見せたり、食べ物をねだったりするが、自分の住処を見つけられるようなへまはしないのだ。
ニャンコの方が、ヒトより先にこの世に出現し、ヒトよりずっと苦労して生きてきた。いつの間にか姿を見せなくなるのも、ヒトにはない高度に洗練された知恵を持っているからだと思えてならない。そのようなことがあってから、家の床下に潜るような不遜なまねをしないようにしている。(2014.10.7)