今回は経済からみてみる歴史のお話です。
ふと、日本で貨幣が流通したのはいつ頃からなのだろう?と思ったのです。
国産で製造したのは和同開珎。
奈良時代だったかの時代だったと記憶してますが、平安時代初期頃まで通貨を自前で鋳造したものの、おそらく銅などの生産がふるわずにそのまま減るにまかせて、物々交換の経済になっていったのだと思います。
それを平安時代後期、ひそかに当時の宋王朝との貿易で宋王朝の銅銭を輸入し、貨幣として価値を見出したのが平清盛。
平氏は瀬戸内海の海賊鎮圧や西国への国司などを歴任し、宋王朝などの外国と交易しながら経済力をつけていき、武力と経済力を背景に日本を改革しようとしたのだと思います。
その一端が平安京から福原への遷都だったり、交易を盛んにして国力を高めようとしていたのでしょう。
同時期に東北でほぼ独立勢力を築いていた奥州藤原氏も北方民族などと交易をして経済力をつけていました。
ところが、ここに新興勢力として関東に力をつけてきたのが源頼朝。
彼の政策は武士の生活を守る、権利を守ることが基本。武士の財産は土地。そして商業よりも農業に重きを置く政策でしたが、これが関東の武士達の望んでいた政策だったのでしょう。
鎌倉幕府ができると交易も継続はしてますが、平氏時代よりはおとなしめ。
やがて室町時代になり、再び貨幣としての銅銭を大量流通していきます。永楽銭などの明王朝の銅銭です。
室町幕府は貨幣など経済を比較的にも重視した武家政権だなと感じるのは、関所を設けて流通税を徴収したり、商人への間接税などを徴収して財政を賄っていたことです。
幕府の直轄地は混乱などで管理できない状態だろうに、どうやって財政を賄っていたのかと考えたら、京都などの住民税や流通税、間接税など様々な方法で税金を徴収していたのです。
で、当時は武士などの所領などの広さなどを表す言葉は「貫高制」でした。
貫というと重さなどを表す言葉ですが、これは銭の重さにも使われていました。
まだ紙幣などはない時代、銅銭の重さなどで表現していたのでしょうね。
やがて戦国時代末期、織田信長や豊臣秀吉などが天下統一していくと、徐々に単位の表現も変化していきます。
それが石高制です。
江戸時代はまさにこの「石高」によって武士の収入を表しています。もっとも知行地を持たない(土地経営しない)武士は蔵米扶持として「俵」(ひょう)の単位で表します。
たとえば「〇〇万石」や「〇〇俵〇〇人扶持」と表しますが、これは米の生産高やもらえる米の量を表しています。
江戸幕府は完全に米中心経済の政権ですので、武士へのお給料も基本は米。
これ、戦国時代などの戦乱の時代ではカネよりもコメのほうが価値がありますから当然なんですが、平和な江戸時代まで武士の給料は基本的にお米だったわけです。
もちろん、お米だけ食べてるわけではありません。武士は基本的には消費者ですから、商品を購入します。
購入する際は当然に貨幣を利用しますが、ではいつ貨幣を持つのでしょう?
これは米を年貢として受け取り、または蔵から支給された際に何割かは時価でお米を現金に切り替えることもできました。大名などは大阪などに蔵を用意し、お米を販売して現金に切り替えています。
そして株相場のように米相場があり、お米を取引しながら貨幣に切り替え経済を回していたのが江戸時代なのです。
当時は小判なども流通。
でも東日本では金、西日本では銀が主流で価値観も異なっており、そのために両替商が多数存在していたのです。
当時は地域通貨として「藩札」も流通していました。これは地方自治体の藩が独自に発行し、藩の中だけで通用する地域通貨です。
明治時代になり版籍奉還や廃藩置県を各大名が賛成したのも、賄いきれなくなった藩の財政を明治政府が受け持ってくれるとしたからで、米はあってもお金がないというのが当時の武士だったのでしょう。
で、幕末の開国した際、当時はただの漁村に過ぎない横浜を開港地としたのは、経済力で江戸を圧倒していた大阪を少しでも見返したいという幕府側の考えもあったのだそうです。
横浜を巨大な出島として貿易の場とすれば、江戸から近いので幕府としても管理がしやすく江戸も商売が繁盛するだろうと。
大阪の近くの神戸が開港地として選ばれてるのも、外国から大阪という商人の街の魅力があり、直接大阪にすると混乱すると言い訳しながら神戸ならいいよと妥協したようにみせかけ、神戸も幕府が管理しながらも、じつは横浜にかなり力を入れたかったのだとどこかの本を読んで、歴史のまた違う一面を観た思いでした。
明治時代になり、地租改正などを実施、これは検地が米などの収穫量を把握するのが目的なのに対し、地租改正は米などの現物を税として納めるのではなく、金納に切り替えるために土地の価値をお金に換算して調査した事業なのです。
こうして日本の税はモノではなくカネで納付されることになったのでした。
お金から歴史を眺めてみるのも新鮮でいいもんですね。
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ふと、日本で貨幣が流通したのはいつ頃からなのだろう?と思ったのです。
国産で製造したのは和同開珎。
奈良時代だったかの時代だったと記憶してますが、平安時代初期頃まで通貨を自前で鋳造したものの、おそらく銅などの生産がふるわずにそのまま減るにまかせて、物々交換の経済になっていったのだと思います。
それを平安時代後期、ひそかに当時の宋王朝との貿易で宋王朝の銅銭を輸入し、貨幣として価値を見出したのが平清盛。
平氏は瀬戸内海の海賊鎮圧や西国への国司などを歴任し、宋王朝などの外国と交易しながら経済力をつけていき、武力と経済力を背景に日本を改革しようとしたのだと思います。
その一端が平安京から福原への遷都だったり、交易を盛んにして国力を高めようとしていたのでしょう。
同時期に東北でほぼ独立勢力を築いていた奥州藤原氏も北方民族などと交易をして経済力をつけていました。
ところが、ここに新興勢力として関東に力をつけてきたのが源頼朝。
彼の政策は武士の生活を守る、権利を守ることが基本。武士の財産は土地。そして商業よりも農業に重きを置く政策でしたが、これが関東の武士達の望んでいた政策だったのでしょう。
鎌倉幕府ができると交易も継続はしてますが、平氏時代よりはおとなしめ。
やがて室町時代になり、再び貨幣としての銅銭を大量流通していきます。永楽銭などの明王朝の銅銭です。
室町幕府は貨幣など経済を比較的にも重視した武家政権だなと感じるのは、関所を設けて流通税を徴収したり、商人への間接税などを徴収して財政を賄っていたことです。
幕府の直轄地は混乱などで管理できない状態だろうに、どうやって財政を賄っていたのかと考えたら、京都などの住民税や流通税、間接税など様々な方法で税金を徴収していたのです。
で、当時は武士などの所領などの広さなどを表す言葉は「貫高制」でした。
貫というと重さなどを表す言葉ですが、これは銭の重さにも使われていました。
まだ紙幣などはない時代、銅銭の重さなどで表現していたのでしょうね。
やがて戦国時代末期、織田信長や豊臣秀吉などが天下統一していくと、徐々に単位の表現も変化していきます。
それが石高制です。
江戸時代はまさにこの「石高」によって武士の収入を表しています。もっとも知行地を持たない(土地経営しない)武士は蔵米扶持として「俵」(ひょう)の単位で表します。
たとえば「〇〇万石」や「〇〇俵〇〇人扶持」と表しますが、これは米の生産高やもらえる米の量を表しています。
江戸幕府は完全に米中心経済の政権ですので、武士へのお給料も基本は米。
これ、戦国時代などの戦乱の時代ではカネよりもコメのほうが価値がありますから当然なんですが、平和な江戸時代まで武士の給料は基本的にお米だったわけです。
もちろん、お米だけ食べてるわけではありません。武士は基本的には消費者ですから、商品を購入します。
購入する際は当然に貨幣を利用しますが、ではいつ貨幣を持つのでしょう?
これは米を年貢として受け取り、または蔵から支給された際に何割かは時価でお米を現金に切り替えることもできました。大名などは大阪などに蔵を用意し、お米を販売して現金に切り替えています。
そして株相場のように米相場があり、お米を取引しながら貨幣に切り替え経済を回していたのが江戸時代なのです。
当時は小判なども流通。
でも東日本では金、西日本では銀が主流で価値観も異なっており、そのために両替商が多数存在していたのです。
当時は地域通貨として「藩札」も流通していました。これは地方自治体の藩が独自に発行し、藩の中だけで通用する地域通貨です。
明治時代になり版籍奉還や廃藩置県を各大名が賛成したのも、賄いきれなくなった藩の財政を明治政府が受け持ってくれるとしたからで、米はあってもお金がないというのが当時の武士だったのでしょう。
で、幕末の開国した際、当時はただの漁村に過ぎない横浜を開港地としたのは、経済力で江戸を圧倒していた大阪を少しでも見返したいという幕府側の考えもあったのだそうです。
横浜を巨大な出島として貿易の場とすれば、江戸から近いので幕府としても管理がしやすく江戸も商売が繁盛するだろうと。
大阪の近くの神戸が開港地として選ばれてるのも、外国から大阪という商人の街の魅力があり、直接大阪にすると混乱すると言い訳しながら神戸ならいいよと妥協したようにみせかけ、神戸も幕府が管理しながらも、じつは横浜にかなり力を入れたかったのだとどこかの本を読んで、歴史のまた違う一面を観た思いでした。
明治時代になり、地租改正などを実施、これは検地が米などの収穫量を把握するのが目的なのに対し、地租改正は米などの現物を税として納めるのではなく、金納に切り替えるために土地の価値をお金に換算して調査した事業なのです。
こうして日本の税はモノではなくカネで納付されることになったのでした。
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