エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

陽気で楽しい、は、人間らしさの根源

2013-10-02 03:20:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 第三章第5節 「『共に見る』いろんな悪夢」はいかがでしたでしょうか?

 やり取りがないと「生きているのに死んでいる」状態に人はなります。人が「支配するもの」と「支配されるもの」とにバラバラになります。「支配されるもの」が「生きているのに死んでいる」状態になるのは、分かりやすいかもしれませんが、「支配するもの」までもが「生きているのに死んでいる」状態になるのは不思議ですね。たとえ「支配するもの」がギラギラしていても、そうなのです。いいえ、「支配するもの」がぎらぎらする程度が増すほど、いっそう「生きているのに死んでいる」、といわなくてはなりません。ウソと偽物は、ギラギラしているものです。

 「支配するもの」も「支配されるもの」も、個人は本来「バラバラにできない」individualなのに、それぞれの人自身の心が「支配するもの」と「支配されるもの」の二つにバラバラになっているからこそ「生きているのに死んでいる」ことになるわけです。

 今日から第三章第6節 「ヴィジョンと対抗ヴィジョン」に入ります。とうとう最終節になります。

 

 

 

 

 

 新しく登場した、世界に対する見方において、私どもは自由を自分がコントロールするシナリオの最も強力な大人版を認めようとしてきました。この自由を自分がコントロールするシナリオを、私どもは、それぞれの舞台(発達段階)で、陽気で楽しい想像力が発達することの中に見ましたね。私どもがもう一つお示ししてきたのは、このような陽気で楽しい、ということが、生育歴を通して、自分の経験を心の中で折り合いをつけて秩序づけることに役立つ、ということですし、また、発達しつつある子どもに、うまく働く習慣を教えることになる、日常生活を儀式化することにも役立つ、ということです人間が成長する諸々の段階と、あらゆる社会秩序に欠くことのできない諸々の要素との双方に広く染み透っている、1つの話し言葉、1つのイメージを、価値あるものと認め、承認するのが、まさに、陽気で楽しい、ということの一貫した特質です。この、陽気で楽しい、ということがうまく働いたときには、触れて確かめることなどできないのに、思わず誘い込まれる力と、説得力があるものなのです。もしも、私がもう1つ、あらゆる「共に見る」ヴィジョンの中で類似点を指摘するとすれば、あの積み木遊び、あの夢、「壁のヴィジョン」を思い出すのですが、私が申し上げたいのは、「共に見る」ヴィジョンの中心にあるのは、新しいタイプの人のイメージである、ということです。このイメージは、欠くべからざる自然の、あるいは、歴史上の出来事によって作り出され、決まった時に、決まった場所で登場し、いっそう幅のある、いっそう包括的な自分を確かにする道(アイデンティティ)を代表するのです。この自分を確かにする道(アイデンティティ)は、以前ならバラバラであった、そして実際問題、抑え付けられていた自分を確かにする道(アイデンティティ)を1つにまとめます。この新しいイメージは、新しい生産技術(兵器も含まれます)と一致しますし、事実確認の方法とも一致します。そのようにして、自然のエネルギー源や社会的なエネルギー源を手に入れることとも一致します。その新しいタイプは、1つの話し言葉、1つのイメージを携えていますが、その1つの話し言葉、1つのイメージを通して、神や祖先の声、預言者や建国者の声、先覚者や思想家の声が、その声を聴く者を今にも自由にする、人を元気にする意味があると受け取られるかもしれないのです。すべての偽預言者が偽物であることが暴かれる一方で、その偽預言者の信者は、使い捨ての烙印が押されます。新しい歴史の神話が示すのは、赤ちゃんの頃のトラウマになるような困難も、不思議なくらいに折り合いがつきある運命も変えられて子どもの頃に親を独占したいと思った気持ちは、正当な理由があるものと認められてきました新しい条件が、たとえ、その法的・政治的個性において、注意深く見張られ、導かれても、限りない可能性を永遠に保証することができます。これは、超越的な、自分を確かにする道(アイデンティティ)と、あらゆる考えられる啓示や、死をもたらす事故や大きな不幸の裏をかく、一種の集団的不滅性、を請け合っているようです。他方で、悪」は、心の世界で新しい消極的な、自分を確かにする道(アイデンティティ)を体現します。その新しい消極的な、自分を確かにする道(アイデンティティ)は積極的な、自分を確かにする道(アイデンティティ)の影です。外の世界では、心の世界の新しい消極的な、自分を確かにする道(アイデンティティ)に対応する「人間を上下2つに分けるウソ」に基づく他の人種に、悪が体現されて、たとえその場にとどまることができないとしても、ぶっ殺されなければなりません

 

 

 

 

 

 陽気で楽しい、ということがいかに人間にとって必要不可欠なのかがハッキリ物語られている場です。最終節にふさわしいところです。エリクソンの文書を手掛かりに、陽気で楽しいの重要性をまとめておこうと思います。

1) 陽気で楽しい想像力が発達する中で、それぞれの人が自分で自分の自由、ゆとりをコントロールできるようになる

2) 陽気で楽しい関わりがある時、ひとりびとりの人が、自分の心の中で、なかなか折り合いがつけられずにいた、トラウマになっていた経験を、折り合いがつくものに変えることができる

3) 陽気で楽しい関わりがある時、ひとりびとりの人は、子どもの日常生活を儀式化して、良い生活習慣を子どもに伝えることができる

4) 陽気で楽しい関わりがある時、陽気で楽しい、ということは手で触れて確かめることもできないのに、その関わりの中にいる子どもは(大人も)、その関わりに思わず誘い込まれる魅力を感じ、その関わりの中で伝わってくるものに説得力を感じる

5) 陽気で楽しい関わりがある時、その関わりのある大人と子どもは(大人も)、ヴィジョンを『共に見る』ことになる

6) 陽気で楽しい関わりがある時、その「共に見る」ヴィジョンの中心にある、新しい人のイメージも「共に見る」ことになる

7) 陽気で楽しい関わりがある時、この新しい人のイメージに伴う、1つの話し言葉、1つのイメージも伝えられて、その声を聴いた人は皆、自分がいまにも、さらに自由になり、元気になったことを実感できる

 

 この様に記して来れば、すでにお気付きのことと思います。そうです。陽気で楽しいplayful、が、あらゆる人間らしい暮らしを支える根源なのです。

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