約束の力が、大事です。約束が子どもの(大人も)育ちにとって、必要不可欠なものであることが分かります。その約束を力あるものにするのは、日常生活の儀式化を、確信を持って行う大人が必要です。
結論において、私の分野、すなわち、精神分析に戻りましょう。精神分析は、対抗ヴィジョンとして今世紀に臨床上の教育の形で登場しました。いくつかの重要なやり方で、精神分析は永遠に1つの対抗ヴィジョンであると考えられましたし、また、そのように、考えられなくてはなりません。なぜならば、精神分析が主張しているのは、私たちの実存の観察可能な事実には、無意識のダイナミックな働きも含まれている、ということですし、お互いに矛盾する動機によって決められることのない、リアルな感じもなければ、やり取りのある現実もない、ということです。そのお互いに矛盾する動機は、個人のゆとりも強めてくれますし、社会の自由も強めてくれます。さもなければ、そういった自由を破壊する中で理解されなければなりません。この対抗ヴィジョンは、たくさんの既存のヴィジョン、たとえば、医学的、科学的ヴィジョンと結びついてきました。ついでに申し上げれば、精神分析のおかけで、この国を他のどの国よりも住みやすいと感じます。それは、何人かの精神分析の先達の影響があるから、というだけではなく、私どもの都会的な環境において、古い正当な信仰の残り物を分析し、正当な信仰を捨て去ったことに対する罪責感を和らげてくれる方法を回復するものとして役立つからですし、それと同時に、1つの新しい「正当な信仰」と、たくさんの「新しい」、「フロイト後」の日常生活と言葉の儀式化を創りだすのに役立つからでもあります。
精神分析が対抗ヴィジョンとして役立つのは、それまでなかった別の視点、いっそう包括的な視点を提供するからです。