社会的問題と個人の課題が、「偶然に」重なっていく時、社会の根源的確信となると同時に、個人の魂の救済にもなる、というのは、実に不思議なことではないでしょうか?
ルターが歴史的に独自な役割を得た後に、彼に起きたことは、別にもう一章あっても書ききれないものです。なぜならば、ルターのことを半分書こうとしただけでも、一冊の本に収まり切れない程だからです。青年期のルターと晩年のルターの違いは、とてもハッキリしていますし、第二に、多くの読者にとって、1つのルターのイメージは、不屈の雄弁家として、唯一無二なので、私が「マーティン」と呼ぶのは、ルターの初期について報告する場合にしましょう。初期と言えば、ルターの文献の普通の使い方なら、ルターの20代も含みます。「ルター」と呼ぶのは、ルター派の指導者になった時と場にしましょう、指導者となれば、神話的な自伝を眺めるように、歴史の誘惑で、ルターの過去を顧みたくなりますしね。
ルターのイメージは、当時最大の権威、ローマ法王とカトリックを向うにして、宗教改革を始めた、不屈な雄弁家として、すでに出来上がってしまっています。そのなかで、エリクソンはそのイメージに引っ張られずに、ルターを描こうとしていることが分かります。