エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

社会が良くなること = 子どもが価値あるものと認められること

2013-10-10 03:16:11 | エリクソンの発達臨床心理

 

 現代社会は相対主義の時代ですが、相対主義の時代だからこそ、世代間の対話とやり取りがことさら必要であることが示されました。

 今日は、社会が良くなっていくことと、子どもが価値あるものと認められること、その二つの関係について、大事な話が続きます。

 

 

 

 

 

 私どもの仕事によって、私どもが、ある種の形で、(宗教、思想、科学のような)およそあらゆる「永久の対抗ヴィジョン」に共通のジレンマに直面します。すなわち、そのジレンマとは、離れているのに共感的に観察するというあいまいなやり取り、理論的明快さ、治療的介入、価値への参加の鼎立です。子ども達、青年たち、大人達の治療と研究を、歴史的展望が急激な変化を遂げたこの数十年の間、してきた身としては、私が直面しなくてはならなかったのは、社会的安定と社会的変化の複雑な対話(弁証法)です。いつも大事な事実とは、社会の革新は、かなりの数の子どもたちが安定した根源的な儀式化に参加する仕方次第だ、ということです。安定した根源的な儀式化とは、その「幼子たち」が、確信を持って価値あるものとして認められ、あるいは、言葉で「No」と言ったり、態度で反抗をしめしたりする、意義深い行動パターンを手に入れることができる、ということであり、大人たちが、保守と革新の間で、既存の、あるいは、新しく現れた政治選択をする体制に、創造的に世代を継承する過程において、参加できる、ということです。

 

 

 

 

 

 今日のところは、最高度に大事なところですね。社会が良くなるのは、いつでも子どもが価値あるものと認められること次第だ、ということは、いくら強調しても、強調しきれないところです。それはまさに、子どもの自由、選択の自由があるかどうかであり、大人の自由、選択の自由があるかどうか、ということでもあるのです。価値があると認められることと、自由がある、選択の自由がある、ということとは、数学的な意味で=なのです。「価値が認められること = 自由がある、選択の自由がある」 なのです。ですから、子どもの自由とは、親や教員が言うことに、言葉や態度で「No」とはっきり言えることですし、大人の自由となれば、保守と革新の政治的選択ができることなのです。

 この点、日本の現状は、あまりにもひどい状況です。子どもが親に「No」と言える家庭や学校は、極めて少数ではないでしょうか? 子どもが家庭で「No」と言おうものなら、虐待(暴力だけではない、無視・相手にされない・ネグレクト存在を否定されるような言葉の暴力の方がはるかに多い)に直結するでしょう。子どもが学校で「No」と言えば、教員はすぐに「校則なんだから…」「授業なんだから・・・」と言い張り、(悪)知恵を働かせて、子どもに有無を言わせない、「No」と言わせない体制を作ることでしょう。

 ですから、私どもは、自分たちが暮らす社会を良くしたいと、本気で思うのならば、子どもが毎日「No」と言えるように、喜んでしてまいりましょう! 同時に、日々の生活の中で、保守と革新の間で、政治的選択ができるようにしてまいりましょう!

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