青年期の危機が、一つの人生の分かれ道であることが、改めて分かりました。その危機のおかげで、「生まれ変わった」ようになれる場合があります。この場合、今までは気づかないで、見過ごしていたディテール、細々したことや、やはり見過ごしていた、大局的視点を考慮に入れることが出来る様になります。別の言い方で申し上げますと、「こんなところにも、楽しみ(喜び)があるのね」という感じの発見が増えて来ますよね。
ですから、大昔の詩人は歌っています。「あなたの若き日に、あなたの創り主(自分も生かし、人も生かす恵みをくれる存在)を覚えよ」なのです。
ルターは、ひところは、かなり危なっかしい青年でしたし、一群の葛藤に取り囲まれていたように思われます。その葛藤は概略が分かるようになってきましたし、その葛藤の構成を分析するようになります。ルターが魂の救いを見出したのは、なにも、時にかなった治療的に賢い先輩が、オーガスティンが秩序を作る時に助けてくれたわけではありません。彼の魂の救済は、1つの政治的で心理的な空虚感を、大概埋め合わせるものでしたが、この空虚感は西洋の重要な一部のキリスト教国で生み出されたものでした。このような偶然が、特定の人格的な恵みの発達とさらに偶然の巡り合わせがあると、歴史的「偉業」になります。これから私どもはルターの青年期の危機を、彼が天賦の才を展開し、思想家として独自性を最初に発揮するまで、つまり、新しい神学の誕生までたどることになります。それは、彼にしても、彼の話を聴いたものにも、詩編についての最初の講義をした時(1513)には、まさか根源的革新になるとはすぐには分からないものでした。
社会の問題と個人の問題が重なり、社会の革新と個人の救いが重なることは、偶然の一致かもしれません。しかし、そうとばかりは言えないのかもしれません。