エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

青年期の危機の行方

2013-10-19 03:33:36 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人生の危機は、正面から取り組めば、自覚的な人間になる契機にもなれば、逃げていれば、いつまでも無意識に支配され続ける人のママでいることにもなる。人生の危機はチャンスであると同時に、ピンチなのです。

 

 

 

 

 

 私は青年期の主たる危機の事を、自分を確かにする道の危機と呼んできました。この危機が生じるのは、ひとりびとりの若者が独力で大事な見通しや指針、役に立つ纏まりを、子どもの頃に身に付けたことで、実際に役立つこと、「大人になったらこうなりたい」という望みから、創りださなくてはならない人生の時期です。この若者が見つけ出さなくてはならないのは、自分の中にあることが分かってきたことと、自分の意識を研ぎ澄ます時に、他者が自分に対して望んだり、期待したりするのはこれだと分かることと、何か相通じることはないのか? ということです。このように申し上げますと、これは常識ではないのか? と聞こえてしまう嫌いがあります。どんな健康でもそうですが、健康は、それを手に入れている人には、自明なことなのに、自分が健康でないことが身にしみている人には、手に入れ難いと思われるものなのです。病気になって初めて、体が複雑に出来ていることに気が付くものです。個人のことでも、歴史上のことでも、危機に陥って初めて、人間のパーソナリティの相関関係にある諸要素が如何に微妙な組み合わせでできているのかが、ハッキリします。ずっと以前に手に入れた能力と、今現在手にすることが出来るチャンスの組み合わせも微妙なものですし、個人が発達する際に展開する完全に無意識的な前提条件と、世代間の危ういやり取りの中で、繰り返し再生産される社会的条件との組み合わせも微妙です。ある階級、ある時代のある青年にとっては、この危機最小限に収まることもあります。ところが、別の階級、別の時代の別の青年にとっては、同じ危機が、一つの臨界期、すなわち、一種の「第2の誕生」としてハッキリと区別されるでしょう。この臨界期は、不安の広がり、ないしは、人生を賭ける価値が分からなくなる人が非常に増えること(閉塞感の広がり)で、悪化します。若者の中には、この危機に屈して、あらゆる種類の不安障害(神経症)、精神疾患、非行に陥る場合があります。また、宗教や政治に関することで、あるいは、自然や芸術に関することで、何らかの価値を実現しようという運動に情熱的に参加することを通して、この危機を解決する若者も出てくるでしょう。さらには、延長された青年期に見える時期の間中、悩んだり、道を逸れたりしていたのにもかかわらず、新しい生き方に対して、ささやかではあっても、その人ならではの貢献をするようになる青年もいることでしょう。この人たちがとても危険に感じたことのおかげで、見る力と語る力、夢見る力と物を計画する力、段取りをつける力と物事を構成する力を、新しいやり方で動員せざるを得なくなるのです

 

 

 

 

 ここは私が多くを語る必要がないところかもしれませんね。それだけエリクソンの記述が見事です。危機は、人が生まれ変わるほどのチャンスにもなる。そこには、新しい生き方の香りがしますよね。また神経症、精神疾患、非行に陥る場合もあります。価値に賭けるムーヴメントに熱狂的に参加する人もいるでしょう。エリクソンのいうことの繰り返しです。

 日本の状況を考える時、まさに閉塞感の広がりと深まりの中で、青年期のこの危機は、非常に深刻で、病気や引きこもりや自殺に至るケースが、ビックリするほどたくさんです。しかし、私は、すでに新しい生き方が、日本のあらゆる意味での端っこに芽生えつつある、と感じます

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