エリクソンは、精神分析が仕事を無視してきたのは、結果としてというよりも、仕込み段階からだ、と見ています。
これは、より広い問題の一部ですし、今現在、精神病理や社会学の多くの文献で議論されているのは、精神病理によって、受苦的存在は自己規定的で、自己治癒する役割の牢獄となってしまう、ということです。そこでは、「受苦的存在」であるクライアントが育てることができなかった能力は、学問それ自体にその能力を生かす刺激もチャンスもないがために、育たない、ということが明らかです。それはまるで、公に禁じられているかのようでした。
精神分析はやはり、仕事に関する視点が欠けていたがゆえに、クライアントの仕事に対する能力を引き上げることができなかったことが、ここで改めて示されました。それでは、受苦的存在を通して、仕事に関する力を伸ばす、ということができないのです。