社会の革新が、子どもひとりびとりの価値を認めることとイコールである、ということは、あまり日頃意識しないことではないでしょうか? 社会の革新となれば、人権を守り、発展させる事業の制度化、民主主義的な制度の整備などで、その基礎、根源である、人の人権、自由とは何なのか? という最深欲求に近い問までは問わないのが普通でしょう。しかし、よく考えて見れば、基本的人権、人の自由とは、ひとりびとりの価値、生きていて良いという感じを肯定することですし、それはまず弱い立場の人の人権を認めていくことから始まることに思い至ります。そうすれば、子どもの人権、子どもの価値を認めていくことが、社会の革新には欠かせないことだと、改めて気付かされますよね。しかも、そのように意識することが、基本的人権を日常的に意識して、人と関わることに繋がりますから、とても大事な視点であることにも、改めて気付かされますね。
Toys and Reasons. p. 173 第2パラグラフ。
子ども時代のとっても大事ないろんな持ち味を,人がいつまでも持ち続けられるかどうかは、陽気で楽しいという人品も含めて、子どもが成長する過程の日常生活を礼拝にすることが,かなりシッカリ出来ていることにかかっているのならば、父親などや母親などが、子どもの日常生活を礼拝にすることがシッカリ出来ることに対して、過去の生育史において、相対的にどれだけ役立ったのかを、ハッキリさせることは非常に大事になります。それと同時に、こういった父親たちや母親たちの助けが、思慮深い責任分担によって、今現在、さらに役立つ方法を考えることも非常に大事になります。1人の子どもが、強くて、柔軟で、人のためになる良心を1つ、ゆとりのある陽気で楽しいことも伴って、育むことは、人のために役立ついろんな人生の習慣を生きる中に,いろんな倫理的価値が生きていることに対して、なるほどねと,腑に落ちるくらいに確信を持っている大人が道案内をして初めて出来るなことなのです。しかしながら、こういった人生の習慣は、世代を育む中で生まれてくる新しい子どもたちから、繰り返し繰り返し、フィードバックしてもらうことがなくなれば,腑に落ちるほどの確信も保てませんし,柔軟性も保てませんからね。そのフィードバック1つあれば、(訳注:母子関係などの)対人関係の「決まった形」(訳注:である日常生活を礼拝にする形)を確立することができます。そのフィードバック1つが,心の仕組みと外の仕組み(対人関係と人生の習慣)とがやり取りすることに役立つから(訳注:直訳的には,場合です,と訳します)です。あるいは、そのフィードバック1つあれば,あの「人生のスピリット」の約束が、繰り返し繰り返し、腸に染み渡るくらいに納得できますからね。この「人生のスピリット」が、(訳注:考えなしの自動運転の人生の中で)水ぶくれになった「形ばかりのウソの関係」(ritualizm)に堕落すると、ウソつきの勝手気ままになるか,他罰的に人を裁く悪い良心になるか,の間をフラフラしたり,あるいは、わがままか,厳しいか、の間をフラフラしたり、はたまた、衝動的になるか,強迫的に形ばかりのウソをやる,の間をフラフラすることになってしまいます。
「人生の習慣」というエリクソンの神髄をしめす,最大級に大事なところです。
大江健三郎さんが言う「人生の習慣 ディ・ハビット・オブ・ビーイング」と同じです。
それはすなわち,「日常生活を礼拝にすること」です。