1人の子どもが、強くて、柔軟で、人のためになる良心を育むためには、日常に生きている倫理的価値を確信している1人の大人が、礼拝を行う必要がある、ということは、非常に大事な視点です。いま、日本社会が混沌としているのは、突き詰めて言えば、そのような日常生活の中で生きている倫理的価値が見えなくなっていることですし、そのような価値に確信のある大人が非常に少なくなっていることに、「原因」があると言って、間違いありません。もっと端的に言えば、揺るぎない信頼の衰退です。
さらに、もしも、青年期が、子どもの頃の礼拝によって身の付けたやり取りの強さとパターンが、社会的な役割体系に出会う、厳しい試練の時期であるとするならば、社会的秩序の中で、画期的な、陽気で楽しい、ということと実験的な情熱とが生き残る諸条件について研究することが大事です。最終的にもしも大人になってから、倫理的に生きる方向性が義務的なっても、精神分析の登場を通して、非常に意識的な命令になったのは、世代を育むことに対して払った配慮のある注意の点で、まさしく未来を守ることです。
子どもの頃の礼拝によって身に着けたやり取りを、大人になってから、家庭や職場で行うには、それなりの知恵と力が必要です。しかし、そうしなければ、次の子どもたちに、儀式化を通して、強くて、柔軟で、だからこそ、人にためにもなる良心をプレゼントすることはできません。
倫理的に生きる方向性がハッキリしていることは、これも大人になって、家庭や職場で実際に生きようとすれば、大きな困難と誤解に遭遇しますから、それなりの知恵と力が必要です。しかし、倫理的に生きる方向性がハッキリしさえすれば、それがたとえ義務的なものであっても、子どもはでっかい良心を手に入れることができるので、未来を守ることになるのです。