心理療法を生業にするわけではない、ルターが受苦的態度を大事にしていたのは、受苦的態度そのものはセラピストの根源的態度であることは変わりませんが、何もセラピーや心理療法の専売特許ではない、より普遍的な、人間の人間に対する1つの態度である、と考えた方がよさそうです。
ゼーレン・キルケゴールは、ルターのことを、同質の「神を恐れる人 homo religiosus」の1人に対して、共感的な客観性によって判断できる1人ですが、かつてある言葉を発しています。この言葉は、私が自由にできる手段によって接近できる、と感じる課題を一纏めにしています。彼は日記に次のように記しています。「ルターは、…キリスト教会全体を重視しすぎた、1人の患者です」。この言葉を、元の文脈から取り出す時、私が申し上げたいことは、キルケゴールはルターを臨床的に「事例」という意味で患者(patient)と呼ぼうとしているのではない、ということです。むしろ、キルケゴールは、ルターの中に、1つの宗教的態度(受苦的態度 patienthood)を見出したのでした。この態度は、元型的で、圧倒的に有力なやり方で、例示されます。この言葉を、この本のための一種のモットーとして位置づける時、私どもの展望を、臨床に絞ることをしません。むしろ、私どもは臨床的な展望を広げまして、受苦的態度という生き方を、課された苦しみ、治療のためには猛烈に必要なことという意味として、あるいは、(キルケゴールが付け加えている通り)自分が苦しんでいることを表現し、記述するための1つの情熱(passion)として、考えに含めます。
受苦的態度は、1つの生きたかであり、治療のためには猛烈に必要なこと、自分の苦しみを表現する情熱と考えます。ですから、非常に広い意味となり、臨床以外にも、あらゆる人間関係において、応用可能となるでしょう。