エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

曖昧さと不純物は、肥やしになる

2013-10-22 03:25:02 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンがルターという既成イメージが強烈にできている人を、別の視点から再構成しようとする、大胆で意欲的な試みをしようとしています。ここで、呼び名を「ルター」とせずに、当面「マルティン」とすることが述べられています。その使い分けの基準も示されています。しかし、エリクソンは、なぜ、このように、20台までの初期の名を「マルティン」としたのでしょうか?

 

 

 

 

 キルケゴールの言葉には、第二の部分があります。それは、キリスト教国にとって、非常に重要な部分です。これには、個別の「ケース」がどのように、重要な、歴史的な1つの「出来事」になるのか、を良く調べなくてはなりませし、ルターの時代に、北のキリスト教国が直面していた、スピリチュアルであると同時に、政治的に、自分を確かにする道(アイデンティティ)の危機に関して、明快に述べておくことも必要です。実際に私は、このようにしていれば、方法論的な不確かさや不純物を避けることができたでしょう。この方法論の不確かさや不純物が間違いなく生じてくるのは、1つの事例が、歴史的出来事の単なる付属品としか考えていない人たちに向けて、1つの事例史(既往歴)を書いたり、歴史的出来事を託したりすることを生業とする私の仕事をコツコツやるからです。しかし、私ども臨床家が最近学習したことは、1つの事例史(既往歴)は、歴史から引き離すことはできないということです。歴史家たちが、歴史的出来事の論理を、この歴史的出来事と交差する、人生の歴史の論理と分けようとする時、歴史家たちは、大事な歴史的課題をうっちゃらかしにしてはいまいか、とさえ、私どもは疑います。ですから、私どもは、リスクを冒さなければならないのかもしれませんね。そのリスクとは、ちょっとした不純物は、ハイフンで結ばれた、心理‐社会的な研究や、他のハイフンで結ばれた研究においては、付き物だ、ということです。多少の不純物は、今日の学際的研究の努力という、肥し作りに伴う熱なのです。この学際的研究の努力という肥しが、新しい学問という畑を豊かにするのを助けることになるかもしれませんし、新たな方法論的明確さという将来の花を育てる助けになるかもしれませんからね。

 

 

 

 

 近代科学は、中村雄二郎が述べるように、普遍性・論理性・客観性という強固な論拠を持ちます。したがって、方法論においても、不確かさや不純物を嫌います。しかし、相対性理論と核の登場以降は、この強固な論拠も非常に怪しいものになってきました。

 今近代科学が見落としたり、軽視したりしてきたことを、もう一度よく見て見る必要がある時代です。今日のところでエリクソンが述べていることは、まさにそのことです。ですから、臨床は、純粋科学では賄えない以上、当面(?)、不確かさや不純物を、新しい方法論や研究分野の肥やしとして必要としています。

コメント
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