精神分析が、永遠の対抗ヴィジョンとして、「フロイト後」の「新しい」日常生活の儀式化を創りだすのに役立つ、というのは、実に愉しみですね。それは、また、“新しい約束”をもたらしてくれるのでしょう。
他方、精神分析は、その本性からして、その永遠の使命において、すなわち、無意識の力を研究することにおいて、どこででも抵抗を受け続けることでしょう。この無意識の力は、臨床の場で観察をする中に姿を現し続けるととともに、理論的関心が変化する中に姿を現し続けます。そのいずれの場合も、観察するものが、変わりゆく歴史の中の相対的な立場から、自分自身を観察することが必要になります。このことは、様々な観察者達が、変化するヴィジョンの影響をどのように受けるのか、ヴィジョンが変化していることにどのように気付かないのか、ということを研究することも含みます。さらに、ある分野、ある国(それから、その一部)で、1人の観察者に、何が印象を与えるかを研究することも含みます。1つの活気のあるヴィジョンを求める命懸けの闘いも、別の国や集まりの1人の観察者にとっては、物好きな性癖、ないしは、異常に過ぎないと見なされるかもしれないのです。
精神分析が、無意識の力を研究することに、 異論のある人は少ないだろうと思います。しかし、そうするためには、自分自身を観察者がよくよく観察していなくてはならない、といいます。1人の観察者の見方は、絶対的なものではなく、相対的なものだからです。すべての観察者の見方は、相対的なのです。
しかし、その相対的な見方に過ぎない見方に対して、日常生活の儀式化をするためには、確信を持っていることが必要なのです。冷めた精神と同時に、温もりのあるハートも必要です。